77歳になった・・・と、喜んでから体の不調が続いている。
15日には部屋の中で倒れ起きあげれなくなって救急車でマツダへ運んでもらった。
まだまだ、しんどいのだがずるずると杖浮きそうな気がするので昨日は思い切って散髪へ行ってみた。家を出てから帰ってくるまで計算すすると四時間がかかっている。
9条の会の新年号に投稿した。
私は1948年生まれなので今年で77歳。日本国憲法が作られてすぐに生まれたことになる。もちろん戦争は知らないが小さな頃の思い出をたぐっていくと戦争の名残を少し感じる。まず母親は「トントントンからリンと隣組」とか「みよ落下傘空を飛ぶ」といった戦時歌謡をよく歌っていた。そして父親が横で「歌うな!」と怒鳴っていたこと。そして、川を隔てた隣の街が空襲に遭っていたのに「日本が戦争に負けるなんて思ったことなかった」と語っていた。普通に考えれば戦争に勝ってどんどん敵をやっつけているのなら空襲になど合うことがないと思うのだが、教育はすごい力を持っており、恐ろしいものだと僕は今も思っている。
中学校の遠足で使う歌集をガリ版印刷で作っていて、美術の先生が「緑の山河」を見つけ「バスがひっくりかえるで」と笑いながら言われたがなんのことかはさっぱりわからないままだった。社会科の授業では憲法前文を覚えるテストがあった。でも、僕は最後まで暗唱はできんかったなあ
1966年に大学入学で広島へやってきたが、ヒロシマとの関わりは大学2年の夏に原水禁日本国民会議の平和行進で大阪から広島まで広島県原水協の一員として歩いたのがきっかけ。この行進で「緑の山河」が「君が代」に代わる新国歌として日教組が公募・選定した歌だと初めて知り、中学校時代の謎が解けた。(それ以前にも高校1年生・2年生時に父親に連れられて8月6日の広島にはやってきているが来たという記憶しかない)その後、2・3年は原水禁大会などにも参加したが手話と出会い、忙しくなっていったこともあって離れてしまった。
盲学校の教員になりたいと思って広島へやってきた(「クリスチャンだから」と理由を作ってくれる人もいたが盲学校の教員になりたい特別な理由が何かあったわけではない。当時盲学校教員養成課程はは広島と仙台にしかなかった)大学では点字を教えてくれる教員がいなかったので千田町にあった、日赤学生奉仕団で教えてもらった。なんで手話を始めたのかこれや!という理由もまたない。
身近に聾学校の教師になることを目指していた友人からその年に始まった手話の講習会を受講しないかと誘ってくれたので22歳の春。バイクの後ろに乗せてもらって呉まで通い始めた。
当時は手話は「てまね猿マネ」と蔑まれていた。聾学校には「社会の中では手話がわかる人はいないから口話・読話をきちんと覚えなくては」といった教師がほとんだった。確かに手話の語彙は少なかったが言葉は社会の表れ、聞こえない人たちの社会がまだまだ広がっていなかったのだ。ろう学校卒業者の仕事といえば木工か鉄工、そして理容師・美容師か和裁・洋裁の仕事がほとんど。
自動車の運転免許も取ることができなかった。「原付に乗れるように」「耕運機を運転できるように」と声を上げ街角で署名を集め、一つ一つ実現してきたのは聞こえない人たちと彼らの周りの関係者たち。運転免許取得のため署名では全専売(今の日本たばこ)の働く人たちが職場ぐるみで署名を集めてくださり、各県毎の署名・カンパは広島県が全国で一番集めることができた。
僕も大学で集めたが「聞こえても交通事故で危ないのに免許持たなくてもいいのでは?」と大学の教員が言っていた。そして今、バスの聞こえない運転士も生まれるようになった。
22歳で友人の誘いで始めた手話、なんとなく55年にもなってしまった。自動車の運転免許はもちろん、民法の禁治産者の規定や、刑法40条(瘖啞者の行為はこれを罰せず・・)などの規定も削除されてきた。今の若い人たちは生まれた時からこんな差別的な規定は知らないし、一定年齢になれば運転免許を取得することもできる。でもこれらは多くの先人たちの取り組みがあったからやで!
ここ一年あまり、原爆ドーム前でのイスラエルのジェノサイドに抗議するスタンディングに毎週1、2回参加しているが僕のような高齢者ではない若い人たちがいつも立ってくださっていることにちょっと嬉しさを感じている。「必要だ」「大事よね」と感じる人たちがそう思うところで一つ一つの行動を起こしていくことがこの街を動かしていくエネルギーなんやと。スタンディングしていると「これまでのヒロシマは若い人たちへの伝承をしようとしてこなかったとよく言われる。僕らは伝えたい、引き継いで欲しいと願ってそれなりに動いてきたつもりやけどそうは進んでいないようだ。多分答えは出ないやろけど自分が動ける間は若い人たちにくっついて歩きたい。
河合知義(手話サークル・あすなろ代表)
原爆ドーム前のスタンディングは、ここ二週間ほど休んでいる。
ボツボツ動き始めなくては