吉香公園・錦帯橋周辺には、実の沢山の顕著碑や文学碑、銅像などが建立されています。実は秘かに「碑&像」ファンの私、今回も実に沢山の「碑&像」を画像に残していました😊 トップは錦帯橋の袂に建立された「皇太子殿下(昭和天皇)行啓記念碑」。大正丙寅三月で始まる碑文には、この行啓が岩国城下始まって以来の名誉である旨を「嗚呼巖邑開基三百有餘年斯橋竣成亦二百五十餘年而始印 玉趾」と刻んでいます。
続いて「吉川廣嘉公像」。岩国領3代目領主で、延宝元年(1673)に錦川に錦帯橋を築造した人物です。
「錦帯橋記」碑。弘化2年(1845)、岩国藩士で儒学者「玉乃九華」が撰した文を、明治8年に「桂洲伊藤信平」が篆額・碑文を書き下したもの。
吉川家の祖霊が祀られる「吉香神社」の境内、緑の一画に「田中穂積」氏の胸像と楽譜・歌詞碑。
「安政2年(1855)に吉川藩士:田中判右衛門の次男として誕生。明治6年、志願して海兵隊に入隊し軍楽隊に配属され、明治23年に海軍軍楽師に任命。明治28年、大本営付きとなり、明治天皇の側近として奉仕。明治35年、私立佐世保女学校で音楽を教授し、教材として代表作「美しき天然」を作曲。明治37年、長崎県佐世保市にて心臓麻痺で死去、享年49歳。」碑文より
碑面には一番の歌詞後半が楽譜と共に刻まれています。【聞けや人々面白き この天然の音楽を 調べ自在に弾きたもう 神の御手(おんて)の尊しや】。美しい言葉にピッタリの美しい曲・・・いわゆる文部省唱歌が大好きだった母の影響で、歌詞さえあれば今でも多分歌えます😊
「国木田独歩記念碑」【 岩國の時代を回顧すれば 恍として更らに 夢の心地す 獨歩 】
【 虫に忘れられて 立ちいるひとり 】高橋金窓
岩国ロープウェイ山麓駅の後方に建立された「致遠有坂先生之碑顕彰碑」。『有坂長為』は、周防岩国領主:吉川家につかえていた江戸時代後期の砲術家。家伝の砲術に満足せず、長崎で「高島秋帆(しゅうはん)」に高島流砲術を学び、中四国随一の砲術指導者となった人物です。
で、どんなに探しても該当する答えに辿り着けなかったのが、頌徳碑と思われる碑。「致遠有坂先生之碑顕彰碑」と同じ場所に建立されているにも拘わらずそれらしき紹介が無い😔💦
岩国美術館前に建立された銅像は「日本のエジソン」と呼ばれた「藤岡市助博士」像。若き日の彼とエジソンとの交流は、その記録を読むだけで胸が熱くなる内容ですが流石に長くなるので・・東芝の創業者の一人で、白熱電球の製造や電気の普及に貢献した人物です。
白山比咩神社境内の一画に建立されていた、『藤岡市助先生』の立志の碑。「至善:僕は人に役立つことをしたい」と刻まれています。
錦帯橋に向かう途次の「錦帯橋いざない街道」と名付けられた道路沿いに、1997年に錦川鵜飼復活50周年を記念し、岩国鵜飼振興に尽力した玉田空空子と村井一露が詠んだ俳句碑が建立。
【 鵜飼いの宿と いう高張りの 城下町 】玉田空空子
【 荒鵜鳴き 夕月すでに 仰がるる 】村井一露
画像左は、昭和57年の歌会始「橋」のお題で古沢正士氏の詠んだ歌。【 錦帯橋 映ゆ水面(みのも)の かかり火に ほうほうと鵜を 励ます聞こゆ 】
画像右は「岩国鵜飼音頭(作詞・村井一露、作曲・吉田矢健治)」
錦川を見渡すように立つ銅像は、岩国市出身の政治家「重宗雄三(しげむね ゆうぞう)」氏。岸信介・佐藤栄作とともに長州の御三家と言われた人物だそうです。岸信介撰の碑文において、山陽新幹線新岩国駅の設置、岩国港の重要港湾指定、国鉄岩日線開通、錦帯橋復旧等々、地元への貢献が記されています。
「久能寅夫先生」胸像。岩国市出身で、舞鶴海軍火薬廠製造部長、東洋曹達徳山工場長などを歴任し、昭和26年に岩国市長、岩国商工会議所会頭等を勤めた人物です。
撮影日:2015年11月19日
お話は変わり本日25日より30日まで5泊6日で東北に行きます。
が、が、が・・・・
晴れマークが一日もない!それどころか28日日曜は下手をすれば特別警報級の雨予報。
これまで基本晴れ男だったのですが、今年に関してはお出かけ晴天率5割以下。
いずれにせよ遅れがちのブログがさらに遅れてしまいます。笑
今のうちからですが、8月もよろしくお願いします。
これはまた ご亭主殿に話のネタができました。
東北ですか・・懐かしい響きです
と羨ましがっていたら
全日程雨マークって^^;
山間の東北は、雨も風情ありますが
流石に全行程雨は・・
しかも警戒警報級の大雨予報とは・・
雨に濡れて体調など崩されませんように
気を付けて行ってらしてください。