守田です。(20160224 23:00)
またしても東京電力をめぐる飛んでもない事実が明らかになりました。
福島第一原発は、事故発生直後に次々と炉心が溶けて圧力容器下部に落ちていく炉心溶融=メルトダウンを引き起こしましたが、東電がこの事実を正式に認めたのは事故後2カ月も経った5月12日のことでした。
ところが今日になって、当時の社内マニュアルに従えば、事故発生から3日後にはメルトダウンと判断できたことが判明したというのです。
しかしこれは何とも意味の分かりにくい発表です。NHKwebに掲載されたニュースによるとより東電は詳しくは次のように発表したとされています。なお元記事のアドレスも示しておきます。
1、東京電力はこれまで「メルトダウンを判断する根拠がなかった」ことを、事実の公表が遅れた根拠としてた。
2、しかし新潟県の技術委員会の申し入れに基づいて調査したところ、当時の社内マニュアルに炉心損傷割合が5%を超えていれば炉心溶融と判定すると明記されていた。
3、事故3日後の14日にはセンサーが回復したため、1号機で燃料損傷の割合が55%、3号機では30%になっていて、この時点でメルトダウンが起きたと判断できたはずだった。
「メルトダウンの判定」東電のマニュアルに明記
NHKNEWSweb 2月24日 15時17分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160224/k10010420291000.html
なお、同様のことを東電は以下のようにリリースもしています。(ただしここには最も重要な14日に把握された燃料損傷割合が記載されていません)
福島第一原子力発電所事故当時における通報・報告状況について
2016年2月24日 東京電力株式会社
http://www.tepco.co.jp/cc/press/2016/1267653_7738.html
この1~3に僕がまとめた内容を読むと、この発表そのものがかなりの大嘘でしかないことが誰にも分かると思います。
東電は「炉心損傷割合が5%を超えていれば炉心溶融と判断すべきだったのに、当時、そのマニュアルに気が付かなかったため、判断できなかった」と言っているわけです。
しかし1号機は55%、3号機は30%も損傷していたことが14日にはつかめていたのです。5%なんて生易しものではない。三分の1から半分以上の燃料損傷です。
もともと技術的に5%の損傷でメルトダウンと考えておかしくないものが、半分以上も損傷していて破局的な事態の進行を判断できなかったことがおかしい。そんなことすら分からなかったというのなら未来永劫、運転者として失格です。
事実はそうではなくてメルトダウンを14日に把握しながら事実を認めずに隠蔽したのです。分からなかったはずなどない!55%の損傷など、燃料が溶けてしまう事態の中でしか起こり得るはずがなかったのですから。
この隠蔽は東電による重大な犯罪です!メルトダウンしていることが分からなかったことと、事実を知りながら隠蔽していたことには決定的な差があります。
そもそも当時の事故対策は、メルトダウンをしていないことを前提に行われていたのです。事実よりも事態を軽く見積もってしまっていたのです。そのことが事故対応にさまざまな間違いや失敗を引き起こしたはずです。
同時にあの時に、つまり14日にメルトダウン発生の事実が明らかになれば、もっとたくさんの人が直ちに福島原発のそばから離れることができたでしょう。
それがなされたらどれだけの被曝を防ぐことができたでしょうか。東電はメルトダウンの事実を隠蔽することで、多くの人々が被曝を避けるチャンスを逸する結果をも作りだしたのです。
なされことは故意による重大な過失です。責任者が厳重に処罰される必要があります。
同時にこのような隠蔽が他にもなされていないか、全面的な点検を行う必要があります。
そしてこのことがきちんとなされるまで、すべての原発の再稼働を中止すべきです。なぜか。新規制基準では「福島原発事故の教訓を生かした」とされているからです。
実際にはそもそもまだ教訓がまとめられる段階などではないのですが、これまで明らかになってきている事実とて、東電による故意の情報隠しが明らかになった今、覆る可能性がふんだんにあると判断せざるを得ないからです。、
実はすでに東電がメルトダウンの事実を発表のはるか前から知りながら隠蔽していた可能性を示唆した書物があります。
事故後の3月25日に内閣府の近藤原子力委員会委員長によって提出された「近藤シナリオ」のもとで、政府に呼び戻され、首相補佐官となって最悪の事態の封じ込めの陣頭指揮を任された馬淵澄夫民主党議員の著書、『原発と政治のリアリズム』です。
この書の中で馬淵議員は、5月12日に東電がメルトダウンを認めたときのことを次のように述べています。
「少なくとも、私が参加した3月末の時点では、「燃料は損傷しているだけで炉心溶融は起こっていない。圧力容器は健全な状態を保っている」というのが、統合本部の統一見解であり、対策を決める上での大前提だった。」
「この前提を元に、原発事故処理の対策が進められ、注水、汚染水処理、放射性物質拡散防止などの具体案が練られている。私自身も、統合本部の一員として、ここに疑念を挟んでいてはチームとして対策を進められないと、どこかで割り切っていた。」
「ところが保安院の人間を呼び出すと「これまでも可能性としてはゼロではなく、十分想定していた」と言い出した。さらに彼が取り出した図面には、燃料がどのように破損し、溶け出し、容器のどこに落下しているという、メルトダウンの詳細な図解が描かれていた。」
「これを見て、強い怒りがこみ上げた。メルトダウンはついさっき発表されたばかりなのに、こんな想定図がすでに用意されている。すぐ作れる代物じゃない。ある程度前からメルトダウンは想定され、こういう資料が用意されたいたということだ」
(以上、111、112頁より 引用はここまで)
非常に重要なポイントなので、僕の書著『原発からの命の守り方』でもこの前半部分を引用しておきましたが、馬淵議員のこの記述から、東電だけでなく経産省・保安院もまたこの事実を事前に知っていたことが分かります。
一方で政府の現場責任者であった馬淵議員にはこの事実は伝わっておらず、この日まで虚偽の報告に基づいた事故対応を強いられていたのでした。この点、馬淵議員はもっと強く告発すべきです。
さらにではなぜこのような隠蔽がなされたのか、同じく馬淵議員の著作の中に、当時、東電や保安院が何を考えていたのかをうかがわせる、重要な指摘があります。
当時、菅首相は「原子力災害対策特別措置法」に基く「原子力災害対策本部」を据えて事故対応を指揮するという原則的な対応をせず、法的権限のあいまいな「統合本部」を設置したといいいます。
このために東電と政府の対応がバラバラになったいたことを馬淵議員は嘆いているのですが、では東電や保安院がどのような方向性で動いていたのかというと以下のようであったというのです。
「彼らのテーマは「原発の復活」にあった。もちろん私が入った時点で廃炉は免れない状況だったが、東電はまだそれをきちんと明言していなかった。根底に「原子炉を潰したくない」という思いがあったからだろう。だから、彼らにとっての事故対処とは、「原発や原子炉を正常な状態に戻す」ことを意味していた。意識の中心は原子炉にあり、発電所外部は二の次だったように見えた。
そのため、事故直後から約二週間というもの、原子炉の状態把握とその冷却にばかり注意が向けられていた。保安院は三月十八日以降の全体会議の内容を簡単なメモにして公表しているが、話し合われているのは原子炉の状態と冷却計画ばかりで、放射性物質の拡散や封じ込めについてはあまり触れられていない」(以上p47より 引用はここまで)
重要な指摘です。要するに東電も保安院も、放射能を封じ込めることで人々を守るよりも、原子炉を守ることを優先していたのです。
ではそうした心証を持っていた東電と保安院はなぜメルトダウンの事実を隠したのでしょうか?この点でも原子炉を、いやもっと大きく原発を守ろうとしたのだと思われます。
何から守るのか。冷却ができなくなった要因からです。端的にこの時、少なくとも1号機では津波の前の地震によって大規模な配管破断が起きて、冷却材喪失事故が起こっていた可能性が高かったのです。
そうなると事故は福島第一原発のみならず、すべての原発にとって致命的なものになります。地震対策が間違っていたことになり、全原発の運転が認められなくなるからです。
このため東電と保安院はこの時期、冷却ができなくなったのは、冷却水が抜けたからではなくて、津波で送電線が倒れ、非常用ディーゼン発電機も動かなかったことにしたかった。津波対策の誤りにしたかったのです。
そのために東電はメルトダウンを隠し、事故原因を自分たちにとって都合よく解釈して提出するための時間を稼いだのではないか。いやその可能性大です。
この点を検証するために、次回に僕自身が、東電による5月12日のメルトダウンの発表を受けて、14日に発した以下の記事を読み返していきたいと思います。
明日に向けて(111) 「1号機メルトダウン」公表の意味するもの
2011年5月14日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/7afed55aadc2f43fabdbecf0cd6600eb
続く