塩尻市広丘原新田、近代短歌の潮流の源ともなった広丘の地に、明治元年(1868)に建築されたこの地方独特の本棟造り民家「塩尻短歌館」があります。公式HPには、建物は柳沢家のご厚意により塩尻市に寄贈されたもので、2009年に国登録有形文化財に登録された旨が記載されています。
その塩尻短歌館の後方、赤松林の中に、塩尻ゆかりの歌人達の碑が建立された「歌碑公園」があり、思わず一首詠みたくなるような(笑)独特の雰囲気を醸し出しています。
【 命ひとつ 露にまみれて野をそゆく はてなきものを 追ふことくにも 】
太田水穂(貞一)広丘村(現塩尻市広丘原新田)に生まれる。
【 あき空の 日に照るみとり にほひ出で 見まはす四方に 阿ふれなむとす 】
窪田空穂(通治)和田村(現松本市和田)。一時、片丘村の村上家の養子となる。
【 いさゝ加の 水にうつろふ夕映に 菜洗ふ手もと明るみにけ里 柿の村人 】
島木赤彦(久保田俊彦)上諏訪町(現諏訪市)。明治42年に広丘尋常高等小学校長として赴任。在職中に広丘歌会を開き、中原静子らを育成する。
【 鉢伏の 山を大きく野にすゑて 秋年々の つゆくさの花 】
四賀光子(みつ)長野市。後に水穂と結婚する。
【 春鳥の いかるがの聲うらかなし 芽ぶきけぶらふ 木立の中に 】
若山喜志子(喜志)広丘村(現塩尻市広丘吉田)。
【 いく重やま みやまの奥の山ざくら 松にまじりて 咲きいでにけり 】
潮みどり(きり)広丘村。姉喜志子の影響を受け、歌を詠むようになる。
【 うす紅に 葉はいち早く萌えいでゝ 咲かむとすなり 山ざくら 】
若山牧水(繁)宮崎県。太田喜志と出会い結ばれる。
歌人の散歩道に建立されていた若山喜志子の歌碑
【 水車小屋 へだてて見ゆる苗代の 小田に群れなく 夕蛙かな 】
「広丘国民学校碑」「広丘小学校の前身である広丘国民学校。校歌は、長野県出身の著名な歌人・国文学者である太田水穂によって作詞されたもの。校歌を記録するために、2010年に卒業生によって建立されたのがこの碑。デザインは穂高連峰、鉢伏連峰を表現したものである。」現地案内より
【 隣より また隣よりつぎつぎに 牛啼き出でて 村は明けゆく 】
太田青丘(兵三郎)広丘村(現塩尻市広丘原新田)。太田水穂の兄、嘉曾次の三男として生まれ、水穂の養嗣子となる。
公園内に建立されていた「牛馬観世音」「馬頭観音佛」他。険しい峠が連なる塩尻や木曽のような山国における物資の輸送において、牛馬の存在は格別に大きなものでした。馬頭観音の碑や石仏が街道筋に多く見られるのは、そうした牛馬への感謝と無事を祈る気持ちの表れだったのかもしれません。
「牛馬観世音史跡地」碑 「軍馬之碑」
【 刻まれし 文字をたどるわが指に 重なる指の面映ゆし】tibineko
訪問日:2016年4月24日
有名な歌人の歌の言葉づかいと、歌の写すだす情景に惹かされ、最後まで読みました。
私には思いつかない言葉づかいばかりで、おのれの非才が情けなくなりました。最後の歌は、もしかするとtibinekoさんご本人でしょうか。
ほのかなる 色香に酔うて 読みにけり
申し訳ないことですが、こんな感想しか書けませんでした。旦那様に怒られそうです。
こうしたものに出会える幸せ、何物にも代えがたい喜びです。
最期のは・・・・・
お恥ずかしいです(〃∇〃)
ふんわりと暖かく優しい感想を頂き、もう一度照れています