初の裁判員制度での裁判が結審となった、市民目線が強調されているが
昨日、初の裁判員制度のによる四日間の裁判が終了し、殺人事件で検察側の「求刑16年」に対して、「懲役15年の判決」が出された。「相場」(そんなものがあることを今回初めて知ったが)より少し長く、それは裁判員制度によるもの」との声もあるようだ。マスコミでは、「市民目線」による裁判を強調し、まずまずの滑り出しとの評価のようだ。
ところで、私はこの裁判員制度に大いなる疑問を持つものだ。判決という、過去の判決例からも学ぶことも含めて、「極めて高度な判断」が求められる裁判に、どうして素人の参加が必要なのか。今裁判で求められるのは、冤罪をなくすことであり、不当な捜査や自白の強要などをなくすことだと思う。
その意味では、今回裁判員を務められた方が「刑の重さを決めたことについて『一人の人の全ての自由をうばう重大な結論を出さないといけなかった。何が正しいというのはなく、不安感が大きかった』」(8月7日付朝日新聞)と話されているが、その通りだと思う。
そしてまた、同じ朝日の記事で紹介しているが、「高松地裁の候補者の男性会社員(35)」が、「プロでない裁判員が『判決に責任は持てるのだろうか』という自身の疑問は今回解消できなかった」との思いは当然だと思う。
それにしても、「裁判員に選ばれたことに対しては、守秘義務が科せられてる」ようだが、昨日の共同記者会見の報道に大きな差異があるのはどうしたことだろう。一切顔写真も声も出さなかった局もあれば、感想などを語っている姿をアップで報道している局もある。これでは、個人の特定は十分に可能である。こんなことがあっていいのだろうかと怒りにも似た気持ちだ。
そして何より、場合によれば「死刑の求刑」に、全く無関係な「市民」を引きずり込むとも言えるような裁判員制度は、速やかに根底から見直して欲しいと願う。こんなことを考えるのは、私だけなのだろうか?