5日(金)。わが家に来てから239日目を迎えたモコタロです
閑話休題
水村美苗著「日本語が滅びるとき~英語の世紀の中で(増補)」(ちくま文庫)を読み終わりました 著者は12歳で渡米,イェール大学卒.フランス文学専攻.「私小説」「本格小説」などで文学賞を受賞し,この「日本語が亡びるとき」で小林秀雄賞を受賞しています
実は,この本,一昨年の飲み会でご一緒したテナントT社のSさんに薦められて「いつか読まなければ」と思っていたのですが,文庫化されたのを機会に思い切って買ったものです 冠に「増補」とあるように,400数ページの本編の他に,巻末に46ページに及ぶ「文庫本によせて」が付いています
この作品は次の7章と「あとがき」と「文庫本によせて」から成っています
第1章 アイオワの青い空の下で”自分たちの言葉”で書く人々
第2章 パリでの話
第3章 地球のあちこちで”外の言葉”で書いていた人々
第4章 日本語という”国語”の誕生
第5章 日本近代文学の奇跡
第6章 インターネット時代の英語と”国語”
第7章 英語教育と日本語教育
「文庫本によせて」を含めて454ページに及ぶ作品の中で著者が一番言いたかったことは何か
著者はアメリカに長く住んだ経験から,全地球的規模から比べれば少数派である”日本語”が大きな岐路に立たされていること,インターネットの普及とともに益々大きな存在になった普遍語=英語の問題を避けて,これからの時代を理解していくことは出来ないことに思いを致しています 一つ一つの言葉を慎重に選択しながら論理を展開していく彼女の姿勢を目の当たりにすると,著者が本当のインテリであり,日本語の将来に危機感を感じていることがよく分かります
「文庫本によせて」の中で彼女は次のように語ります
「日本から一歩離れてものを見れば,日本語そのものが,護らねば滅んでしまう,か弱いものなのである 日本語はどこの言語グループにも属さないうえ,人口減少に伴い,母語集団も滅っていく言葉である.しかも,日本という一つの国でしか使われていない 日本語を護らねばならないという合意に達するのは,日本人にしかできないことなのである.その合意に達する初めの一歩として,優れた近代文学を読み継ごうという機運が生まれること・・・・私が願うのは,それだけである 知ることは愛することに通じるという格言があるが,知らないものを,どうやって愛することができるだろうか」
前後の脈略を考慮して読み解くと,世界の中で諸外国と対抗していくには英語の知識が不可欠であるが,正しい日本語を自由自在に使いこなして初めてそれが可能になるのだ,と言いたいのだろうと思います
さて,この本を薦めてくれたSさんと次に飲んだのは昨年11月でした.その時,やはり読書論になって「いまハリーポッターを読んでますが,ものすごく面白いです」とおっしゃっていました.その時は,私も読んだことがあるし映画でも観たことがあるので,「あゝそうなんだ」と思っていましたが,今回この本を読んでいたら次のような文章に目が止まりました
「小説がもつ役割の一部は,それらの”文化商品”によって取って代わられてしまった.小説は”文化商品”の王座から転げ落ち,あまたある廉価な”文化商品”のうちの一つになってしまった そこへ追い打ちをかけるのに大衆消費社会の出現がある.20世紀から21世紀にかけて,地球的な規模で起こったのが,英語で書かれ,アメリカでベストセラーになったのが幸いした『ハリー・ポッター』である・・・・・『ハリー・ポッター』とは,ほかの子が読んでいるから自分の子にも読ませねばと世界中の親が思うに至った本である 原理的には,そのような本はどのようなものでもありうる.優れた文学だという可能性さえある.大衆消費社会の中で流行る文学は,そこに書かれている言葉が”読まれるべき言葉”であるか否かと関係なしに,たんにみなが読むから読まれる本だからである だが,それは確率的には,つまらないものが多い.それは,多くの場合,ふだん本を読まない人も読む本であるし,ポップ・ミュージックと同様,流行に敏感に反応するのを,まさに生理学的に宿命づけられている・・・・」
つまり,著者は『ハリー・ポッター』を英語で書かれたことが幸いし世界中でヒットした”文化商品”の代表のような作品であると看做しており,文学としては評価していないのは明らかです この点について,機会があればSさんのお考えをお聞きしたいと思います
この本は,私のように頭の固い,あるいは頭の悪い人間にとってはやや難解な作品ですが,この作品が第8回小林秀雄賞を受賞したのは不思議ではないと思います.論理の展開が小林秀雄に似ています
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます