空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

「差別」「アイデンティティ」なんて単語に反応する向きは読むとよいと思う

2011-12-07 13:00:00 | 本・論文・研究メモ
ともあれ,異人論の第二楽章が幕をあけたようだ」(赤坂憲雄『内なる他者のフォークロア』岩波書店,2010年,viii)

 彼は『異人論序説』文庫版あとがきで「…わたしは逆に,自身に異人論を生のままに転がしてゆくことを禁じ,半ばは封印することを択んだ。この封印を解き,いずれ『異人論』の本体を書く日がやってくるのか否か,今はわからない。それはいわば,わたし自身の仕事のこれからの流れがおのずからに決めることだ」と述べた(1992年,ちくま学芸文庫版334頁)。

 一応私は,彼の本の愛読者と称してもよいだろう(新著が出版されても気づかない愛読者というのも難だが)。異人論序説は学部生時代以来,何度読んだことか。だからその続編が意図されていることに,私は喜ぼうと思う。

 大変読みやすく,売れ筋であるので(それゆえに落とし穴があちこちに口を空けていたり,読者を傷つけすぎないよう配慮された個所もあろうが),「差別」「アイデンティティ」なんて単語に反応する向きは読むとよいと思う。

 さてわざわざ読み始めた本のメモをするのは:

@pipechair mash@十番町の会 「この手の輩でもっとも下品だと思ったのは「おまえたちが俺のことをどれだけ憎もうとも、俺が日本人であるというアドバンテージは消えない!」と高らかに宣言してた奴。ああ、殺意ってこういう時に抱くのかと学習した。人間、品性を捨てようと思えばどこまでも下品になれるんだなあ。自覚なしで。」(2011/12/7)

 こんなんを見かけたからであったり。
 経由地の某師匠筋が如何なる意味でメモを取ったのかは,無論他人の心中であるので分かりかねる。だが私の予測する―あるいは共感する―範囲にその思いがあれば,以下の言葉に大いに感ずるものがあろう(赤坂風を目指してみた):

しかし,あえて断定的な物言いを選べば,常民とは差別/被差別のダイナミズムの結晶である。常民が常民として,そこにあるためには,常民にあらざるものを必要とする。常民は常民にあらざるもの,それゆえ〈内なる他者〉の排除のうえに,はじめて常民としての姿をあらわにする。常民こそが,だから差別の主体である」(『内なる他者のフォークロア』6頁)

常民こそが,だから差別の主体である」とは重い言葉である。ここで言う常民とは,やや比喩的に言えば”農耕定住民”という種類のものだ。だから私(たち)のような,多少なりと根無し草の属性が入ったモノは彼らとは視点が異なる。そこで『ああ,***などという発言はなんと差別的なことであろうかなあ』などと気付くことがある。

 さて,ところで,差別なるもの,これは固定的な関係ではなく,運動する過程である。しかも,自然誌的なものとして(我々が)偽装するところのものだ。

 つまり『俺が日本人であるというアドバンテージは消えない!』と宣言するような向きは,既に自分たちを憎む一定の集団を予定し,それに対する運動として自分の差別感情を正当化する。

 これを指弾する立場(の一つ)は,『差別はよくない』という感情なり,全市民の平等などという確信・信仰だったりするだろうが,そうした自然な感情・普遍的たるべき命題を持ち出す。

 すると今度は”アドバンテージ”の彼は『自分は自分の尊厳を主張する(だけ)なのに,なんでお前たちは差別するのだ,この差別主義者め!』と思い,なぜ彼らが差別するかと言えば,それは彼らが差別主義者であるからだ!と考えることだろう。この際,彼にとっての指標は「日本人」と「それ以外」とであるため,(たとえば)私は―「日本人」たる彼と同一の思考過程を経ないが故,日本人以外の者と判定されてしまうだろう。

 …まあその,radical Islamistsにいま一歩,という思考法ではありますが。『正統なるイスラムの教えを実行する我々!』な自己意識ではあろう,彼らも。
 で,(まだ穏健とは言い得るであろうかもしれない程度の)Islamistsを攻め滅ぼそうとする政府勢力に対して,ないしは彼らが爆弾テロで一般人を吹っ飛ばすようになったら彼らに対して,一般人はいうだろう『なんでこんなことするんだ,同じムスリムじゃないか』。この場合,「ムスリム」という概念の定義がそれぞれで異なっているわけだが。同じ名詞で指しているにも関わらず,内容は重層的だったり,下手すると異質的だったりする。

 しかし,この自己を定義する言葉は,現実的には,恐らくは複数的である。経済的に進展していない場合―いや,端的にこの場合,このblogの傾向としてもアフリカ諸国の場合,帰属意識はまず「半数近い回答が民族に関係していた」(コリアー『民主主義がアフリカ経済を殺す』p.93)。だが少なくとも,彼らであっても,氏族・支族・家系・社会階層…で差異を見いだし,分化することだろう。

 我々(と無批判に使っておくが)の場合,たとえば「私は自分の出自に誇りをもつ一方で,ヨークシャー人というアイデンティティーよりもいっそう強く,自分のことを「経済学者」だと位置づけるだろう」(コリアー『民主主義がアフリカ経済を殺す』p.94)という具合に,「職業人」の概念などを介入させてみたりもするだろう。

 してみると,実は既に「私」は複数なのだ。

 既に「そう」ある事実を無視して「私は日本人である」「我々は日本人である」(別に述語部分は何でもいいが。「韓国人である」でも「台湾人である」でも「無国籍人である」でも※)とのみ主張すれば,それこそ自然誌的事実を無視した”報い”を受けようというものだ―たとえば議論の場においては,論理の穴をあけまくることであろうが。

 ところで私は自分を「学者」であると,まず第一には主張するが,まあ雇われ教員の身ではあって。哲学的考察も業務の一領域なのではあるが,まあほかに講義やら学務やらいろいろあって考察ばかりやっているわけにはいかない。なので隙間の時間にこうしてメモだけ書いて,もってここを備忘録としておく次第。



※なお参照,おおやにき「可哀想と気の毒(1)」「可哀想と気の毒(2・完)

 まあ以上,読み返すと文意が不明瞭だったり文の連続が怪しかったりするがメモだからいいや。

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