守田です。(20160220 23:30)
前回、「ファシズムに抗して」というタイトルで、あえて選挙で野党共闘が機能せずに改憲への流れができてしまった場合のことを論じました。今回は反対に選挙で勝ってもなおファシズムの勢いが増してしまう可能性について論じたいと思います。
僕がもっとも懸念するのは、自衛官が殺されたり、あるいはパリの襲撃事件のようなことが国内で起きたときに、ナショナリズムの嵐が起こされ、これに乗せられてしまう人々が出ることです。
ファシズムは強制によって成り立っている限り大きな力は持てませんが、内側から起こる時は警戒しないといけない。「同朋が殺された」ことで自らが傷つけられたごとく感じ、報復に燃える人々が出現する可能性を見据えておかないといけない。
このことを指摘するのは、例えば北朝鮮のロケット発射や核実験をめぐる報道でも、安倍政権の意向に沿ってしまっている記事が目立つからです。「国際社会」やその筆頭のアメリカへの真っ当な批判もほどんと書かれていない。
これと同じように、今は戦争法に反対しているマスコミや言論人の中にも、いざ日本人がたくさん殺されるようなことが起こってくると、アメリカや官邸の言い分に絡めとられてしまう可能性もあると僕には思えます。
いやむしろそのことをしっかりと見据え、今からナショナリズムの高揚によるファシズムの押し上げへの対抗を準備しておかないといけないと思うのです。
この点でとくに中東の問題でみなさんに考えていただきたいのは「テロ」という言葉の使用に関してです。僕は「テロ」という言葉を使わないことを決めています。理由は「テロ」という言葉が、あまりに偏った、断定的な使われ方をされているからです。
では「テロ」ないし「テロリズム」は本来、どのように規定されるべき言葉でしょうか。分かりやすくかつしっかり書かれているものとしてウキペディアの「テロリズム」がありますので引用します。
(ちなみにこの項目には「現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています」との注意書きが加えられています。なんだかこの言葉のホットさを象徴しているようです。)
テロリズム―wikipedia
テロリズム(英: terrorism)とは、政治的目的(注 ここでいう政治的目的とは、政権の奪取や政権の攪乱・破壊、政治的・外交的優位の確立、報復、活動資金の獲得、自己宣伝など)を達成するために、暗殺・暴行・破壊活動などの手段を行使すること。
またそれを認める主義。恐怖政治。 日本語ではテロリズムのことを「テロ」と略し、テロリズムによる事件を「テロ事件」と呼ぶ。
またテロリズムに立脚する暴力的政治を容認する人物やテロ事件の実行犯もしくはその首謀者をテロリスト(英: terrorist)と呼ぶ。
「テロリズム」という語の現代的な用法はpolitical 政治的なものである。同一の集団が支持者からは「自由の戦士」、敵対者からは「テロリスト」と呼ばれる場合もある。
テロリズムの概念は、しばしば国家の権威者やその支持者が、政治的あるいはその他の敵対者を非合法化し、更に国家が敵対者への武力行使を合法化するためにも使用されている。
この語の用法には歴史的な議論があり、例えばネルソン・マンデラなどもかつては「テロリスト」と呼ばれていたのである。
引用はここまで
いかがでしょうか。なかなか鋭い指摘です。要するに「テロ」は政治的目的の遂行のために暴力を用いること全般を指す言葉でありながら、「テロリスト」という名指しは極めて政治的で恣意的になされているのです。
実際、「テロリスト」というと、冷酷で残忍な印象をもたれるのではないかと思います。さらに言えば無個性で、灰色の感じがします。名指す側によってそのようにイメージ操作されているのです。
大事なのはこの点です。「テロリスト」と呼称することでそれを担う人々から個性を脱色し、冷酷で残忍なイメージが増幅させられているのです。叩き潰す以外ない「敵」としてのイメージが刷り込まれた言葉として「テロ」「テロリスト」は機能しています。
一つの例として仮面ライダーを思い起こしてみてください。ショッカーという「地獄の軍団」が敵役として登場してきますが、仮面ライダーに襲い掛かってくるショッカーはどれもまったく無個性です。だから淡々と倒されることを観ていられます。
ここでリアリティを付加してしまうと観ている側の感情はがらりと変わります。例えばかりに仮面ライダーの前に立ちふさがったのが3人のショッカーだったとします。実はそのうちのショッカーAは3人の娘さんに慕われているよいお父さんです。
ショッカーBはいろいろあって離婚して男1人で男の子を育てていて、ショッカーCはそれほど若くはないのだけれど独身で子どももいません。
さてこのショッカーABCが仮面ライダーと向かい合ったとき、最後はやられてしまうに違いないのだけれど、地獄の軍団としては引き下がるわけにはいかないので、とにかく仮面ライダーと闘わなくてはならない。
そのときショッカーAやBの暮らしをよく知るショッカーCが前にすっと出ました。「Aが死んだときの娘たちの顔をみたくない。Bが死んだら誰があの子を養うんだ。俺は独り身だからいいんだ」とか思って奇声を発して突進していく。
でも戦闘力が違うから簡単にやられてしまうわけです。そのときAとBは自分たちを庇ってくれたCの心情に気が付いたかもしれないのですが、でもやはり地獄の軍団としては引き下がれないので、後を追って突入して結局3人ともやられてしまうわけです。
そうして仮面ライダーが過ぎ去った後には、ショッカーABCの遺体が転がっているわけです。良く見るとショッカーAの胸ポケットからは娘たちの写真がはみ出しているかもしれない。ショッカーBは絶命の瞬間、息子の名を叫んだかもしれない。
ショッカーCは実は一撃では死んでいなくて、後ろから突入してくるABの姿を見ていたかもしれない。そうして「なぜなんだ。せっかく俺が盾になったのに。ああ、でもこれが俺たちショッカーの宿命なんだ」とか思ったかもしれない。
そうなるとどれほどショッカーが悪い軍団であろうと「かわいそうだ」と言う気にもなってくる。仮面ライダーも手加減してやれば良かったのにとか、ショッカーももっと隊員を大事にすべきだとか、だんだん勧善懲悪のストーリーが崩れ出す。
さてこんな展開をどう思われたでしょうか?面白いたとえ話と思ってくれたらそれで良いのですが、今ここでこのショッカーを「イスラム過激派のテロリスト」に置き換えてみて下さい。
「テロ」に関する報道の場合も「テロリストAさんとBさんとCさん」なんて個性を付与してなされることはありません。まさにショッカーのように無個性で冷酷で残忍な集団の一員としてしか想念されていないのです。実際には無個性な人なんていないのに。
その意味でショッカーのたとえ話は、そっくりそのままニュースで流される「テロリスト」の話そのものになっていることを知って欲しいのです。
つまりここには前提として強烈な勧善懲悪の発想が埋め込まれているのです。そうして「悪」は、限りなく無個性で、冷酷で残忍(人間的かつ個性的な温かみを有していないということ)であった方が怒りの対象足りやすい。
僕が「テロ」という言葉を使わないようにしているのは、このように、すでにして「テロ」という言葉にあまりに強烈なイメージが刷り込まれているからです。これと距離をとり、少なくとも僕自身がこのイメージの伝搬者にならないようにしたいのです。
もちろん「テロ」と使ったらいけないとか決めつけているわけではありません。またもちろん僕はどんな無差別殺人にも反対です。でもそれを起こした人々が無個性で冷酷で残忍な集団の人々とは思わないようにしていることをご紹介したいのです。
こう書くと、一部の方から「テロに屈するのか」という言葉が投げかけられて来るかもしれない。いやこれは官邸がちょうど一年前に、後藤健二さんや湯川遥菜さんを見殺しにしたときに連発した言葉です。
そしてこのように言われることを恐れ、「テロリストの味方だと思われないように」という自己規制的なありかたもまた社会に伝搬していて、いっそう「テロ」という言葉のテンションを上げてしまっている感もあります。
だから今、僕は戦争法に反対している多くの方に、「テロ」という言葉について熟考してみようと呼びかけたいのです。
続く