車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

可睡斎(かすいさい)と護国塔 in 静岡県袋井市

2019年03月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

「三尺坊」のあれこれにに未練を残しながら(笑)、「可睡斎」の境内を巡りたいと思います。 「秋葉総本殿」の裏の階段を登り詰めた先に、『不動明王』を本尊とする「奥の院」

かってこの場所には、朱塗りの荘厳な奥の院がありましたが、2006年12月の火事にて全焼。 当時付近一帯には不審な火災が相次ぎ、奥の院の出火も放火の疑いが濃いといわれています。神仏のおわす地に放火・・・日本人の感性とは思い難い所業に、思わず絶句・・
失われた奥の院の面影は片鱗もありませんが、不動明王は姿を変えて今もこの地に座しています。

2016年12月の参拝では、「秋葉総本殿」の下に「火渡り」の場が作られているのを見ました。 この地は秋葉の火祭りの一つで、行者による護摩炊きの後に「火渡りの行」が行われる場所。 火の中を渡る事で、一切の災火災難が除かれるとされ、参加者も素足になり火の中を渡ります。

本堂前にある「勝軍(しょうぐん)地蔵」は、甲冑を身につけ、武器を持った姿で表わされます。 念ずれば、戦いに勝ち、宿業などを免れるといわれ、特に鎌倉時代以降、武家たちに多く信仰されました。
明治6年の廃仏毀釈の際に秋葉寺から遷座。願い事がかなったら、石を持ち来て奉納するそうです。

本堂近くに建立された愛らしいお地蔵様には、まるで幼子のような赤い頭巾の奉納。 地蔵様に刻まれた【念ずれば花ひらく】は仏教詩人『坂村真民(しんみん)』の詩句。

【 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを  わたしもいつのころからか となえるようになった  そうしてそのたび わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった 】

鎌倉時代初期の禅僧『道元禅師』の言葉に【 花開けば必ず真実を結ぶ 】があります。 期せずして対を成すように感じたのは、詩人の言葉が胸深くに染み込んでいった所為でしょう。

同行者の「危ないからダメ!」の制止に聞こえないふりで向かったのは、急傾斜の石段の先。 ここは12歳で近江佐和山藩主となり、後に上野安中藩初代藩主となった『井伊直勝』の墓所。『井伊直勝』といっても誰??ですが、彦根城を築城した大名と聞かされると何故か親近感UP! (^^;)

墓所の近くには、明治33年に『日置黙仙』によって建てられた「活人剣(かつにんけん)」の碑。 私たちが訪問した時は、碑と活人剣の台座、それにまつわる写真つきの案内板があっただけ。曰く活人剣とは、柳生宗矩が提唱した思想「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」、太平の世における剣術の存在意義を新たに定義したものと言われています。

可睡斎の境内のさらに奥に建立された、ガンダーラ様式の白亜の「護国塔」。「可睡齋」山門の設計に関わった、東京帝国大学教授『伊東忠太』の設計で建築されました。

高さ17.1メートルの鉄筋コンクリート造りの搭に、人造石洗出し仕上げの円形ドーム。 塔に上がる階段には伊東忠太氏の手になる一対の神獣が配置されており、上部にはアーチ型の入り口。 先端には、チベット風とも言われる法輪を伴った塔が、天に向かって伸びています。

エンタシスの柱上には、牛馬に似た不思議な動物の彫像が、はるかな下界を見下ろしています。

「護国塔」は日露戦争後の明治44年(1911)、戦没者八万人余りを慰霊する為、この地に建設されました。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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秋葉総本殿三尺坊大権現~其の二 in 静岡県袋井市

2019年03月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日の続きで「秋葉総本殿」の紹介ですが、今回は「御真殿」の参道入り口から。 石段の上り口左右にあって神域を守護されるのは、明治8年(1875)8月生まれの狛犬さん一対。

2011年の参拝では、9月21日の台風15号による石灯籠などの倒壊で、付近は補修工事中。 重機のそばですが、休憩時間を利用しての撮影、きちんと了解を得ました。
2016年の参拝で、改めてその素晴らしい神獣さんと対面できて、ご亭主殿の喜びもまた格別。

まるで手招きしているように右手を上げる阿形さん、でも一体誰に手招きしているんでしょうね。

 

どうやら手招きの相手は向かいにいる吽形さんみたいですが、なぜかそっぽ(^^;)

で・・・二対を並べてアテレコ(笑)「なぁなぁ、絶対にバレないからさぁ、ちょっとこっちに来いよ~♪」「いや、誰か来たらまずいし・・・・」
さしずめ、「積極的でいたずら好きな阿形さんと、慎重派で優等生の吽形さん」、一体何を企んでいたのか(笑)。

参道の石段の途中では「鼻高天狗」「烏天狗」が参拝者を出迎えてくれます。

 

「鼻高天狗」は山伏姿で羽団扇を持ち、赤ら顔で鼻が高く翼があり、空中を飛翔するとされます。

「烏天狗」は「鼻高天狗」と同じく山伏装束で、烏のような嘴と翼をもち、剣術に秀でています。 一説には、人間が「鼻高天狗」になる途中の姿とも言われていますが、他にも諸説あり、一概には言えないようです。

ここ秋葉総本殿において『秋葉三尺坊大権現様』は「鴉天狗」の姿で現され、それ以外はすべて眷属として従うもので、公式HPにも「鴉天狗」の姿で紹介されています。

拝殿内には所狭しと「烏天狗」や「鼻高天狗」の面が奉納されており、その数に驚かされます。

とは言え圧倒的に多いのは、やはり「鼻高天狗」。天狗と言えばこの顔が定着しているようですね。

今は禁止されている拝殿内一面の千社札、きっとどれもずいぶん昔のものでしょう。お札の前には生涯で12万体あまりの仏像を作ったという『円空上人』作の、小さな円空仏も奉納されています。

壁からそのまま上を向けば、格子天井には百花の牡丹を中心に、様々な草花。 一つ一つ紹介していけば、其の二十くらいまで余裕で続きそうなので、これくらいで終了としなければ(ーー゛);

明日はまだ紹介していない史跡や堂宇などを・・・って、本当に何時まで続くんだろう?(^^;)

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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秋葉総本殿三尺坊大権現~其の一 in 静岡県袋井市

2019年03月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

火防守護の総本山として知られる「秋葉総本殿」。日本で唯一『三尺坊様御神体』が祀られます。

「可睡斎・本堂」の左手にある石段参道を上がった先が「御真殿」と呼ばれる「秋葉総本殿」

黄金色に輝く「秋葉総本殿」の扁額は、『有栖川宮幟仁(たかひと)親王』の御宸筆。 拝殿幕の社紋は「剣花菱」で、社伝によれば『武田信玄』の寄進と伝えられています。
武田の軍勢に追われた家康を匿って10万石の知行を得た「可睡斎」と、信玄寄贈の「剣花菱」。事実、奥には「三つ葉葵」の幕紋が染め抜かれているそうで、何となくむず痒いような・・微妙な感覚(^^;)

【秋葉総本殿可睡斎にお祀りしてあります秋葉三尺坊大権現様は、今から1300年の昔、越後蔵王権現堂の12坊の1つである三尺坊という僧坊で厳しい修行を重ね、秘密奥義を極めて神通力を得、観世音菩薩33化身の1つであります。樓羅身(るらしん) を現じられました。かくして、秋葉三尺坊様は、衆生済度のため、失火延焼の難を逃すことを第1に、三大誓願をおこし火防の霊場を開かれました。
秋葉三尺坊大権現様の御真躰は、明治6年に秋葉山秋葉寺より遷座奉安され、以来秋葉三尺坊大権現鎮座火防霊場として、全国より信仰を集める祈祷の道場として、日々火防と人々の幸福を祈願しています。】

案内板文中にある「樓羅身(るらしん)」は、「迦楼羅神(かるらしん)」の事だと思われます。

向拝の木鼻に施された彫刻を阿吽の唐獅子と牡丹。ここでは獅子が牡丹の花を咥えています。

貫などの獅子は阿吽で一対。ボタンを咥えていたら口を開けられないのではと心配されませんように(⌒∇⌒) 阿の獅子の牡丹は満開、吽の獅子の牡丹は蕾。花の姿で阿吽を表すのも、職人の粋な技。

拝殿彫刻の圧巻は、向拝柱から本柱にかかる左右の海老虹梁(えびこうりょう)。ここにはまるごと昇龍の彫刻が施されています。
爛々と火を放つかのごとく光る眼、逆立つ鱗、鋭く尖らせた爪は宝玉を求めて力強く弧を描きます。 これだけの緻密でダイナミックな龍が、一本の木から彫り出されている・・、まさに神業。

真下から見上げた昇竜の胴体部分ですが、逆巻く波間から覗く姿はむしろ恐ろしいほどの存在感。 これが頭上に現れたら、絶対に「人生・・終わった」と、諦めの境地になるかもしれません(;_;)

あまりの凄さに思わず参拝を忘れそうになったほどですが、写し手の腕の悪さは如何ともし難く。 あとは想像力を駆使していただくか、いえいえ、是非とも現地で実際に見ていただくのが正解です。

海老虹梁の昇竜にばかり目を奪われがちですが、その上にある「持ち送り」の彫刻も見事。 常緑樹であり、目出度さの象徴とされる「松」と、高く空を翔け、力強さの象徴とされる「鷹」。
羽毛の一筋までも細やかに再現されており、その姿は見るものの想像力を掻き立てて止みません。

向拝の扁額の横にあった(と記憶)「海亀」、これも吉祥の象徴ですが、反対側は写してません。 多分、写したいものが多すぎたのと、阿吽の違いのみで、一見同じに見えるから・・・(-_-;) そうです!言い訳です(笑)。

彫刻の紹介が続いたついでに「威徳殿」と書かれた拝殿額を取り囲む「双龍」も、さすがの迫力。

『御真躰』が奉安され祭壇はこの奥にあるようで、鴉天狗の像が屹立しているのが見えます。 ちょうどシャッターを押した瞬間受付の方が横切った為、その部分は削除して修正、故に若干の違和感はご容赦を(^^;)

見所が多すぎて、簡単に一つにまとめられないのはいつもの事(^^;)、と言うことで続きは明日。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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可睡斎(かすいさい)~其の二 in 静岡県袋井市

2019年03月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

山門から境内に入り手水でお清めをすませたら、諸々の堂宇などを拝観し次へと向かいます。 参道まっすぐの正面には、高祖『承陽大師』、太祖『常済大師』を両祖とする「本堂」。(承陽大師とは明治天皇より賜った道元禅師の勅号(ちょくごう)):(常済大師とは、日本曹洞宗の太祖:瑩山(けいざん)禅師の諡(おくりな))

「聖観世音菩薩」を本尊とする、遠州三十三観音霊場三十番札所。

可睡斎は「福井の大本山永平寺」「横浜の大本山總持寺」を大本山とする、總持寺の直末寺院。 徳川家康との密接な関係により、10万石の寺禄を与えられ住職は代々僧録司(そうろくし)に任ぜられました。
その後も「東海大僧録」として三河・遠江・駿河・伊豆の曹洞宗寺院を支配下に収め今日に至っています。

御詠歌【 みをおさめ こころをきよく まびふせぐ ひぶせのあきは かすいにおわさん 】

巨大な下駄が置かれている本堂脇の「大黒殿」。お子様身長の私ですが、多分大きさは伝わると思います。 いわゆる天狗の高下駄と呼ばれるもので、横から見ると「歯」が一本。 置かれていたのは大黒殿の脇ですが、おそらく秋葉の大天狗様の下駄として奉納されたと思われます。

大黒殿の堂宇には、「黒髭を蓄えた白兎」を両脇に従えて、「出世大黒天」が鎮座。大黒様と大国様(大国主命)、ひらがなで書けば同じ「だいこく様」ですが、私的には全くの別物!!故に、大黒天が白兎を脇に従えるのも、実はもの凄~~~~~~~~く!!不満と、私ごときが何度叫ぼうと(笑)

その「大黒殿」の前に置かれていたのが、佐賀の海蔵寺に伝わる「願いを叶えるかんかん石」。 【願】をかける時に、石を叩いて鳴らしてから祈ると願いが叶うと『弘法大師』が教えたとか。 大黒様に散々ケチをつけた後ですが、それとこれとはまた別で、早速石を叩いて願い事を。

「大黒殿」の巨大な下駄に負けじと、「位牌堂」には軒下まで届く巨大な「灰ならし」「火箸」。 火を扱う場所には欠かせなかった二つのお道具も、やはり火伏せの秋葉様への奉納かも。

「位牌堂」では、御開山如仲天誾大和尚をはじめ、暦住五十六世までの諸位大和尚の霊位を祀ります。

幼い家康を匿い「可睡斎」の名の由来となった、「出世六の字穴」
【出世六の字とは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の世間から離脱する「出世間」からとも、あるいは六観音や六地蔵に由来するとも伝えられる。】案内板より

【戦国時代、徳川家康は武田信玄との戦いにおいて遠江・森、袋井方面へと攻めてきた武田勢に追われ、この寺のほら穴に隠れて命拾いをした。その後、家康は浜松城主となり、やがて駿府城、江戸城などを築き国を平定し、江戸幕府を開いて将軍となった。その出世の故事になぞらえ、当齋のほら穴は、家康公の威徳を称えていつしか「権現洞」と、また「出世六の字穴」とも呼ばれるようになった。】案内板より

洞穴の内部は意外と広く、中間部分に仕切りが作られており、奥には延命地蔵が祀られています。 今更出世に興味はありませんが、こうして新しい何かに出会う為にも元気で長生きしたいですね。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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可睡斎(かすいさい)~其の一 in 静岡県袋井市

2019年03月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

袋井市久能にある「萬松山(ばんしょうざん)可睡斎(かすいさい)」。寺紋は「丸に三つ葵」。 旧遠江国の三古刹を意味する「遠州三山」の一つとして知られています。私たちは2011年11月に一度、そして御朱印を頂くため、2016年12月に二度目の参拝をしました。

由来【当寺は室町時代初期の応永年間、『恕仲天誾(にょちゅうてんぎん)禅師』によって開山され、「万松山東陽軒」と名付けたのが始まりとされている古刹です。
11代目住職『仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚』は、武田軍から逃れた幼い家康とその父を戦乱の中から救い出して匿い、岡崎城へと送り届けました。】

後に浜松城主となった家康は、和尚を招き旧恩を謝したのですが、すでに相当の年齢であった和尚。 なんとその席上で居眠りを・・(^^;)、周囲の空気は凍りついたでしょが、その様子を見た家康。
「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」と言ったとか。
以来、和尚は「可睡和尚」と呼ばれるようになり、後に寺号も「万松山可睡斎」と改められました。

可睡斎の入り口ともいえる「総門」は、高さ・幅共に十メートル弱で、木造・瓦ぶき。 1959年の伊勢湾台風で倒壊したものの、後に再建されたと、売店に居た人が教えてくれました。
総門には「萬松山」の扁額が架けられ、天井部分には十二干支の方位版がおかれています。

右手に立派な御神木(お寺の場合は何と呼ぶ?)が聳える長い石段の先に参拝者を迎える「山門」。「山門」は禅宗寺院の七堂伽藍の一つとされており、寺院への正式な入口となります。門には「三つ葉葵」の幕が掛けられ、さらに門の両袖には阿吽の仁王像が置かれています。

山門案内に【昭和10年に当時、建築界の重鎮、特に寺社建築の泰斗であった伊東忠太博士に設計依頼しておりましたが、完成にまで至らず、76年の歳月を経てこの度、伊東忠太博士の設計図を基に平成22年に落慶致しました。】(実は、『伊東忠太』博士が関わった別の建築物が境内に存在しますが、それはまた次の項で。)

仁王は正式には「金剛力士」と呼ばれ、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つとされます。一般的に、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情と言われています。

まだ新しい山門の屋根には、ご亭主殿の好物(笑)の装飾瓦がいぶし銀の輝きを見せていますが・・さて、これは何と呼ぶのが正しいのでしょうか?鬼・・にも見えますが、獅子・・にも見えます。ご亭主殿に尋ねた所、「やっぱり一応は鬼じゃないの?」と、何とも曖昧なお返事(笑)。

山門を潜って右手に見る建物は、迎賓施設として使われる「瑞龍閣(ずいりゅうかく)」。木造二階建、妻入り、入母屋造桟瓦葺で下屋を廻らし、正面には唐破風玄関を構えています。 昭和12年(1937)に建築されたもので、2014年12月に、国登録有形文化財に指定されました。

山門を潜って左手に見えるのは、2008年の修復工事で移設された「可睡斎輪蔵(りんぞう)堂」

中央の心柱を支えとする八角形の回転書架には、「一切経(大蔵経)」が納められているのだとか。 信心をもってこの書架を一回転させると、一切経読誦の御利益が得られると言われています。 信心深いとはお世辞にもいえない身ですが、今は亡き大切な人の後生を願って・・・・

輪蔵堂内の正面には、輪蔵を考案した『傅大士(ふだいし)』の木像を安置。傅大士像は常に微笑の相を表していることから、 俗に「笑い仏」ともよばれています。

「僧堂」は坐禅堂とも称し、修行僧はこの一畳の畳に起居し、坐禅修行に励むのだそうです。 「今は直(じき)に今なり、一切もちゆることを必要とせずこれ単(ひとえ)なり、これを示せるは禅なり」

「僧堂」の前に建立された「慈母観音」。その慈悲の目には、どんな世界が映っているのでしょうか。

まだまだ続く「可睡斎」参拝の思い出、明日は『聖観世音』を本尊とする「本堂」から紹介です。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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ご当地マンホール in 静岡県旧袋井市(袋井市)

2019年03月06日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

袋井市東部、小笠山の西の笠西地区にある「静岡スタジアム エコパ」

袋井市が現在の市域になる以前の、旧袋井市の市章つきマンホールもまだ数多く残されています。 また、旧市の折に誕生したいわゆるご当地キャラも、とりあえず健在で頑張っています。市の鳥「フクロウ」のキャラクターで、名前もズバリ!『フーちゃん』。説明は不要ですね(笑)

明治22年(1889)、町村制の施行により山名郡山名村が発足、町制を施行し山名町が発足。周智郡山梨村が発足。

1896年、郡制の施行により、 磐田郡・山名郡・豊田郡(赤佐村・中瀬村・竜池村・豊西村・中ノ町村を除く)、長上郡掛塚村の区域をもって、磐田郡が発足。

1898年、周智郡山梨村が町制を施行、周智郡山梨町となる。

1909年、磐田郡山名町が袋井町に改称。

1928年、磐田郡笠西村と合併、(二代目)袋井町が発足。

1948年、周智郡久努西村と合併、(三代目)袋井町が発足。

1952年、磐田郡久努村と合併、(四代目)袋井町が発足。

1954年、磐田郡今井村と合併、(五代目)袋井町が発足。

1955年、周智郡山梨町が宇刈村と合併、改めて山梨町が発足。

1956年、磐田郡田原村の一部、小笠郡笠原村の一部と合併、(六代目)袋井町が発足。

1958年、磐田郡袋井町が市制を施行、袋井市が発足。

1963年、袋井市が周智郡山梨町を編入。

2005年、袋井市が浅羽町と合併、改めて袋井市となりました。

袋井市東部、小笠山の西の笠西地区にある「静岡スタジアム エコパ」。

デザインマンホールはありませんが、旧市章の規格蓋はまだまだ市内各地で見つける事が出来ます。こうした古い知章の蓋は、いずれ老朽化と共に取り替えられて姿を消していくと思うと、今見つけられて良かったと思います。

昭和33年11月3日制定の旧市章は「「フ」を図案化し、飛躍する鳥を象ったもの」です。

上水道関連にはまだ旧市章のものが多く、市域の至る所で見つけることが出来ます。

規格蓋だけの地味なページになってしまったので、最期に旧市域で見つけた面白画像を紹介。 この巨大なふくろう、個人の会社?事務所?と思われる敷地の一角で見つけたもの。袋井にある施設だから「ふくろう」なんだなと思いながら写真に残したのですが・・さてさて、その真相は?(*^^*)

撮影日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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ご当地マンホール in 静岡県袋井市

2019年03月05日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

袋井市(ふくろいし)は静岡県の西部、豊かに広がる田園地帯に位置する市です。2005年4月1日、旧袋井市と磐田郡浅羽町が合併、改めて袋井市が発足しました。全国的にも日照時間が長い地域の一つであり、山地には美しく広がる茶畑、南には遠州灘を臨む自然環境に恵まれた町です。掛川市、磐田市、森町に隣接。市域には「遠州三山」と呼ばれる寺院や、東海道五十三次の真ん中、二十七番目の袋井宿などと共に、2002FIFAワールドカップの舞台となった「静岡県小笠山総合運動公園(エコパスタジアム)」などが知られます。「市の木:金木犀」「市の花:コスモス」「市の鳥:フクロウ」を制定。

キャッチフレーズは「人も自然も美しく 活力あふれる 日本一健康文化都市」

マンホールには「東海道ど真ん中・シンボルマーク」と、「旧市の木・マキ」が描かれています。

「東海道ど真ん中・シンボルマーク」は、規格蓋である消火栓や空気弁にも使われています。

シンボルマークに因んで、袋井商工会議所のイメージキャラクターは『どまんニャか』。 江戸から旅をしてきて、食べ物の美味しさから袋井宿に居ついてしまった「幸福の招き猫」です。

2005年6月25日制定の市章は「市の頭文字・アルファベットの「F」を図案化し、飛躍する文化都市と自然豊かな田園、さわやかな風、遙かな海をイメージし、全体で新しい市民の「和」を表現しています。」袋井市HPより

「浅仕切弁」は「浅層埋設対応仕切弁」の略、内容は勉強不足の為不明(^^;) 

袋井市の市章がついた「排泥弁」。

市制施行5周年を記念し、市の鳥「フクロウ」をモチーフに誕生した袋井市キャラクター『フッピー』。「市の花・コスモス」と、「市の木・キンモクセイ」の髪飾りがチャームポイント。翼を広げ元気にジャンプし、飛躍する市の姿がイメージされています。

で、『フッピー』と一緒にいるのは、静岡理工科大学お理工塾の『お理工ちゃん』。 はたしてこの『お理工ちゃん』を袋井市のキャラと認定するべきか否か・・悩ましい(笑)

撮影日:2011年11月16日&2016年12月14日

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御前崎岬 ~2016年 in 静岡県御前崎市

2019年03月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

前回から5年後の2016年、今度は友人Jさんが加わって三人での「静岡県車中泊の旅in御前崎」(笑) 今回もしっかり写してきました「静岡県最南端の碑」と再会できて感動のあまり抱きつくおバカな二人・・(-_-;)

少しばかり冷静になっての女子二人、それでも最南端の碑とのペアショットは外せない(笑)

重く垂れ込めた雲、灰色の冷たい海、流石に12月のこの季節はすべてがどんよりとしています。うかれてはしゃいでいるのは、もしかしたら私たち三人だけかも・・まっ、それも良しでしょう。

駐車場に併設されたみさきの広場には新たなモニュメントも加わって・・でもこれ、どう見ても難破船(゜゜;)。 場所が場所だけにこれは笑えないと思うのだけど、もしかして何か別の意図があるのかも・・

ともあれ、今日も丘の上に見えているあの白亜の塔が・・白亜の?白亜の???「御前埼灯台」が無い!!。

・・・・いや、無いわけではない・・だって先端に見える投光器部分は間違いなく御前崎灯台のもの

何が何でも自分で確認しなくては!とは言え、雨の所為でぬかるんだ坂道は、以前よりマシになったとは言っても私の足では無理。今回はご亭主殿が写真だけ撮りに行ってくれる事になったのです。それにしても・・あの白亜の美しい灯台は外装工事中。 後で知った事ですが、工事内容は外壁の塗り替え、内側の保護材のパネルをヒノキ材に、らせん階段の途中に小窓を新設・・等々。1982年以来の海上保安庁による改修工事が完了したのは、2016年12月末のこと。私たちが再訪したのは2016年12月13日・・ため息です。

ご亭主殿が灯台の写真を撮りに行ってる間に、私たちはみさき公園付近の探索に。まずは観光振興への御利益の願いを込め、2016年5月に開設されたばかりの「渚の宮神社」

「伊勢神宮」の式年遷宮に伴い提供を受けた御用材が、ちょうどご神体のように展示されています。 「伊勢神宮」のご用材という事なので、きっと神威はある筈、友人と一緒に旅の無事を願いました。

灯台の撮影を終えて帰ってきたご亭主殿、帰り道で句碑と古そうな塚を画像に収めてくれました。灯台入り口手前に『山口誓子』句碑【碧の濃き 灘 通り来し 土用波】

通路の途中に建立されていたという「遷れい塚」
碑文全文【御前崎灯台の建設に功労のあった灯台役人「朝臣今武源高光」と公儀棟梁「村山源清弘」を祀ったもので、正面に「遷れい塚」と太く記され右面に「朝臣今武源高光・村山源清弘」、左面に「維時明治六年壬申6月」、基石正面には御前崎松林久佐エ門、相良増田銀蔵、上御崎山﨑円七、下御崎下村粂右エ門、二ツ家沢入惣三郎、沢入専三郎、女岩川口半次郎、広沢横山粂右エ門の名が刻んであります。】

5年前のライオンに守られていた黒い碑は『清水みのる』の「ふるさとの燈台」の歌碑。何故かライオンは消えて、多分ですが設置されていた場所もあの時と違っています。その前に『清水みのる』って誰?!

最南端の碑から覗き見た海岸は、打ち寄せる波が白く砕けて、5年前とは全くの別風景。目の前に広がる灰色の海の中に、小さな黒い点のようなものが・・・黒い点?!もしかして動いてる!

と思ったら、展望所から少し離れた岩礁の上に、海の一点を見つめてじっと佇む人影も発見。 いくらサーフィンの好適地だからって、真冬の海でサーフィン!!、色々びっくりな御前崎です。

訪問日:2016年12月13日

 

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御前崎岬 ~2011年 in 静岡県御前崎市

2019年03月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

そこに綺麗な灯台があると聞くと可能な限り立ち寄らずにはいられない。これはもう性というもの、残りのコースは?とか、現在時間は?とか、そんなもの、後で何とかなる!うん・・・多分・・・(笑)
今回は2011年と2016年の二度にわたって訪問した「御前崎岬」と「御前埼灯台」の紹介。
マリンパークを後にして駿河湾の海岸線に車を走らせる事7分(近!)、南に遠州灘を望む「御前崎岬」に到着。海岸沿いの展望所には、東経136・16・36 北緯34・35・42と刻まれた「静岡県最南端の岬の碑」

そこが「最○端」と聞くと可能な限り立ち寄らずにはいられない。これはもう性というもの・・・ってこればっかり(笑) アホな性癖に相反して先端&高所恐怖症の私、ご亭主殿には半ば呆れられながらも、毎度毎度、トンデモな希望を叶えて頂いています(笑)

静岡県の最南端から見る遠州灘。このフレーズだけで物語が書けそうな設定なのに、今回は道路沿いの平坦な場所、しかも道路を挟んで駐車場があるという好条件。
「最南端の岬の碑」から見上げる白亜の美しい灯台。あれが有名な、とっても有名な!「御前埼(おまえさき)灯台」

もうこの時点でテンション上がりっぱなしの私たち・・・でも肝心の灯台まではかなり急な斜面&遠い。 元気に旅を楽しんでいますが、こう見えて薬頼りの身。無理も無茶もすぐに検査結果に現れるので、お医者様から固く!禁止されています。

「1874年、イギリス人技師の監督のもとに誕生した白亜の洋式灯台。強風や地震等の被害にも屈せず、美しい姿を保ちながら海の安全を見守り続けています。日本の灯台50選に選ばれているほか、歴史的・文化的価値の高さから、「Aランクの保存灯台」に指定されています。」公式HPより

ご年配の方ならご存知かもの、『木下惠介監督』の灯台守の日々を描いた映画「喜びも悲しみも幾歳月」。その中にもこの灯台が登場しています。
【♪俺ら岬の灯台守は 妻と二人で沖行く船の 無事を祈って灯をかざす】
と・・・素で歌える自分が怖い(^^;) 何しろ家族全員が、懐メロ大好きだったものですから(笑)

11月半ばの御前崎岬は吹き付ける風もいっそ心地よく、その気になって探せば、みさきの広場にだって色々と楽しめそうなものも・・ある筈(^^;)。
物資を積みこんで江戸-大坂間を定期に航行した菱垣船。主に上方から江戸に酒荷を輸送した樽廻船。 江戸時代、海上輸送の舞台となった駿河湾、遠洲灘は、海の東海道ともいえる重要な航路でした。「御前崎湊の碑」と題されたモニュメントは、そうした歴史的な背景を記念して建てられました。

まるで何かを護る神獣のような一対のライオン。なんでこんなところに?もしかして後の黒い碑と関係あるのかしら?と首を傾げながら、でも何故か確認していない(-"-)

マリンパークにいた「カメサーファー君」。どうやら最高の「パイプライン」に遭遇できたようですね。

広場の中に作られていたお手軽なパイプライン。ご亭主殿、それ乗ると言うより潜り抜けてるし、波というよりも巨大クラゲの足みたいだし。

興が乗るとどんなリクエストにでも応えてくれる優しい御亭主殿~💗 もちろん、ちゃんと「ステキ!」と褒める事を忘れてはいけません(笑)

引き潮の海辺は、打ち寄せる波も、濡れた砂もキラキラと輝いて、まるで手招きでもするかのよう。 しばし子供の頃に帰ってみたくて指をひたせば、お天気が良いとは言え晩秋の海水はかなり冷たく、思わず後じさり。
そんな些細なことさえ楽しいと思えるのだから、ホント!!旅って素敵。最高の特効薬だよね。

訪問日:2011年11月15日

 

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ブラリ御前崎の旅 in 静岡県御前崎市

2019年03月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

2011年&2016年・・五年の歳月を経て再訪した御前崎。時間が無いと言いながら、ついついぶらぶらと寄り道をする癖は全く持って健在(笑) あっちにふらり、こっちにふらり。二つの旅の思い出をかき混ぜての紹介です。

「御前崎海鮮なぶら市場」の看板に誘われて、お昼の食事もかねようとウキウキ♪寄り道。 ところが市場は定休日(^^;)、見る事ができたのはこの巨大な「カツオ君」だけ。いやそれにしても色といい質感と言い、ホント!よく出来てる。

白い船体の漁船はマリンパーク入り口に展示されていた「御前崎丸」。五年前とは場所が変わってる?! 「もっと海の近くじゃなかった?」「イヤイヤやっぱりこの位置だよ」「そうかなぁ??」
今は「御前崎丸」だけど、昔は「漁業取締船・天龍丸」って船だったんだって、漁業取締ってやっぱ密漁とか?・・なんか色々とすごいよね~(意味不明な会話がこの後延々・・・)

船の近くにある綺麗な建物は「波と風」をモチーフにした「御前崎観光物産会館:なぶら館」。「2011年にはこんな建物無かったよねぇ」「うん、無かった、カツオしかいなかった」等と話しつつ、なぜか素通り(笑)

以前に無かったと物と言えば「カメサーファー君」。マリンパーク御前崎海水浴場内にいて、海水浴期間中にお客様をお出迎えしてくれるそうです。
夏季限定!の筈なのに、真冬のこの時期に会えたのは、私たちが良い子だったから(笑)(笑)?

折角なのでJさんの提案に乗って記念写真。ねぇねぇ、こんなキャラのマンホール作れば絶対に人気出るのにね!

海のテラスの画像は2011年当時のものだけ。何しろ2016年の画像は小雨がぱらつくたびにデジカメさんを服の下に隠しながらのマンホール撮影・・(^^;) それに月で言えば一ヶ月しか違わないのに、海の色も空の色も全くの別物。やっぱり詩心の無い我々には、海を見るのは冬以外が良い。

芝生広場の中央、まっすぐ海に向かって伸びる椰子の道。間にあるのは「風力発電機・くるくる」

「海のテラス」から見る西ビーチ、その向こうに見えるのは多分「御前崎港」。 風力発電の白い羽と、あの綺麗な船は「みやこ丸」かな?、それとも「むさし丸」?もしかして両方かも。

思いがけなく出会った「カメサーファー」、御前崎ではカメ関連の色々を結構見かけます。 実は御前崎はアカウミガ産卵の北限地として知られており、国の天然記念物にも指定されているのです。
古来より、カメは大漁の導師であり、豊漁の神様として猟師たちの間で大切に守られてきました。 

御前崎から浜岡に向かう途中に見かけた「アカウミガメのトイレ」。ホント!!よく出来てる~(^_^;)。

訪問日:2011年11月15日&2016年12月13日

 

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