次第に光子のお腹が目立ち始め、仲居の仕事をさせるわけには行かなくなった。
常連客から「おめでたなの? いいわねえ」と祝福の言葉がかけられるようになった。
中には「少し早いけど、お祝いの品代わりに」と、多額の心付けを手渡す者が出てきた。
少額ならば「ありがとうございます」と受け取れるのだが、封筒に入った、然もその膨らみ方は尋常ではない。
「とんでもございません」と辞退をすると、光子にではなく女将の珠恵に渡すようになった。
そして「旦那さんって、どんな人なの?」という言葉かけがあり、珠恵も答えに窮してしまう。
「次回おいでになった折にでも」とごまかしてはみるものの、そろそろ決断の時が来たと考える珠恵だった。
実のところ、心は決まっていた。
ただどのようにそれを告げれば良いのか、いやそうではなく、誰に告げれば良いのかで迷いがあった。
当人の光子に? しかしそれでは、珠恵の沽券に関わる。
なにしろ、怒ってしまったのだ。ふしだらだ、断じてしまったのだ。
清二に? 甘やかすようで、どうにも気が収まらない。
では栄三に? 確かに二人にすぐに伝わるだろう。
しかし珠恵の苦渋の決断だとしても、栄三の手柄話にされてしまう。
それは業腹だ。誰に? 誰に? そう! 誰に、ではなく、誰かが珠恵に懇願すれば、いやしてくくれば良いのだ。
そしてその説得に珠恵が折れた、そういうことにすれば良いのだ。
となれば、やはり「誰に」ということになる。小物では珠恵の世間体が保たれない。
といって、外部の者に口出しされるのはいやだ。
第一、誰がそんなことを珠恵に注進するというのだ。
そんなことが言える者とすれば、格からいって、旅館組合の組合長あたりしかいない。
しかしそれもおかしな話ではある。
組合長と栄三が知己の仲であれば、それもあるかもしれない。
しかし二人は、どちらかといえば反目し合う仲だ。
寄り合いでは、意見が対立することが多々あると聞いている。
それにしても時間がない。
珠恵の焦りが極に達したとき、時の氏神さまが現れた。
親戚筋の長老格である、権左衛門が尋ねてきた。
滅多なことでは口を出さない老人で、現在は隠居の身だ。
商売人ではなく、教鞭を40年間とり続けた人物だ。
出世には無頓着で、正義感の強い高潔な人という世評が立っている。
「わたしには商売のことは分からないから」と、決して口を挟まない。
「珠恵さん、おめでたいことが起きたと聞いたのだが」と、帳場にいた珠恵に声をかけてきた。
栄三が頼み込んだのだと気付いた珠恵だったが「まあまあ。先生のお耳にまで入ったとなると、町の皆さん全員に知られていますか」と、わざと相好を崩して見せた。
「いや、それが……」と、栄三の名前を出そうとする権左衛門に対して、その名は口にしないでくださいと口に指を当てて帳場の奥に招き入れた。
従業員たちが立ち入らないようにと、わざわざ番頭に告げて、番頭自身にも入らないようにと釘を刺した。
無論、栄三の入室も禁じて二人だけの話とさせた。
大仰なと思いつつも、それだけ珠恵が困惑しているのだと感じた権左衛門も、大きく咳払いをして頷いた。
相対した二人だが、権左衛門にある疑念が浮かんだ。
栄三によれば珠恵が苦悩していると聞かされた。
ある決断をしなければならないのだが、どちらを選ぶべきか迷っているというのだ。
いやひょっとしてもうすでに、心は決まっているかもしれない。
誰かに背中を押してもらいたいと思っているのかもしれない。
だから権左衛門に、その背中を押して欲しいのですと頼み込んできた。
理由を尋ねた折に、権左衛門が教壇の上で強弁してきた「人には人の道というものがあり、人倫にもとるようなことは決してしてはならない」という言葉が告げられた。
そして、清二と光子のことを話した。
だが眼前の珠恵からは、迷いのようなものは何も感じない。
(ああやはり、ただ背中を押して欲しいのか)。
しかし安堵する権左衛門に対して、珠恵の口からは思いもかけないことばだけが聞こえてきた。
最近の体調やら、隠居生活のこと、子どもたちのこと、そんなことを話題にした。
訝しがる権左衛門に対して、最後まで栄三がしてきした話題は出なかった。
ではなぜ、番頭に誰も入れるなと厳命したのか。
混乱する権左衛門に対して、「しばらくおくつろぎください」と告げて部屋を出た。
どれほど時間が経ったか、いつの間にか眠りについていた権左衛門が、珠恵に声をかけられた。
「先生、お疲れのようですね。いまお車を呼びましたので」。
(わたしはなんのために寄ったのか。なんたる不覚)と恥じ入りながら、帰途についた。
玄関先で深々と頭を下げる珠恵を見た従業員たちは、なにか重要な判断をしたと感じた。
そしてそれが清二と光子の問題であろうことは、誰しもが感じた。
翌日、大広間に全員が集められた。
その場で「清二、光子さん。みんなの前に出なさい」と二人が呼ばれた。
ざわつく皆を静まらせると、女将として重要な決断をしました、と前置きして
「二人を夫婦とします。そして本日これより、光子を若女将とします」と、宣言した。
常連客から「おめでたなの? いいわねえ」と祝福の言葉がかけられるようになった。
中には「少し早いけど、お祝いの品代わりに」と、多額の心付けを手渡す者が出てきた。
少額ならば「ありがとうございます」と受け取れるのだが、封筒に入った、然もその膨らみ方は尋常ではない。
「とんでもございません」と辞退をすると、光子にではなく女将の珠恵に渡すようになった。
そして「旦那さんって、どんな人なの?」という言葉かけがあり、珠恵も答えに窮してしまう。
「次回おいでになった折にでも」とごまかしてはみるものの、そろそろ決断の時が来たと考える珠恵だった。
実のところ、心は決まっていた。
ただどのようにそれを告げれば良いのか、いやそうではなく、誰に告げれば良いのかで迷いがあった。
当人の光子に? しかしそれでは、珠恵の沽券に関わる。
なにしろ、怒ってしまったのだ。ふしだらだ、断じてしまったのだ。
清二に? 甘やかすようで、どうにも気が収まらない。
では栄三に? 確かに二人にすぐに伝わるだろう。
しかし珠恵の苦渋の決断だとしても、栄三の手柄話にされてしまう。
それは業腹だ。誰に? 誰に? そう! 誰に、ではなく、誰かが珠恵に懇願すれば、いやしてくくれば良いのだ。
そしてその説得に珠恵が折れた、そういうことにすれば良いのだ。
となれば、やはり「誰に」ということになる。小物では珠恵の世間体が保たれない。
といって、外部の者に口出しされるのはいやだ。
第一、誰がそんなことを珠恵に注進するというのだ。
そんなことが言える者とすれば、格からいって、旅館組合の組合長あたりしかいない。
しかしそれもおかしな話ではある。
組合長と栄三が知己の仲であれば、それもあるかもしれない。
しかし二人は、どちらかといえば反目し合う仲だ。
寄り合いでは、意見が対立することが多々あると聞いている。
それにしても時間がない。
珠恵の焦りが極に達したとき、時の氏神さまが現れた。
親戚筋の長老格である、権左衛門が尋ねてきた。
滅多なことでは口を出さない老人で、現在は隠居の身だ。
商売人ではなく、教鞭を40年間とり続けた人物だ。
出世には無頓着で、正義感の強い高潔な人という世評が立っている。
「わたしには商売のことは分からないから」と、決して口を挟まない。
「珠恵さん、おめでたいことが起きたと聞いたのだが」と、帳場にいた珠恵に声をかけてきた。
栄三が頼み込んだのだと気付いた珠恵だったが「まあまあ。先生のお耳にまで入ったとなると、町の皆さん全員に知られていますか」と、わざと相好を崩して見せた。
「いや、それが……」と、栄三の名前を出そうとする権左衛門に対して、その名は口にしないでくださいと口に指を当てて帳場の奥に招き入れた。
従業員たちが立ち入らないようにと、わざわざ番頭に告げて、番頭自身にも入らないようにと釘を刺した。
無論、栄三の入室も禁じて二人だけの話とさせた。
大仰なと思いつつも、それだけ珠恵が困惑しているのだと感じた権左衛門も、大きく咳払いをして頷いた。
相対した二人だが、権左衛門にある疑念が浮かんだ。
栄三によれば珠恵が苦悩していると聞かされた。
ある決断をしなければならないのだが、どちらを選ぶべきか迷っているというのだ。
いやひょっとしてもうすでに、心は決まっているかもしれない。
誰かに背中を押してもらいたいと思っているのかもしれない。
だから権左衛門に、その背中を押して欲しいのですと頼み込んできた。
理由を尋ねた折に、権左衛門が教壇の上で強弁してきた「人には人の道というものがあり、人倫にもとるようなことは決してしてはならない」という言葉が告げられた。
そして、清二と光子のことを話した。
だが眼前の珠恵からは、迷いのようなものは何も感じない。
(ああやはり、ただ背中を押して欲しいのか)。
しかし安堵する権左衛門に対して、珠恵の口からは思いもかけないことばだけが聞こえてきた。
最近の体調やら、隠居生活のこと、子どもたちのこと、そんなことを話題にした。
訝しがる権左衛門に対して、最後まで栄三がしてきした話題は出なかった。
ではなぜ、番頭に誰も入れるなと厳命したのか。
混乱する権左衛門に対して、「しばらくおくつろぎください」と告げて部屋を出た。
どれほど時間が経ったか、いつの間にか眠りについていた権左衛門が、珠恵に声をかけられた。
「先生、お疲れのようですね。いまお車を呼びましたので」。
(わたしはなんのために寄ったのか。なんたる不覚)と恥じ入りながら、帰途についた。
玄関先で深々と頭を下げる珠恵を見た従業員たちは、なにか重要な判断をしたと感じた。
そしてそれが清二と光子の問題であろうことは、誰しもが感じた。
翌日、大広間に全員が集められた。
その場で「清二、光子さん。みんなの前に出なさい」と二人が呼ばれた。
ざわつく皆を静まらせると、女将として重要な決断をしました、と前置きして
「二人を夫婦とします。そして本日これより、光子を若女将とします」と、宣言した。
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