明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1410)ドイツの人々とともに平和の道を切り開こう(ドイツからの報告12)

2017年07月29日 12時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170729 12:00ドイツ時間) 

ドイツのベルリンからです。昨日の午前中に電車でブラウンシュバイクを発って電車でベルリンにやってきました。電車に乗るのはこれで3回目ですが、ドイツの電車のチケットは事前にインターネットで買うと安く手に入れられます。反対に駅の自動販売機で当日買おうとすると高いし、買い方自体もなかなか難しい。それで今回のチケットは、僕が日本にいる間に全部、桂木忍さんが買ってくださってオンラインでおくってくださっていました。しかも「カンパします」とも言ってくださいました。ありがたいです。
 
ベルリン駅で迎えてくださったのはアネッテ・ハックさん。日本語が達者な方です。実は3年前の初めての原発問題でのドイツ・ベラルーシ・トルコ訪問の旅のとき、僕は前立腺肥大のために尿が出てにくくなり、腎臓が痛んで悶絶の苦しみを味わい、トルコで病院に一泊し、さらにトルコから戻ってから訪れたここベルリンの地でもうどうともならなくなり、セバスチャン・プフルークバイルさんとお連れ合いのクリスチーナさんに病院に担ぎ込んでいただいたのですが、そのときに日本語ができるからと同行してくださったのがアネッテさんだったのでした。なんかもうトルコでもドイツでも恩人がいっぱいできてしまいました。うーむ。ともあれ一生懸命に、コツコツと恩返しをしていこうと思います。
 
いま僕がいるのはそのアネッテさんとお連れ合いのトーマス・デルゼーさんのとても素敵な家です。3階建てのウッディな家でゲストルームがとても広い。テント泊で始まった今回の旅で、最後に一番広くて奇麗で気持ちの良い部屋をあてがってもらえました。(もちろんビーレフェルトでもブラウンシュバイクでもとても快適な部屋に宿泊させていただけたのですが)
夕べはアネッテさんとトーマスさんが作っていただいたご飯を食べながらいろいろと討論。トーマスさんはドイツ放射線防護協会で『放射線テレックス』を発行している方で、何度か日本を訪れ、各地の測定所を訪問されています。話は日本の被曝状況のことにおよび、僕が見て来た最新の知見をお伝えしました。
 
さてその話の報告の前に、話をベルリン到着のことに戻したいと思います。ベルリンで僕は見学したいところがありました。『ホロコースト慰霊碑』です。そう告げるとさっそくアネッテさんが連れて行ってくださいました。場所はブランデンブルグ門のそばでまずは有名な観光地でもあるこの門をくぐってから慰霊碑に向かいました。現場に着くと無数の長方形のコンクリートの造形物が並べられていました。棺をイメージしているのだと思います。しかもとくになんという説明もない。何も書いていない棺のようなものがただただ少しずつ大きさを変えながら縦横無尽に並べられているのです。
 
様子を知っていただくためにウキペディアでの紹介ページのURLを貼付けておきます。建設をめぐる論争なども紹介されています。
 
どうしてこのように作ったのかとアネッテさんに聞くと「詳しくは知らないのですが、たぶんユダヤ人が「無機質」に殺されていったことを名前のない棺のイメージで表しているのだと思います」との答えが返ってきました。でもアネッテさんは「ここは一等地でこの土地を売ったらベルリン市にはとても大きなお金が入ったはずです。それでもここをこうした場にしたことはとても評価できます。でもねえ、この棺のようなイメージには私は創作前に反対したのですよ」とも言われました。理由はこの棺のイメージがユダヤ人墓地の様式とはマッチしてないからなのだそうです。ちなみにアネッテさんのもう亡くなられたおじいさんユダヤ人だったのでした。
 
ここには奥まったところに地下にインフォメーションセンターがあります。そこにも入りたかったのですが、行ってみたらたくさんの人が行列している。先頭がロープで遮られていてなかなか前に進みません。おそらくは何人かごとに解説者がついて内部をまわるのだと思います。興味はあるのだけれど時間がかかりそうだなあと躊躇していると、「ここよりももっとしっかりとした展示をしているところがありますよ。そちらに行きますか?」とアネッテさん。向かった先はベルリン市が主催しているナチス時代を振り返る大きなミュージアムでした。
 
Topographie des terrors
 
「恐怖の地政学」とでも訳せば良いでしょうか。ベルリンのどこにナチスのどんな施設があったのか、そこで何が行なわれたのかが示されています。
ます外の空間にナチスがベルリンで何をしてきたのかを示す何枚ものパネルが展示されています。それも何枚も何枚も続くかなり長いもので何十mかあったと思います。僕はかつてナチスがいかに台頭し、いかに多数派になり、どのようにして滅びて行ったのか、そこから何を学ぶのかをかなり深く研究した経験があったこともあって、とても興味が引かれました。アネッテさんも一枚、一枚の写真や説明文について詳しい解説をしてくださいました。
 
ナチスが台頭し、政権についていく過程ややがて初めてベルリンに強制収容所が作られて行ったこと、そこに抵抗する社会主義者、共産主義者が放り込まれ、殺されて行ったこと。さらにユダヤ人の排斥が始まり、次々と収容所に送り込まれるとともに、抑圧はロマ(ジプシー)の人々、障がい者、ホモセクシュアル、ホームレス、さらにはユダヤ人と結婚しているドイツ人などにも向けられて行ったことなどが克明に示されていました。
 
ここを一通り見て、さらにミュージアムの中に入るとベルリンだけでなくナチス時代の全貌がやはりたくさんのパネルで展示されていました。ナチスが攻め込んだ多数の国のことも展示されていました。館内にはたくさんの人々がいました。各国からの観光者もいるようで、若い人々も多かったです。しかも熱心に展示を読んでいてなかなか動かない。なんだか嬉しい気がしました。
 
アネッテさんはここでも様々な点を教えてくださいましたが、解説があまりに詳しいので途中で理由を尋ねると、ここはもともとベルリンの平和を願う市民運動によって建てられたもので、アネッテさんも2年間にわたって展示物の作成に参加されたのだそうです。まさにこの場を作り出して来た当事者の一人なのです。ベルリン市がお金を出してくれたのはその後のことで、そのために展示が今のように奇麗になったのだとか。「元々は手作りの祖末なものでした」とのことですが、僕はその頃の展示も見てみたい気がしました。
こうした経緯も含めて、この場に来て感じるのは、ドイツの中でナチス時代と懸命に向き合って、真剣な捉え返しをしてきた人々の活動の素晴らしさです。とても尊くかつ勇気と人間愛に溢れた素晴しい行動だと思います。深く感動しました。
 
途中でカフェに入ってアネッテさんとさらにいろいろとお話ししました。僕の父が呉で広島原爆の影響を受けたと思われること、母が東京大空襲の奇跡的な生き残りであること、また僕自身、10年以上にわたって軍隊「慰安婦」問題に携わり、おばあさんたちのサポートをしてきたことなども話した上で、「それにしても僕が思うのは、たとえナチスがどれほどひどかろうとアメリカとイギリスが行なったドイツへの都市空襲はあやまりだと言うことです。このことも告発していきたいとの思いをドイツに来てからもずっと深めてきました」と告げました。アネッテさんも同意してくださいました。
 
僕がそう思ったのは今回、出会った多くの人から戦争の陰、とくに空襲の悲劇を伝えていただけたからでした。
例えば反核サマーキャンプで出会ったアルフレッド・コルブレインさんは、1944年にお父さんを空襲で亡くされています。残されたお母さんは3人の男の子を抱えて大変な苦労をされたのでした。この話にも胸を打たれましたが、もっと過酷な中を歩んで来た方もおられました。それが僕をブラウンシュバイクに招いて下さったボード・ワルターさんでした。
 
ボードさんは「僕はお父さん、お母さんを知らないのです。二人とも空襲で殺されてしまいました」と語られました。「だから僕は先祖がいない人間なんです。何もわからないのですよ」とも。ボードさんは「孤児院」で育ったのだそうです。そこは何かするとすぐに叩かれる場でとても大変だった、辛かったと言います。「僕はそうやってドイツ国家に育てられました。だから悪になりました!」なんて言う。これはボードさんの「ワルター」という名字と「悪」をひっかけたジョークなのですが、なんとも悲しい。ちなみにボードさんは1942年の生まれです。
 
成人したボードさんはいったんは一般の仕事に就きましたが、社会福祉に従事したいと考え出して、教会のもとで専門職としての教育を受けました。その中でカウンセラーとしてのトレーニングも受けたのですが、そのときになってやっと辛かった生い立ちがもたらした心の痛みが癒されて行ったのだそうです。
ボードさんはその後に釜ヶ崎に派遣されてアルコール依存症の人々のケアを7年簡にもわたって続けてくださいました。戦争で自らが背負った辛い生い立ち、両親を知らず、苦しんだ日々のことを背景にしながら、たくさんのさまよえる人々を救ってくださったのでしょう。心からの感謝を伝えました。
 
僕はこの話をブラウンシュバイクの最後の夜のパウル・コーチさんの家での晩餐会の時にも持ち出しました。同時に僕がさまざまな国を訪れて「まだまだ多くの国が正しい戦争と悪い戦争と言う考えを持っていて、正しい戦争は行なうべきだと考えています。それを正して行けるのは「正しい戦争などない」と実感している私たちドイツと日本に住まうものだと思うのです」と語るとパウルさんが深くうなづいて、ご自身の家族のことを話され始めました。
 
「私の一族はかなり前にドイツからハンガリーに移民していました。ところが戦乱でハンガリーが大変なことになり、お母さんは当時6人の子どもを抱えて難民となり、ドイツに逃げてきました。そしてたまたまドレスデンを通過中に、アメリカ軍の大規模な空襲に遭ってしまいました。お母さんは子ども達と防空壕に駆け込み、激しい爆撃をそこでやり過ごしました。そのとき防空壕にあとから飛び込んできた兵士が、一番小さかった子どもの上に落ちて来て子どもの胸を強打しまったそうです。その子はその後、長い間、胸を患ってしまいました。」
 
「それでもなんとか防空壕は持ちこたえ、空襲をやり過ごすことができました。米軍機が去ったとき、人々はもう大丈夫だと思ったとたんに一斉に外に溢れ出て行きました。お母さんもその流れに押し出されて外に出ましたが見回すと子ども達が一人もいません。溢れ出した人の波の中ではぐれてしまったのです。実際には子ども達はそれぞれそのときに周りにいた大人が守ってくれたのですが、お母さんはその後に一人一人探さざるを得ず、6人がやっとそろったのはなんと一年後だったのです。」
 
僕が「パウロさんはそのとき幾つだったのですか」と言ったら「まだいなかったのですよ」と笑う。パウロさんはそうやって6人の子どもとなんとか再会できたお母さんがその次に生んだ7人目の子どもなのだそうです。第262代教皇(1963〜1978年)の名が「パウロ6世」だったそうで「僕はそれを越えるパウロ7世だ」とかいって大笑いしていましたが、そのあとにポツンとこう言われました。「お母さんがそんな目にあってるからね。正しい戦争があるなんて言われてもとても受け入れられないよ。戦争はすべて悪いものだよ」。
 
そうです。その通りなのです。そして僕はさらに戦争の中でも空襲はもっとも許すことのできない戦争犯罪なのだということを付け加えたいです。
なぜか。空襲では軍隊と一般の市民の区別などできず、もっとも犠牲になるのはもっとも逃げにくい市民、女性であり、子どもであり、老人であり、障害者なのだからです。その市民を無差別に大量虐殺してきたのが空襲です。もちろんその中でももっとも悪質なのが、未来世代にまで影響を与えた原爆による空襲でした。
 
もう人類はいい加減、こんなひどい暴力と訣別すべきです。今も続く空襲を止めさせたい。止めさせないといけない。
そのために、自らが大変な犠牲者でもありながら、ドイツという国家が行なった戦争責任を懸命に捉え返して来ている人々と共に歩んでいきたいと僕は強く思います。戦争による加害と被害の双方を知り、継承しているわたしたちの声を世界に広げることで、本当の平和への道を切開いて行きたいです。
コメント (1)
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