明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1406)放射線被曝の被害は長い間、隠されてきた(ドイツからの報告8)

2017年07月25日 06時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170725 06:00ドイツ時間)

ドイツのビーレフェルトからです。ドイツに来てから11回目の朝を迎えています。
夕べはアンゲリカとアルパーの家に何人かの方が集まり、楽しい食事会となりました。
二人の家に集まってくるのはトルコ関係者が多く、会話は主にトルコ語、時々ドイツ語になります。プナールさんがときどき通訳してますがもちろん大半は分からない。でも楽しさだけは伝わってくるものですね。
 
ただしいまのトルコはちょうど一年前に起きた現政権に対する「クーデター」と、その瞬く間の鎮圧のあとのもの凄い数の逮捕、職場からの追放など、弾圧の嵐が吹き荒れていて、話はそのことにも及びました。訪ねてきてくださった方の中にも、学者さんで、ただ平和を求める宣言にサインしただけで「テロリスト」扱いを受けてしまい、入国ができなくなっている方もいました。
トルコの民主主義と平和のために、弾圧が少しでも弱まるために何かできることを考えたいなと思います。もちろんそれで自分が入国できなくなることのないように知恵を絞らなくてはなりませんが‥。
 
さて今日は朝8時半の電車でブラウンシュバイクに向かい午後にアッセ2の見学を行ないます。すでにこちらの新聞で報道されている行動です。放射性廃棄物の処分場ですが、水が入り込んで大変なことになっているところです。日本でもテレビニュースで紹介されたことがあるのでURLをここに示しておきます。2012年3月13日に公開されています。
 
このアッセ2への訪問のあとに講演会にのぞみます。内容は反核サマーキャンプ初日に行なったプレゼンを半分に縮めて再編集したもの。
原子力災害対策などはのぞき、おもに福島原発と日本の脱原発運動のいまについてお話ししようと思います。これまたあらかじめ新聞で宣伝されているので、とにかく頑張らないと。まあ、いつも頑張るといえば頑張っているのではありますが。
 
なお今回のブラウンシュバイク訪問に向けて、さらに地元紙よりコメントを求められました。
「広島、福島を経て守田さんが放射線被ばくについて思うことを書いてほしい。報告ではなくどちらかと言えば個人の意見が前面に出た記事を」とのことだったので以下の記事を書きました。どこまで要望に応えられたか分からないのですが、ともあれこれもドイツ語に翻訳していただいています。多少、短くなると思うのですが写真とともに掲載されるそうです。ありがたいことです。

今日のアッセ2や講演会での通訳もこの文章の翻訳もフラウケさんという方がなさってくださっています。お連れ合いはドキュメンタリー映画作家の国本隆史さん。二人とも鎌仲さんの「カノン」のドイツ語字幕入れですごく頑張ってくださったのだそうです。お二人は 3.11 後、赤ちゃんを連れてフラウケさんの故郷であるブランシュヴァイクに移住してこられたとのこと。率先避難者なのですね。通訳、翻訳、そして避難してくださったことへのお礼を伝えなくては。

新聞へのコメントですが、表題にもあるように僕が一番述べたかったこと、多くの方に知って欲しかったことは、被曝影響が本当に長い間、隠されて来て、いまなお続いているということです。その上ですべての核をめぐるひどいことが繰り返されて来たのです。

このことを僕に気がつかせてくれたのは、3月に亡くなられた肥田舜太郎先生と、『隠された被曝』という画期的な本を書かれていた矢ケ崎克馬さんでした。福島原発事故後のことでした。僕はこれをベースに僕なりの放射線防護の活動をくみ上げてきました。「とっとと逃げる」ことを基軸にした篠山市での原子力災害対策への取り組みもその一つです。記事ではここまで触れらませんでしたが、僕はいまも核と放射能の問題の核心はここにあると確信しています。この確信をドイツのより多くの方たちとシェアできたら嬉しいです。以下、記事についてお読みください。
 
*****
 
放射線被曝の被害は長い間、隠されてきた

福島原発事故が起こったとき、私はすぐに東日本の人々に「逃げろ」と発信を始めました。「もし原発事故が起こったら日本政府は人々をきちんと逃がしてはくれないだろう」と確信していたからです。私は「原発が壊れたら自分の近くならすぐに逃げる、遠くなら逃げろという情報を出す」と決めていました。

これに対して放射能の危険性に関する解説は、専門家が行なってくれるだろうと思っていました。私は原発の構造的危険性については知っていましたが、放射線物理学などを専攻したわけではないので、この仕事は専門家に託そうと思いました。ところが幾ら待っても専門家からの解説が出て来ませんでした。それどころか政府にすり寄った科学者ばかりが表にでてきて「放射能のことは心配しなくていい」「かえって少しは浴びた方が健康にいいぐらいだ」などという解説が出始めました。公衆に対する被曝許容の限度値の年間1ミリシーベルトを何十倍、何百倍もする地域がたくさん出現したのに、なお政府は人々を逃がそうせず、これを批判する科学者もほとんど出てこずに唖然としました。

しかも長崎大学から福島に乗り込んだ山下俊一氏という科学者が人々にひどい嘘をつき続けました。彼は「福島原発から出てくる放射能はチェルノブイリの1000分の1にもならないので心配はいらない。マスクもする必要は無い」「放射性セシウムは沸騰したお湯をかければ蒸発するので大丈夫」などと言ったのです。さらに「一番いけないのは放射能を怖がることだ。そのほうが健康に悪い。母親が心配を深めると子ども達の精神に悪い影響を与える」とすら強調しました。

もちろん「そんなのは嘘だ」と思う人々もたくさんいましたが、「福島は安全だ。マスクなどするべきではないのだ」と思いたい人々もたくさん出て来て、あちこちで衝突が始まり、コミュニティやの家庭の中に亀裂が生まれました。

このひどい状態を打ち破るために、私は猛烈に放射線被曝に関する研究を開始しました。とくに把握しようとしたのは、なぜこんなにひどい嘘が出されるのかでした。それで見えて来たことは、放射線被曝の危険性をひどく過小評価することは広島・長崎への原爆投下後に、アメリカによって組織的に行なわれ、現在まで続いているということでした。

原爆投下後、すぐにヨーロッパの科学者達から、「アメリカが使った兵器は次世代の人々をも傷つける非人道的なもので即刻廃棄すべきだ」という見解が出されたからです。アメリカはこれを押しつぶさなければ核戦略を維持できませんでした。そのために被爆者の調査を独占的かつ排他的に行ない、本当の情報は秘匿して、被害が小さかったかのように描いたのです。そのことでもっとも騙されたのは実は被爆者でした。多くの人々が病で苦しみ、死んでいきましたが、その多くが「その死は放射線のせいではない」と宣告され、誰も何も償われませんでした。

同じことは数々の核実験や原発事故の後でも行なわれました。たくさんの人々が深刻な被害を受けたのに無視されました。いや実はこれらは原爆投下前から始まっていました。ウラニウムを鉱山から掘り出す過程で、多くの労働者が被曝し、周辺に放射性汚染物がまきちらされましたが、そのほとんども無視され続けました。「放射能を気にしすぎることの方が身体に悪いのだ」というフレーズもどこでも使われ続けました。

とても恥ずかしいことですが、私は17歳のときからアクティヴに行動してきたものの、やはり騙されていて、この嘘の体系を十分に暴露しきれずにいました。だからこそ私は福島原発事故後に、専門家からまともな見解が出されると期待してしまったのです。私は被曝の危険性についてきちんと見抜けていませんでした。それに対する痛烈な反省を胸に私は人々を守ろうと奮闘しています。

今回、ドイツでWISMUTのウラニウム鉱山跡地を見学してこの確信を深めました。ここでは旧ソ連のためにウランが掘り続けられましたが、同じような被害の無視が続けられました。当時、米ソは激しく対立していましたが、しかし放射能の危険性に関してだけは対立していなかったのです。双方ともに「多少の被曝など心配するな」と語ってたくさんの核実験を行なったのですから。

そのため被爆者は世界中に生まれてしまいました。いやみなさん、核実験を考えるながら、私たち全体が被爆者なのです。私たちは誰もが被曝させられています。このことへの怒りを胸に私たちは核問題を捉え直し、このひどい歴史を転換すべく行動すべきです。未来世代に少しでもきれいにした地球を渡すためにともに尽力しましょう。

コメント (1)
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