今日は「施餓鬼法要」、お寺さんのお役で忙しく過ごした
昨年と今年の二年間、我がお寺さん(日蓮宗)の「世話人」のお役を引き受けている。全くの不信心で、葬式も戒名もいらないと考えている私が、お寺の「世話人」とはおかしな話なのだが、「講中」というご近所づきあいの中での矛盾だ。
ところで、「施餓鬼・由来」について、「フリー百科事典ウィキペディア」wでは、「施餓鬼供養では、三界(欲界・色界・無色界)において苦しんでいる全ての衆生、霊位へと供養を及ぼすことによって、ご先祖様のみならず、自らも、またあらゆる他も安らかなる涅槃・彼岸へと至れるように回向することが大切となります」と書かれている。
我がお寺さんでは、今年から毎年8月18日に「施餓鬼法要」を営むこととなり、今日も朝9時過ぎには総代・世話人は集まり、お寺の掃除や飾り付けを行った。そして、11時からご住職のお話、次には「お説教」があり、13時から「施餓鬼法要」が約1時間余営まれ、片付けを終えて15時頃お開きとなった。さすがに、「毎日が日曜日」の暮らしの中の久しぶりのお役であり、いささか疲れた。
今日のこの「施餓鬼法要」には、他のお寺さんから三人ものお上人が来寺していただき、「施餓鬼法要」を営んでいただき、それはそれは盛大な「法要」となった。この「施餓鬼法要」は、秋の彼岸の入りの日にも営まれる。また、その日もお役だ。お寺さんの行事も、さらに「お会式」や「鬼子母神」など、結構たくさんあり、忙しい限りだ。