図書館から本が届いたので取りに行った東公民館では「餅つき大会」が開かれていた
昨日の夜から雨が降ったが、明け方には雨はやんだ。しかし、早い時間帯は雨模様だった。
そんな今日は、予約図書が届いたとの連絡をいただいたので、公民館に取りに行った。まだ前回借りた本が、全ては読み終えられていない。なのに今日も7冊も届いた。
新聞などの広告を見て、読みたいなと思ったらすぐに予約カードに書き込んでおくのだが、そうすると毎回相当な冊数の本が届く。図書館から公民館へ届くのは週に二回だから、結構に忙しい。全てを読み終えないままに、返却なんてことも少なくない。悩ましい。
その本を借りに行くと、東公民館では「餅つき大会」が開かれていた。お餅つきは師走の風物詩であり、杵でつくお餅つきが残って欲しいと願う。今日の東公民館の「餅つき大会」の参加者でも、お餅つきは初めの方というが、案外に多かった。
私もつきたてのお餅を食べたかったが、所用があり食べられなかった。残念だ。来週は地元町内の餅つき大会であり、それを楽しみにしたい。
師走の風が吹き寒さ厳しくなった昨日は、エスプリにてコーヒータイムとした
部屋にかけられたカレンダーも残り一枚となって、いかにも寂しげだ。まちではジングルベルの鐘の音が聞こえているが、昨日は師走の風が吹き厳しい寒さが戻ってきた。
そんな昨日は、本を片手に三野にある「自家焙煎珈琲 エスプリ珈琲店」に行った。店内では飾り付けがクリスマスモードにするため、大きなツリーが運び込まれ飾り付けられていた。それだけで、冷え切った心だったが、何だか温かい気持ちとなった。
それにしても、時間の流れるが早いし、何も出来ないまま自堕落に時が過ぎていっている。いささか、忸怩たる思いだ。
昨日は寒さが戻っただけでなく、夜は雨も降った。。寒いが、やはり年末は寒さに震えるくらいが季節を感じるというもの。それにしても、今年の10月、11月と週末は多く雨が降った。こうしたことも珍しい。
寒さも本格的に厳しくなった。そろろそインフルエンザの予防接種を受けなければと思ったりもする。外の寒さの中で、できるだけ室内で本などを読んで過ごそうと思う。心の中も、今は寒風が吹いている。
高谷清著『重い障害を生きるということ』に感銘、たくさんの示唆をもらった
著書『重い障害を生きるということ』(岩波新書)の執筆者・高谷清は、その執筆の動機を、「多くの方に『重症心身障害者』の状態で人生を生き、生活している人たちのことについて知っていただきたいのと、『ほんとうに、生きているのが幸せなのだろうか』という自分自身の問いでもあることに答えたいと思ったから」と「はじめに」で書いている。
この誠実な一文に接して、是非とも読んでみようと思った。そして、「はじめに」を読んで感じた誠実さは、読了した後も変わらなかった。実に感銘を受けた。そして、たくさんの導きや示唆を受けた。
この本を読んで知ったのだが、糸賀一雄が「びわこ学園」を開設したのが、1963年。その前々年の1961年には、国は障害者(児)の親の陳情に対して、「障害が重くて社会の役に立たない者には国の予算は使えない」と発言している。わずか50年前のことだ。その後、我が国の障害児(者)政策は飛躍的に前進したものの、まだまだ貧しいこと限りない。
「びわこ学園」の創始者・糸賀一雄は、「『今日もまた重い障害をもった子どもがうみおとされている』、その『うまれた命は、どこまでも自己を主張し自己を実現しようとする』『このひとたちが、じつは私たちと少しも変わらない存在であって、その生命の尊厳と自由な自己実現を願っており、うまれてきた生き甲斐を求めている』」と書いている(日本放送出版会『福祉の思想』)。
そして、高谷清は著書の中で、「『生きているのがかわいそうだ』『生きているほうがよいのであろうか』ではなく、『生きていることが快適である』『生きている喜びがある』という状態が可能であり、(中略)そのようなことがなされうるように社会的な取り組みをおこなうことが社会の役割であり、人間社会の在りようではないか」と書いている。
二つの言葉は心したい、思い言葉だ。浅学非才故に、たくさんの知らないことをことを教えられ、たくさん学ばせてもらった。読んで良かったと思った一冊だ。