守田です(20170725 06:00ドイツ時間)
新聞へのコメントですが、表題にもあるように僕が一番述べたかったこと、多くの方に知って欲しかったことは、被曝影響が本当に長い間、隠されて来て、いまなお続いているということです。その上ですべての核をめぐるひどいことが繰り返されて来たのです。
福島原発事故が起こったとき、私はすぐに東日本の人々に「逃げろ」と発信を始めました。「もし原発事故が起こったら日本政府は人々をきちんと逃がしてはくれないだろう」と確信していたからです。私は「原発が壊れたら自分の近くならすぐに逃げる、遠くなら逃げろという情報を出す」と決めていました。
これに対して放射能の危険性に関する解説は、専門家が行なってくれるだろうと思っていました。私は原発の構造的危険性については知っていましたが、放射線物理学などを専攻したわけではないので、この仕事は専門家に託そうと思いました。ところが幾ら待っても専門家からの解説が出て来ませんでした。それどころか政府にすり寄った科学者ばかりが表にでてきて「放射能のことは心配しなくていい」「かえって少しは浴びた方が健康にいいぐらいだ」などという解説が出始めました。公衆に対する被曝許容の限度値の年間1ミリシーベルトを何十倍、何百倍もする地域がたくさん出現したのに、なお政府は人々を逃がそうせず、これを批判する科学者もほとんど出てこずに唖然としました。
しかも長崎大学から福島に乗り込んだ山下俊一氏という科学者が人々にひどい嘘をつき続けました。彼は「福島原発から出てくる放射能はチェルノブイリの1000分の1にもならないので心配はいらない。マスクもする必要は無い」「放射性セシウムは沸騰したお湯をかければ蒸発するので大丈夫」などと言ったのです。さらに「一番いけないのは放射能を怖がることだ。そのほうが健康に悪い。母親が心配を深めると子ども達の精神に悪い影響を与える」とすら強調しました。
もちろん「そんなのは嘘だ」と思う人々もたくさんいましたが、「福島は安全だ。マスクなどするべきではないのだ」と思いたい人々もたくさん出て来て、あちこちで衝突が始まり、コミュニティやの家庭の中に亀裂が生まれました。
このひどい状態を打ち破るために、私は猛烈に放射線被曝に関する研究を開始しました。とくに把握しようとしたのは、なぜこんなにひどい嘘が出されるのかでした。それで見えて来たことは、放射線被曝の危険性をひどく過小評価することは広島・長崎への原爆投下後に、アメリカによって組織的に行なわれ、現在まで続いているということでした。
原爆投下後、すぐにヨーロッパの科学者達から、「アメリカが使った兵器は次世代の人々をも傷つける非人道的なもので即刻廃棄すべきだ」という見解が出されたからです。アメリカはこれを押しつぶさなければ核戦略を維持できませんでした。そのために被爆者の調査を独占的かつ排他的に行ない、本当の情報は秘匿して、被害が小さかったかのように描いたのです。そのことでもっとも騙されたのは実は被爆者でした。多くの人々が病で苦しみ、死んでいきましたが、その多くが「その死は放射線のせいではない」と宣告され、誰も何も償われませんでした。
同じことは数々の核実験や原発事故の後でも行なわれました。たくさんの人々が深刻な被害を受けたのに無視されました。いや実はこれらは原爆投下前から始まっていました。ウラニウムを鉱山から掘り出す過程で、多くの労働者が被曝し、周辺に放射性汚染物がまきちらされましたが、そのほとんども無視され続けました。「放射能を気にしすぎることの方が身体に悪いのだ」というフレーズもどこでも使われ続けました。
とても恥ずかしいことですが、私は17歳のときからアクティヴに行動してきたものの、やはり騙されていて、この嘘の体系を十分に暴露しきれずにいました。だからこそ私は福島原発事故後に、専門家からまともな見解が出されると期待してしまったのです。私は被曝の危険性についてきちんと見抜けていませんでした。それに対する痛烈な反省を胸に私は人々を守ろうと奮闘しています。
今回、ドイツでWISMUTのウラニウム鉱山跡地を見学してこの確信を深めました。ここでは旧ソ連のためにウランが掘り続けられましたが、同じような被害の無視が続けられました。当時、米ソは激しく対立していましたが、しかし放射能の危険性に関してだけは対立していなかったのです。双方ともに「多少の被曝など心配するな」と語ってたくさんの核実験を行なったのですから。
そのため被爆者は世界中に生まれてしまいました。いやみなさん、核実験を考えるながら、私たち全体が被爆者なのです。私たちは誰もが被曝させられています。このことへの怒りを胸に私たちは核問題を捉え直し、このひどい歴史を転換すべく行動すべきです。未来世代に少しでもきれいにした地球を渡すためにともに尽力しましょう。