飯盛山を後にし、再びハイカラさんでJR会津若松駅に。ここからは、徒歩で市街地に残された素晴らしい建造物を見ながら「七日町駅」に向かいます。まずは、会津の赤べこから生まれた巨大『あかべぇ』とのツーショット。
駅前に展示されていた「C57形蒸気機関車の動輪」。2000年12月、磐越西線SL「ばんえつ物語」の運行開始を記念して設置されました。
大町通りのそぞろ歩き、スタートは大正8年築の「羽金家住宅」。黒々とした瓦葺の入母屋屋根、下見板張りと漆喰壁の建物に明治期の土蔵が立ち並ぶ様は圧巻。
「会津町方伝承館」。「あかべぇ」ならぬ『ふくべぇ』に出迎えられて・・実際のところ、何という名前なのか知らないので勝手に命名😅
風格と歴史を感じさせる佇まいの「小野寺漆器店」。明治初年の建築で、市歴史的建造物に指定されています。町歩き早々にも関わらず、素敵な会津塗のスプーンを購入💗
まっすぐ前を向いて歩くのが困難なほど、見所一杯の大町通りは、大町四つ角を境に「野口英世青春通り」と名を変えます。
野口英世青春通りを進んで大町四ツ角の交差点に建つのは「四つ角大正館」。「旧郡山商業銀行若松支店」として大正10年(1921)に建築されました。
明治17年に建てられた蔵造りの洋館「会津壱番館」。「明治17年に「第六十国立銀行若松支店」として建てられ、その後明治24年(1891)にアメリカから帰国した医師の渡部鼎(かなえ)によって「会陽医院」に改修されました。翌年、野口清作が左手の手術をし、明治26年からは三年半、書生として住み込みました。」現地案内
現在は医院の建物をそのまま使った喫茶&資料館「野口英世青春館」として活用されています。
野口英世青春館に隣接する黒漆喰の建物は「福西本店店蔵」。19世紀後半から20世紀前半に栄えた大商家福西家が、100年ほど前に建てた蔵と商家建築。
大通りに面した店蔵、仏間蔵、炭蔵の3棟の蔵の外壁は、大変手間のかかる黒漆喰で建てられており、通りでも一際異彩を放っています。
明治11年竣工の、白漆喰塗り妻入りの土蔵・蔵造りの建物は「遠藤米穀店 ・遠藤古美術店」。敷地奥の住居も捨てがたい建物だったのですが、うまくカメラに捉えられませんでした。
遠藤米穀店横の敷地にある花壇の石垣は、「会津藩中屋敷」の船入場に築かれていた石垣の石が用いられています。こんな所にも会津藩の遺構が残され、それをきちんと紹介している事に好感度が増します。
「野口英世像」。台石には「忍耐」の文字が刻まれています。
「Dr HIDEYO NOGUTHI」で始まる碑文。傍らの訳文の碑には「博士野口英世-ロックフェラー医学研究所員 1876年(明治9年)1月9日 日本猪苗代に生まる。1928年(昭和3年)5月21日アフリカ黄金海岸に死す。科学と人生への献身の故に彼の生涯は喜んで黄熱病の征服の斗(たたか)いの為に捧げられた。この銅像は彼の親愛なる市民によって彼の偉大なる業績を記念し、かつ将来の若き世代の人々に彼の示範と激励とを要請すべく建立されたものである。 1957年」
訪問日:2015年6月29日