広島と手話 呉市広町
先日随分久しぶりに呉市のSさんとお話をする機会がありました。
私が手話を学び始めた47.8年前からずっとお世話になっている方です。
私も4年間ほどSさんの宅の近くの公舎に住んでおりました。
お話を伺っているうちに懐かしい「ひろ」の手話地名が出てきました。
広村は黒瀬川河口部の低地を中心に発達してきた村で1910年当時の内務省が「模範村選奨制度」が始まった際、最初に表彰を受け1000円を受領たそうです。
財政的にも豊かだったのでしょう、広村は1921(大正10)年呉海軍工廠広支廠ができ(2年後には広海軍工廠となります)急激に人口が増え「広市」としての市政施行を目指していたようですが、海軍や広島県、呉市の意向で潰されてしまい独自の都市計画構想は無くなったとのこと。
その後日本が戦争への歩みを急激に進める中で全国で初めて絵の海軍航空機部と機関研究部が作られています。さらに1941年には航空機部が独立して第11海軍航空廠となります。
そんな歴史の中で作られ使われ続けてきたのでしょう「呉市広町」は「複葉機」の形で表されていました。
胸の前で平行に並べた両手を前に出します。
今はこんな手話表現は年配ろう者同士の話の中で時に使われているところを見るくらいです。
日本が憲法で戦争と手を切ってから70年、戦争にまつわる手話地名が再び作られることのないようにと強く願っています。