パレスチナの子どもたちに一日も早く平和な暮らしがあるように
昨日11月3日、広通研の平和学習参加で大久野島へ行ってきました。
まずは90歳になられる藤本さんのお話
1933年「ヒノマルバンザイ、キミガヨバンザイ、ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」と変わった教科書で教育を受け始めた藤原さんは1941年の東京第2陸軍造兵廠技能者養成所ただの海文書の1年生になる頃にはしっかりした軍国少年になっていたといいます。
日中の衝突から始まり、小林多喜二の警察による虐殺事件や長野県教員大量逮捕、京都大学滝川事件などが起こった1933年は ろう者や手話を学ぶ者にとっても忘れてはならない年です。
全国盲唖学校長会議で鳩山文部大臣が「手話は国語にあらず」と手話による教育を排斥した年だからです。
手話教室6参照
藤本さんは自分の作った毒ガスが今も中国でたくさんの人を苦しめていることに懺悔の旅を続けておられるそうです。
今はウサギの島として大奥の人が訪れている大久野島へ移動した後、
夏には広島でお話ししてくださった山内靜代さんが毒ガス資料館で解説(研修中の写真を撮りました。撮影禁止!と忠告してくださった仲間がいたのですが、撮影禁止は展示物、研修中の様子は撮影禁止ではなかったのですよ)
今咲いている紫陽花があったので
お話の中で藤原さんはご自分のことを毒ガス障害者であり被害者である、しかしその前に加害者であり犯罪者であることを同時に認識しなければならない、何年かかっても鬼がにんげんにたちなおるために今の教育のあり方を問い、日の丸・君が代の強制に反対し、核開発をやめさせること、平和憲法をしっかりと使いこなしていきたいと話されました。
もう何十年前にもなるでしょうか、この島で広通研の一泊研修会を開き、富山から山崎さんに講師でお越しいただいたことがありました。台風で帰りの船が出るとか出ないとか・・・で心配したですよね。