順路の都合で一丁目エリアの最初は、明治の文豪である森鷗外と夏目漱石が、奇しくも相次いで借家した東京都千駄木町にあった和風住宅。「森鴎外・夏目漱石住宅」
明治20年(1887)頃、医学士中島襄吉の新居として建てられたものの、空家のままだったこの家は、明治23年(1890)に『森鴎外』が借家し1年余りを過ごしました。鷗外は、ここに移り住む同年の1月、処女作小説【舞姫】を発表。この家では【文づかひ】等の小説を執筆し、文壇に入っていきました。
明治36年(1903)から同39年までは『夏目漱石』が住み、漱石はここで【吾輩は猫である】【坊ちゃん】【草枕】を発表。文壇にその名を高めました。文中に描写された家の様子は、よくこの家の姿を写しています。
明治の偉人『西郷從道』と言って知らない人も、『西郷隆盛』の弟と言えばわかるでしょうか。明治13年(1880)に東京都目黒区上目黒に接客用に設けられた洋館「西郷從道邸」。従道は陸海軍の大臣を歴任していたため、在日外交官の来客も多く、明治22年(1889)には明治天皇の行幸も仰ぎました。
元老、海軍大臣、内務大臣、貴族院議員を歴任し、元帥海軍大将となった弟:從道。薩長同盟の成立や、江戸無血開城等々、明治維新の立役者でありながら、西南戦争の指導者となり城山で自刃した兄:隆盛。何が兄弟の運命を分けたのか・・・言葉にし難い何かが胸を揺さぶります。
東京目白の学習院敷地内に明治42年(1909)に建てられた「学習院長官舎」。
学習院は江戸末期に京都で始まり、皇室や華族の子弟を教育する学校として明治10年(1877)に創立。明治17年(1884)、宮内省所管の官立学校として発足しました。設計者は、文部省技師『久留正道』。木造2階建ての和館と洋館が接続した形。洋館部分は、執務室・応接室・大広間からなり、公的なスペースとして使われていたようです。
当時の学習院院長は、第10代にあたる『乃木希典』。希典は日露戦争の終結後、明治39年(1906)に軍事参議官という閑職に補せられ、翌40年(1907)1月から学習院長を兼任することとなりました。
洋館の脇に取り付けられた玄関ポーチの屋根はトタン板葺きで、棟包みの前端には御紋章があしらわれています。また褄飾りの中央には学習院の校章である桜の絵柄が入れられています。
日本聖公会京都五条教会堂として明治40年(1907)に建設された「聖ヨハネ教会堂」。
中世ヨーロッパのロマネスク様式をベースに、細部にゴシックのデザインをまじえた外観が特徴。正面の左右には高い尖塔が建てられ、奥に十字形の大屋根がかかる会堂が配されています。
「十字形平面になっている2階の会堂内部は、小屋裏をあらわし、柱などの骨組みが細く見えることで、広さを感じさせます。京都の気候にあわせて使用した天井の竹のすだれが陽光を反射し、より開放的な印象に。」公式HPより
「トレーサリーのステンドグラス」は、昭和9年(1934)の室戸台風の来襲で破損しましたが、1998~1999の保存修理の際に復原されました。
明治村の中で最も南に位置する一丁目エリア。文明開化を感じる明治時代の建築物、まだ続きます。
訪問日:2011年6月4日
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