
予報通り太平洋側は春の嵐、春一番が観測されたところもある。春一番を聞くと思い出すことがある。携帯電話やスマホの今の時代なら決して起きない短い短いお話。それは昭和30年代の中ごろ、春の大荒れの日だった。
親友のNは終業後に日本でその名を知らない人はいないという有名な人のコンサートに行くことを、付き合っているHさんと約束していた。終業まえから雨足が強くなっていたが、それだけではなかった。退社支度を始めたとき、担当の製造ラインでトラブルが発生。放って帰るわけにはいかない。が、Hへの連絡方法はない。コンサートは途中入場はできない、気になりながらもトラブル処理を終え、会場へ急いだ。といってもバス。
Hは会場入り口でしょんぼりしていた。遅れた理由などHの中に届くはずがない。ひと口の会話もなく食事を終え、Hをタクシーで送った。車内は暖房でぬくぬく、二人の気持ちには冷たい雨が降りこむ。タクシーを降りるHに見向きもせず、自宅の場所を運転手に告げた。
「仲直りできましたね」と運転手の声に怪訝な顔したNに、運転手は反対のドアの窓を見るよう促す。外は冷たい雨、車内の暖房で曇った窓に「ごめんなさい」と6文字が書き残されていた。文字の様子から降りる直前に書いたようだ。見ているうちに曇りは滴となって流れ、やがて文字を隠した。奇しくもその日は春一番の吹いた日だった。
そんなことがあって、しばらくしてNとHは結婚した。二人には本当に春を呼び込んだ一番になった。先日、孫を連れたNに出会った。孫の顔はHによく似ていた。