「三尺坊」のあれこれにに未練を残しながら(笑)、「可睡斎」の境内を巡りたいと思います。 「秋葉総本殿」の裏の階段を登り詰めた先に、『不動明王』を本尊とする「奥の院」。
かってこの場所には、朱塗りの荘厳な奥の院がありましたが、2006年12月の火事にて全焼。 当時付近一帯には不審な火災が相次ぎ、奥の院の出火も放火の疑いが濃いといわれています。神仏のおわす地に放火・・・日本人の感性とは思い難い所業に、思わず絶句・・
失われた奥の院の面影は片鱗もありませんが、不動明王は姿を変えて今もこの地に座しています。
2016年12月の参拝では、「秋葉総本殿」の下に「火渡り」の場が作られているのを見ました。 この地は秋葉の火祭りの一つで、行者による護摩炊きの後に「火渡りの行」が行われる場所。 火の中を渡る事で、一切の災火災難が除かれるとされ、参加者も素足になり火の中を渡ります。
本堂前にある「勝軍(しょうぐん)地蔵」は、甲冑を身につけ、武器を持った姿で表わされます。 念ずれば、戦いに勝ち、宿業などを免れるといわれ、特に鎌倉時代以降、武家たちに多く信仰されました。
明治6年の廃仏毀釈の際に秋葉寺から遷座。願い事がかなったら、石を持ち来て奉納するそうです。
本堂近くに建立された愛らしいお地蔵様には、まるで幼子のような赤い頭巾の奉納。 地蔵様に刻まれた【念ずれば花ひらく】は仏教詩人『坂村真民(しんみん)』の詩句。
【 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった そうしてそのたび わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった 】
鎌倉時代初期の禅僧『道元禅師』の言葉に【 花開けば必ず真実を結ぶ 】があります。 期せずして対を成すように感じたのは、詩人の言葉が胸深くに染み込んでいった所為でしょう。
同行者の「危ないからダメ!」の制止に聞こえないふりで向かったのは、急傾斜の石段の先。 ここは12歳で近江佐和山藩主となり、後に上野安中藩初代藩主となった『井伊直勝』の墓所。『井伊直勝』といっても誰??ですが、彦根城を築城した大名と聞かされると何故か親近感UP! (^^;)
墓所の近くには、明治33年に『日置黙仙』によって建てられた「活人剣(かつにんけん)」の碑。 私たちが訪問した時は、碑と活人剣の台座、それにまつわる写真つきの案内板があっただけ。曰く活人剣とは、柳生宗矩が提唱した思想「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」、太平の世における剣術の存在意義を新たに定義したものと言われています。
可睡斎の境内のさらに奥に建立された、ガンダーラ様式の白亜の「護国塔」。「可睡齋」山門の設計に関わった、東京帝国大学教授『伊東忠太』の設計で建築されました。
高さ17.1メートルの鉄筋コンクリート造りの搭に、人造石洗出し仕上げの円形ドーム。 塔に上がる階段には伊東忠太氏の手になる一対の神獣が配置されており、上部にはアーチ型の入り口。 先端には、チベット風とも言われる法輪を伴った塔が、天に向かって伸びています。
エンタシスの柱上には、牛馬に似た不思議な動物の彫像が、はるかな下界を見下ろしています。
「護国塔」は日露戦争後の明治44年(1911)、戦没者八万人余りを慰霊する為、この地に建設されました。
参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日