会津若松市一箕町八幡弁天下、飯盛山の一隅に門を構える「宇賀神堂」。創建「江戸時代初期の寛文年間(1661~1627)に会津藩三代藩主『松平正容』により「弁財天像と五穀豊穣の宇賀神(白蛇)」を勧請し社殿を建立した事が始まりとされる。」
社殿は木造平屋建て、桁行3間、梁間2間、入母屋、銅板葺き、平入、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。
内部には戊辰戦争で飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像を安置。霊像は明治23年(1890)、白虎隊の墓碑を改修した際、若松城下滝沢村出身の仏師『大橋知伸』と『田中治八』によって製作されたもので、フランス風の軍服を着ています。
奉納額「〇白虎隊士が自刃の際唱和せし詩吟 人生古ヨリ誰カ死無カラン 丹心ヲ留取シテ汗青ヲ照ラサン 〇飯沼貞吉正念出陣にあたり 母文子がおくりし歌 梓弓 向う矢さきはしげくとも 引きな返しそ武夫の道 」
奉納額「〇郭門を守り城に入らず敵中に突進して戦死せる野矢常方老辞世(六十七才) 弓矢とる身にこそ知らめ時ありて 散るを盛りの山ざくら花 〇城外出撃に率先参加して戦死せる三坂逸八辞世 武夫の強き眞弓を引くときは 還らぬものとかねてこそ知れ 〇娘子軍として薙刀をふるって戦死せる中野竹子女辞世(二十二才) もののふの猛き心にくらぶれば 數には入らぬわが身ながらも 」
奉納額「会津白虎隊自刃乃図」
「白虎隊士供養車。この車を手前にまわすと悲痛な音を発し、これが冥土に届いて白虎隊の霊魂を慰めます。また石の台座は中国伝説上の「獏」と言い夢を食べることから、頭に上ると悪夢消滅の願いを叶えると言われます」
寛政8年(1796)、飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂「さざえ堂」。
「旧正宗三匝堂(さんそうどう)」。らせん階段が内部を貫く独特な構造で、一度通った所は二度と通らない。例えていうなら、DNAのらせんとよく似た構造で、世界的にも類のない建築物であるとして国重要文化財に指定されています。
さざえ堂入り口。
向拝や貫にまとわりつくもの・・私には宇賀神の化身とされる白蛇に見えるのですが・・・
途中に清水が湧き出ており、白虎隊士が城下へ戻る時に喉を潤した水で、そのことから「白虎清水」と名付けられました。今では、霊を弔う慈母子育観音が祀られた祠が建立され、「白虎清水観音」と呼ばれています。
「厳島神社」「永徳~弘和年間 (1381~1383)、多数の童女を従えて現れた美しい霊妃のお告げにより、豪族の石部・堂家・石塚の3家が社殿を建立、正宗寺の別当「宗像神社 (弁財天)」を創建。社殿の建築中にも童女たちが現れ、人夫たちに小豆飯を振舞ったが、いくら食べても減らなかったことから「飯盛」の地名ができたという。」
「水塚・花塚・茶筌塚」明治26年に会津の茶道、花道の功労者である山口儀平翁と、当時会津第一の学者であった宮城盛至翁によって建立。天地自然の恩恵に対し深い感謝の意をあらわされた。「花塚」には松平容保の【花といふ 花をあつめて此の塚の いしもさこそは 世にかほるらめ】が刻まれています。
「星暁邨:彰恩碑」【花みつつ かすみ酌むまのひと時は うき世の外の 我世なりけり】
【天高し ピサの斜塔と さざえ堂 桜桃子(おうとうし)】俳人協会理事、日本ペンクラブ評議員、国際俳句交流会評議員などを歴任した人物だそうです😓
三日に渡って紹介した飯森山白虎隊の史跡は、???な俳句で終了です。悲惨な面のみが語られましたが、白虎隊隊士343名中290名の若者は過酷な時代を生き延び、後の会津若松市の発展に寄与しました。
参拝日:2015年6月29日