日本らしさの基本「和の心」の国際関係を
「和」は本来「日本」のことですが、同じ字、同じ言葉「和」が、日本人の心の基底をなす哲学、思想を表します。
聖徳太子の一七条の憲法の第一条が「和を以って貴しとなす」、以下第二条「厚く三法を敬え」、第三条「承詔必謹 」です。
この順序を見ても、「和」が基本であり、それを実現するために「仏教」で同じ心を持とう、社会・政治の面では天皇お言葉を尊重しようという事でしょうか。
最も寛容と言われる宗教「仏教」で人の心をまとめ、政治(まつりごと)では仏教以前からの日本の文化である祖先崇拝と自然崇拝からなる天皇の権威で秩序を守ろう、と考えたのでしょうか。
すべては「和」、争わずに仲良くしよう、自然も社会も基本は調和であるという考え方が透徹しているように思われます。
その日本が、弥生以来戦争に明け暮れ、1945年までそれを続けた理由を私は「舶来崇拝 」に見るように感じています。
しかしそれは1500年程度の事、それ以前、縄文時代の1~2万年以上の長きにわたって、「混血が純血化 」する過程で、日本人の精神の源流は形成されていたと考えるのです。
「日本らしさ」という場合、日本人は、舶来崇拝に汚染された時代ではなく、それ以前の日本人の形成期、縄文時代の本来の「日本らしさ」を基本にすべきなのです。
だからこそ、日本人は現行憲法を持った時、たとえそれが与えられたものであっても、人類の理想が書かれており、人類の歴史を先取りした平和憲法である事を心から良しとし、そのもとで争わない歴史づくりを全く「違和感」なく進めてきたのではないでしょうか。
この「違和感」という言葉自体、日本人独特の感覚で、なかなか外国語に巧く訳せない言葉のように思います。
調和している、自然である、違和感がない、「まさに和を以って貴しと為す」という日本人が最も良いものとして掲げてきた心を、日本は、平和憲法を掲げ、世界に先駆けて、国際関係の場で実践すべきではないでしょうか。
争いや力の誇示、脅しのレベルの相手に対しては、同じレベルではなく、1段上のレベルから争いのない解決を考え、対応すべきでしょう。
我々個人でもそうした問題には、何度も遭遇します。争わない解決には、それだけの知恵が必要です。日本人は縄文時代にその知恵を作り上げ、実践していたのでしょう。
日本人は勿論、全人類もこれからの歴史の先にはそうした状態を望んでいると思います。
「和」は本来「日本」のことですが、同じ字、同じ言葉「和」が、日本人の心の基底をなす哲学、思想を表します。
聖徳太子の一七条の憲法の第一条が「和を以って貴しとなす」、以下第二条「厚く三法を敬え」、第三条「承詔必謹 」です。
この順序を見ても、「和」が基本であり、それを実現するために「仏教」で同じ心を持とう、社会・政治の面では天皇お言葉を尊重しようという事でしょうか。
最も寛容と言われる宗教「仏教」で人の心をまとめ、政治(まつりごと)では仏教以前からの日本の文化である祖先崇拝と自然崇拝からなる天皇の権威で秩序を守ろう、と考えたのでしょうか。
すべては「和」、争わずに仲良くしよう、自然も社会も基本は調和であるという考え方が透徹しているように思われます。
その日本が、弥生以来戦争に明け暮れ、1945年までそれを続けた理由を私は「舶来崇拝 」に見るように感じています。
しかしそれは1500年程度の事、それ以前、縄文時代の1~2万年以上の長きにわたって、「混血が純血化 」する過程で、日本人の精神の源流は形成されていたと考えるのです。
「日本らしさ」という場合、日本人は、舶来崇拝に汚染された時代ではなく、それ以前の日本人の形成期、縄文時代の本来の「日本らしさ」を基本にすべきなのです。
だからこそ、日本人は現行憲法を持った時、たとえそれが与えられたものであっても、人類の理想が書かれており、人類の歴史を先取りした平和憲法である事を心から良しとし、そのもとで争わない歴史づくりを全く「違和感」なく進めてきたのではないでしょうか。
この「違和感」という言葉自体、日本人独特の感覚で、なかなか外国語に巧く訳せない言葉のように思います。
調和している、自然である、違和感がない、「まさに和を以って貴しと為す」という日本人が最も良いものとして掲げてきた心を、日本は、平和憲法を掲げ、世界に先駆けて、国際関係の場で実践すべきではないでしょうか。
争いや力の誇示、脅しのレベルの相手に対しては、同じレベルではなく、1段上のレベルから争いのない解決を考え、対応すべきでしょう。
我々個人でもそうした問題には、何度も遭遇します。争わない解決には、それだけの知恵が必要です。日本人は縄文時代にその知恵を作り上げ、実践していたのでしょう。
日本人は勿論、全人類もこれからの歴史の先にはそうした状態を望んでいると思います。