コロナショックによって、日本中のありとあらゆる領域で分断が生じています。
とりわけ政府や自治体による「自粛要請」を盲信して「自粛警察」(自粛していない店や人を警察のように取り締まったり、実際に通報する行為を指すネットスラング)を買って出る人々と、「補償なき自粛」に異議を申し立てて応じない人々、「規制なき自粛」に何の危機感も抱かずに過ごす人々が、お互いを罵り合って収集がつかない「分割統治状態」が出現しています。
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被支配者同士の対立をあおり立てて、支配者への批判をかわす統治手法を「分割統治」と言います。自粛をめぐる3つどもえのバトルは、為政者が頼んでもいないのに勝手連的に沸き起こった地獄絵図です。
都市部を中心に感染者数の増加が収まらず、経済的に困窮する事業者・被雇用者も増えている中で、市民同士による陰湿な相互監視が幅を利かせ、個々の事情などお構いなしに「同調圧力」という暴力が横行しています。
他方、今のところコロナ禍による経済的なダメージをほとんど受けることなく、テレワークの恩恵を享受できている人たちがいることも事実です。巣ごもり特有の「贅沢な悩み」をウェブ会議でほろ酔いで語り、マスク姿の主婦たちは子連れで買い物に繰り出し、公園などに集まって素知らぬ顔で井戸端会議をしています。まるで、パンデミックなど自分たちの生活には大して影響はない、と言わんばかりにです。
筆者はこうした、「深刻」と「楽観」が隣り合うようにして、埋め難い社会の分断が噴出する暗黒世界を「まったりディストピア」と呼んでいます。
感染症で人が死に、仕事がなくなるといった極限状態が展開される一方で、依然被災(こう述べても差し支えない状況になっているでしょう)を免れている人々の間では、実はそれほど変わらぬ日常が続いています。たしかに「ディストピア」感はあるのですが、それは平時にぼんやりと思っていたような破局の光景ではなく、やたらと「まったり」しているのです。
無観客でライブ配信を行なうライブハウスに「次開けたら警察に通報するぞ」と脅し、自粛要請の範囲内で営業している居酒屋に「このような事態でまだ営業しますか?」と張り紙をする「自粛警察」と揶揄される人々は、分かりやすく言えば、増大する「死の恐怖」から逃れるための一時的な代償行為を演じているに過ぎません。実際的な「死のリスク」ではなく「恐怖」からの逃避です。
わたしたちは普段、自らの存在の足下が動揺させられるような大規模自然災害というものですら、ほとんど瞬間的で地理的に限定された「例外状態」として認識しています。
しかし、今回のコロナ禍は、長期化と遍在化によって感染とそれによる死が実際以上のリスクとして強く認識されています。これによって、通常「思慮の外」にあった「死の恐怖」――つまり、自らの身体の動物性、ウイルスの宿主となる動物としての人間、死すべき運命にある動物としての人間といった実存――を意識しないことによって成立していた「自尊感情」が、危機に陥っているのです。
いつの時代も、国家はこうした「死の恐怖」を動員のフックとして活用してきました。ナショナリスティックな言説の背後には、民族の永遠性、共同体への献身といった「死の乗り越え」がしばしばみられます。これによって、わたしたちはただの動物であることを受け入れながら、象徴的に不死を獲得できるというわけです。
けれども現代の国家は、そのような仰々しい役割を担うことを止め、「社会の不条理」は個人の問題、自己責任として処理するよう迫り、国民創生の物語もゴミ箱に捨ててきました。さらに自尊感情の支えとなる家族や地域社会といったソーシャルキャピタル(社会関係資本)はこの数十年間で崩壊し、社会的な連帯も困難になりました。
その結果、わたしたちは溺れかけた人が目の前に浮かんだ流木にすがるように、一時的にせよ恐怖を打ち消してくれる信念や権威に、進んで従おうとしてしまうのです。過剰な「自粛」と「反自粛」は、そのメカニズムの表と裏でしょう。
社会心理学者のシェルドン・ソロモンらは、このようなメカニズムについて以下の通り述べています。
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〈文化的な現実認識が死の恐怖を抑えているからには、自分の信念に反する信念の妥当性を認めれば、自分の信念が抑えつけている恐怖そのものが解き放たれる。そこで私たちはその脅威をかわすために、別の人生観をもつ人々を見下して人間扱いしない。または彼らに私たちの信念を受け入れさせ、彼らの文化を私たちの文化に吸収する、あるいは彼らを完全に抹殺する必要がある〉(シェルドン・ソロモン、ジェフ・グリーンバーグ、トム・ピジンスキー『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか 人間の心の芯に巣くう虫』大田直子訳、インターシフト)
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しかも「他者を軽んじるこの傾向は、とくに死を思い起こさせられた直後に顕著となる」というのです。
コロナ禍で感染者を「殺人鬼」と評した政治家が典型ですが、潜伏期間の長さや無症状の者が多いこのウイルスのステルス性によって、すべての他者が「死の可能性」を帯び、自粛に従わずに遊んでいる若者などに至っては無自覚な「死の媒介者」に見えてしまうのです。いわば、人々の一挙手一投足が、恐怖の源泉となっています。
国家や自治体の非公式のサポーターである「ミニ権力者」となり、不愉快な他者を攻撃しているあいだだけ、「恐怖そのもの」は「身近な権威」を借りた正義感や使命感によってやり過ごすことができます。
けれども、そもそも全国民の行動変容を実現し、リスクをゼロにできるというのは完全に幻想です。「自粛警察」は政府の「クラスター対策」と同じく、木を見て森を見ずの状態で、自らの妄想と戦っているのです。いわば逃避の一種です。要するに、何ら現実を直視できていないのです。
片や、「規制なき自粛」をあざ笑うかのように、何の危機感もないまま、好き勝手に振舞っている人々がいます。
自分だけは大丈夫という「正常性バイアス」の仕業と言ってしまえばそれまでですが、ここでも実は、ソロモンらが指摘したメカニズムが作動しているのです。「自粛ムード」を「楽観ムード」に置き換えただけで、まったく同じ防衛機制が機能していることに気付きます。
いつも通りの習慣を維持すること、これまでのルーティーンを変えないことが、「恐怖そのもの」のストッパーになる――この認識は制御しようがないのです。コロナ対策で営業時間を短縮しているスーパーマーケットやホームセンターなどが、家族連れでごった返すという異常事態が、まさにそれを表してしまっています。
買い物で外出することによるに感染リスクよりも、買い物で得られる精神的な安定性が優先されるのです。ルーティーンを確認できるのであれば何でも良いのです。
しかし、この心性もまた、新たな混乱の種でしかありません。
こうした人にとって「心理的な安心感」は以前と変わらぬ習慣、ルーティーンに大きく依存しています。それがリスクの過小評価に基づく「日本すごい」論となんとなく合わさって、「楽観ムード」に水を差す者、悲観的な見通しを語る者を、原発事故の際の「危険厨」のようなものとして一笑に付すのです。
ソロモンらの警鐘はここでも有効です。「『異なる他人』を見下しているときのほうが、やっかいな死の考えを消し去りやすい」(前掲書)からです。
もちろん、逆に「日本がニューヨークのような惨状になる」というのも、何のエビデンスもない戯言でしょう。しかしむしろ、日本において最も驚愕すべき事実は、行政側の都合によってPCR検査を厳しいハードルを設けるなどして大幅に抑制してきたために、かえって感染症の流行がどのフェーズにあるのかを正確に把握できるデータがどこにもないことの方です。緊急事態宣言とその開始時期、あるいは解除や延長の妥当性も、判断のしようがないというわけです。
遅かれ早かれ、経済活動は段階的にしろ部分的にしろ再開せざるを得ません。その場合、当然ですが「ゼロリスク」はあり得ません。また、何事もなかったように元に戻す楽観論もあり得ないでしょう。今後、この2つの極論がさらなるいがみ合いを始めることは間違いありませんが、重要なのは、自分たちが生きるために必要な経済活動と健康リスクのバランスです。
まったくアテにならない「自粛要請」に後押しされた「自粛ムード」を金科玉条のごとく受け取らずに、一方で過剰な楽観や危機意識に対する冷笑にも陥らずに、この状況に「殺されないためにできること」を考え抜いて生きることが重要になります。それは「深刻」でも「楽観」でもない第三の道を切り拓くことにつながります。
コロナ禍でも思考停止に陥らずに活路を見い出しているのは、誰のために何を守るのかを明確に見極めることができ、平時から共助のネットワークを大切にしていた人々です。
愚かな国家にも罵詈雑言を投げ付ける市民にも振り回されないために、そして他者を攻撃することで不安を解消する「感情のモンスター」にならないために、この「まったりディストピア」の欺瞞に引きずられない強さをもって、当面はこのコロナ禍と賢明に付き合っていかなければならないでしょう。
真鍋 厚(評論家・著述家)
最終更新:5/4(月) 11:46
現代ビジネス