住宅火災で5人死亡、奈良・五條 子ども3人含む家族か

2020年05月20日 13時08分01秒 | 事件・事故
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<time style="line-height: 1.4;">5/20(水) 11:56</time>配信

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<button class="sc-TOsTZ gsCfop" type="button" aria-label="次へ" data-rapid_p="39"></button>奈良県五條市の住宅火災現場=20日午後0時9分(共同通信社ヘリから)

 20日午前10時5分ごろ、奈良県五條市住川町の木造2階建て住宅で近くの人から「煙が上がっている」と119番があった。2階部分が激しく焼け、地元消防によると、2階から子どもを含む5人の遺体が見つかった。住人の家族5人と連絡が取れておらず、五條署はこの一家とみて身元の確認を進める。  

消防によると、遺体で見つかった5人は、2歳ぐらいの男児と、小学生ぐらいの男児2人、30代ぐらいの男女。火は約2時間後に消し止められた。  現場はJR北宇智駅から約600メートル北東の住宅街。

 
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最終更新:<time class="sc-feJyhm cShsfx">5/20(水) 13:03</time>
共同通信</footer>

王貞治会長80歳の誕生日。工藤監督が「感動した」25年前の監督室での出来事とは

2020年05月20日 13時02分20秒 | 野球

公園で遊ぶ男児に包丁見せ「ちょっと来い」と追いかける…男「声がうるさい」

2020年05月20日 13時00分03秒 | 事件・事故
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<time style="line-height: 1.4;">5/20(水) 10:03</time>配信

長崎県警大浦署などは17日、長崎市高浜町の無職の男(67)を暴力行為等処罰法違反容疑で逮捕した。発表では、同日午後5時10分頃、自宅近くの公園で遊んでいた男子児童(9)らに包丁(刃渡り約16センチ)を見せ、「ちょっと来い」などと言って追いかけて脅迫した疑い。「子どもの声がうるさかった」と話しているという。
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義理の娘に馬乗り平手打ち、足持って体を無理やり反らせる…男を逮捕

2020年05月20日 12時50分48秒 | 社会・文化・政治・経済
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<time style="line-height: 1.4;">5/20(水) 10:33</time>配信

義理の娘である小学生の女児(7)に馬乗りになって暴力をふるったとして、島根県警出雲署は18日、出雲市高松町の大工の男(28)を暴行容疑で逮捕した。
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「私は事実とは関係ありません」と否認している。  発表によると、男は5日午後9時45分~10時頃、自宅でうつぶせの女児に馬乗りになり、尻や頭を平手で複数回たたいたり、足を持って体を無理やり反らせたりした疑い。女児にけがはなかった。  

出雲児童相談所から7日に「父親からの虐待があり、児童を一時保護する」と署に連絡があり、捜査していた。また、同署は昨年10月に、男の家庭で虐待の疑いがあると同相談所に通告していた。

 
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最終更新:<time class="sc-feJyhm cShsfx">5/20(水) 12:35</time>
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日本の若者の自己肯定感を低くする「親の口ぐせ」とは

2020年05月20日 12時50分48秒 | 社会・文化・政治・経済
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<time style="line-height: 1.4;">5/20(水) 6:01</time>配信

子どもが自己肯定感を上げていく、自分のことが好きになる、そんな言葉かけにはどんなものがあるでしょうか(写真はイメージです) Photo:PIXTA
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 在宅での生活が続く昨今、子どもとのコミュニケーションで悩む親が増えているといいます。いつも以上に子どもと過ごす時間が増え、つい気になって口出ししてしまうのかもしれません。

しかし、そんなダメ出しを少し言いかえるだけで、子どもはやる気を出し、自ら動けるようになるまで変化します。そこで今回は、プロコーチの田嶋英子氏の『叱りゼロ!「自分で動ける子」が育つ魔法の言いかえ』(青春出版社)から、子どもの「自己肯定感」を高める親の言葉を紹介します。

● 先進国で「自己肯定感」が最も低い日本の現状  日本は、先進国の中で「自己肯定感」が目立って低い国です。内閣府の若者(13歳から29歳)を対象にした調査によると、「自分に満足しているか」という問いに対して、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどが軒並み8割超え、お隣の韓国でも7割がイエスの回答です。  

ところが日本ではイエスの回答は、たったの45パーセント。半分以下です。「自分には長所があるか」という問いに対しての回答は、イエスは7割弱です。どちらの問いも各国の中で最下位です。  

日本人のこの「自己肯定感」の低さと、若年層の自殺が増え続けている(自殺者全体の数は減っています)ことには関連性がありそうです。「何かができる」(有能、有益)、「何かを持っている」(所有)のような根拠がなくても「自分には存在する価値がある」と思えるという感覚を育むのに、家庭は重要な役割を果たします。

 家庭での日常の言葉かけ、子どもにとっていちばん耳にする機会の多い、お母さんの言葉を振り返ってみましょう。自己肯定感を上げていく、自分のことが好きになる、そんな言葉かけにはどんなものがあるでしょうか。

● 親が心配しすぎるから「心配な子ども」に育ってしまう  親が子どもに対して、「心配」という言葉を使うのを、よく耳にします。その子どもが、もはや成人していても、です。  「心配」という言葉を使う人は、きっと子どもの頃から「心配」と言われて育っていると思います。お母さんは、本能として子どものことを心配してしまう生き物ですから、「心配」と思ってしまい、言ってしまいます。心配するのは親の愛情だ、と思っている人も多いでしょう。  

しかし、「心配」という言葉で、何をイメージするか、考えてみましょう。「ちゃんとできるかどうか、不安」「この子は、要領が悪いから」といった背景が浮かんできたのではないでしょうか。「心配」が、子どものことを思っての言葉であることは、間違いありませんが、イメージする未来が、前向きでないことも確かです。  

一方で、「心配なんかまったくしていない、ウチは放置です」と言われるお母さんもいます。しかし、「心配」の反対語は、「信頼」であって、「放置」や「無視」ではありません。この違いは、愛情があるかどうか、気にかけているかどうか、です。

「放置」という言葉では、子どもに愛情は伝わりません  そこで、「心配」という言葉の代わりに、「信頼」「信じてる」を選択しましょう。「心配」される子どもより、「信頼」される子どものほうが、将来的にも良いはずです。今までがどうだった、とかよりも、これからどうなってほしいのかが大事です。  

今「心配」だったとしても、お母さんが「信頼」するから、「信頼される子ども」が育ちます。将来、「信頼される大人」になってもらうために、まずは母親が「心配」を「信頼」に言いかえてあげてください。

● 子どもにとって「ダメ」よりも効果的な言葉とは  「ダメだ」という言葉は可能性を消してしまう言葉です。白か黒か、はっきり明確に線を引いてしまう言葉だからです。

もちろん、世の中には、「ダメ」なことはありますから、それに対して、「ダメ」と表現するのは必要なことです。  たとえば、安全に関すること。命に関わったり、大きなケガや病気につながること。それから、法律に触れること。

犯罪はもちろん、「ダメ」ですね。  しかし私たちは、あまりにも頻繁に、あまりにも簡単に、「ダメ」を使っていないでしょうか。「ダメ」なものは「ダメ」。お母さんが「ダメ」と言ったら、「ダメ」なんだ、そう子どもに思わせるためには、実はしょっちゅう「ダメ」と言わないほうが効果的です。ほんとうに「ダメ」なことにだけ、「ダメ」を使いましょう。  さらに、「ダメな子ねえ」などとつい言っていませんか?

子どもは、子どもですから、「ダメ」なことをしでかします。でも、そのコトが「ダメ」なのであって、その子が「ダメな子」じゃないです。「ダメよ」と禁止したり、「ダメね」とレッテルを貼ったりすることでは、子どもの自己肯定感は育まれません。

 ほんとうの意味で「ダメ」ではないなと感じたら、「ダメ」の代わりに「よくない」を使ってみませんか。「よくない」という言葉の背景には、「とてもよい」「よい」「悪くない」「よくない」「悪い」「とても悪い」があります。よくないことをしている子どもに、注意する必要があるときは、「よくない」と言いましょう。場面に応じて、「悪い」「とても悪い」を使ってもらってもいいです。  本当に「ダメ」なのか、そうでないのか?

そうやって使う言葉を選んでいると、親のほうも感情的に「ダメ」と叱っていたのが、理性的に判断できるようになります。

● 子どもがやる気になるのは減点法ではなく「加点法」  小さい頃は、何でも、「スゴイ」「カワイイ」「上手」って言われてほめられた子どもたち。いつの頃からか、ほめられなくなってきます。何かできたときだけ、何か役に立ったときだけしか、ほめられなくなって、できないところを指摘されることのほうが多くなってきます。

また、何かやろうとする前に、「あなたには無理」と言われると、やってみる気持ちにさえなれないでしょう。特に、ハードルの高いものに挑戦しようという場面で、「無理」と言われてしまうと、さらに自信がなくなってしまいます。  

「無理」という口ぐせをよく使うお母さんの特徴は、できる面を見るよりも、できないところに目が向くことです。子どものテストが90点だったとしたら、マイナス10点に注目してしまう傾向があります。  「90点取れて頑張ったね」でなくて、「残り10点どこ間違えたの?」と突っ込みます。マイナス10点を埋める力がないのに、100点を取ろうなんて「無理」というわけです。  

それはそれで必要な力ではあるのですが、子どもの自己肯定感を育むためには、減点方式からくる「無理」という表現は適切ではありません。自己肯定感は、加点方式(この場合は90点取れた)からくる「100点取れたらスゴイ」という表現から育まれます。  今現在(90点)を承認し、100点を取れる可能性があることを子どもに伝えることで、子どもの自己肯定感は上がります。

そして、この方式が、健全に子どもを導いていく方法です。「無理」と思っても、「できたらスゴイよね」と言ってあげてください。  親が普段使っている言葉は、子どもの人生を左右するほどの影響力があります。家で子どもと過ごす時間が多くなった今こそ、言い方を少し工夫して子どものやる気を引き出してあげてください。

田嶋英子

 

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「武漢ウイルス」から露見した「中国の真相」  日本の皆様へ 台湾から伝えたいこと

2020年05月20日 12時41分43秒 | 社会・文化・政治・経済
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<time style="line-height: 1.4;">5/20(水) 7:32</time>配信

蕭新煌氏
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 昨年12月、中国より拡大した「武漢ウイルス」は約187国・地域に広がり、感染者は480万人を超えて、31万人以上の命が奪われました(数字は5月19日時点)。これほどの人的被害の発生は第2次世界大戦以降で初めてです。最大規模の「人為的ミス」による災難と言えます。

中国と最短で幅約130キロの海峡を隔てたところに位置する台湾も大きな被害は免れ得ないところでした。ただ、蔡英文政権が迅速な対応策を取ったことで、感染拡大の抑え込みに全体としては成功しています。(寄稿、台湾総統府・最高相談役=蕭新煌)  

SARSの教訓  成功の背景として次の3つを挙げます。

 ①2003年に中国を発生源とし、台湾でも多数が死亡した重症急性呼吸器症候群(SARS)を教訓に、台湾の疾病管制署が昨年12月31日から武漢発直行便の検疫を強化するなど、蔡政権は早い段階から防疫対策に取り組みました。②蔡政権と多くの台湾人は、SARSの際の情報隠しなど中国の「虚偽体質」を繰り返し見聞きしてきた経験から、中国を全面的に信用していません。③世界保健機関(WHO)が「武漢ウイルス」への対応で、当初からあからさまな「中国寄り」の対応を取ったことで、台湾はWHO発の情報を信用することなく、独自の判断で防疫対策に当たりました。

 

世界保健機関(WHO)本部=18日、スイス・ジュネーブ(ロイター=共同)

 蔡政権の初期段階の施策としては、1月22日に中国疫区との往来を禁止し、台湾入境者全員に14日間の強制隔離を厳格実行することを決めました。マスク対策では、行政院(内閣)が24日に輸出停止を表明する一方、国内生産を企業に促して増産し、政府が全面的に管理下に置くことで国内6千か所の健康保険特約薬局で平等に購入できるシステムを構築しました。  

▽中国観光客は事前に激減  実は「武漢ウイルス」が発生した時点で、台湾を訪れる中国人観光客は少なくなっていました。背景には複雑な経緯がありました。  親中路線の国民党の馬英九前政権は2014年に中台が一段と市場開放を進める「サービス貿易協定」締結を中国と進めてきました。

対中急接近に危機感を強めた学生らは、同協定締結について審議中の立法院(国会)を占拠する「ヒマワリ運動」を起こし、締結阻止につなげました。仮に締結されていれば、中国全土からさまざまな業種の中国人が大量に台湾に押しかけていた恐れがありました。ただ、中国は同協定締結が阻止されたことに不満を強めました。

さらに、台湾独立志向の民主進歩党(民進党)が16年の総統選と立法委員(国会議員)選で勝利して再び与党になりました。これに対しても中国は強く反発しました。中国は圧力強化の一環として、台湾を訪れる観光客を制限し、昨年8月から中国から台湾への個人観光旅行を全面的に停止しました。

 これらが台湾を訪れる中国人が激減した理由です。思い返せば、サービス貿易協定を阻止しようと懸命に抵抗した若者たちの勇気ある行動こそが、「武漢ウイルス」による台湾での被害を最小限に抑えられたきっかけだったといえます。  

▽国際社会の対中批判  中国とWHOは、今回のウイルスが「中国・武漢に由来する」という事実を隠すために「武漢ウイルス」という呼び方を別名に変えようとしています。さらに、世界中がウイルス対策で躍起になっている最中に、台湾周辺に頻繁に軍用機と軍艦を派遣し、台湾の領空と領海を侵犯してきました。これらの動きは、台湾国民の対中嫌悪感を高める一方です。

 中国は3月末から「国際親善援助」として欧米や南米諸国などにマスクや医療資材を送りました。各国からの賞賛を期待しつつ、災害便乗商法も同時に推進しています。  しかし、スペインでは中国企業から購入した検査キットが不良品だと判明して5万8千個が返品となったり、オランダでも中国製マスクを回収、トルコでも検査キットの欠陥が見つかったりするなど中国製から多くの不良品が見つかりました。

このような非道徳的行為に対し、責任感と正確な判断力を有する各国政担当者が中国に好印象を抱くはずがありません。  「武漢ウイルス」の感染拡大に対し、米政府の関係筋は「第1級殺人に相当する」と指摘した上で、中国に対して欧州人権裁判所に提訴するなどの法的措置を取ることを検討していると発表しました。

ブラジルも「(中国が)ウイルスの中心地」と非難しています。国際司法裁判所、全インド弁護士会も賠償請求に向け、国連に調査提案を提出しました。さらにイギリス外交シンクタンク「ヘンリー・ジャクソン協会」も損害賠償請求報告書を作成しています。感染拡大が一定程度落ち着いた後、次々と中国を相手取った損害賠償の請求が始まるとみられます。

 ▽中国によるサイバー攻撃  中国は「5千年の歴史を有する」などと大国ぶりをアピールし続けています。しかし、台湾に対するこそくな振る舞いからは大国としての器量は全く感じられません。  

中国は世界各国の大総領事館に駐在している外交官を総動員するとともに、共産党が指導する「サイバー軍」を活用して、台湾への友好的な言論に対して激しい中傷誹謗、さらには恐喝などの攻撃を続けています。サイバー軍は、国内外の世論を中国の主張に沿うように誘導することを狙っています。  

台湾の陳時中衛生福利部長(衛生相)は今年1月20日に発足した中央感染症指揮センター対策本部のトップを兼任して以降、毎日欠かさず記者会見を開いて、感染を巡る最新情報や対策について丁寧に説明しています。陳部長の真摯な姿勢に対して、国民は熱い信頼を寄せ、人気は極めて高くなっています。

しかし、中国は台湾に留学に来ている中国学生らを使ってネット上に「ナイフを磨きながら(いずれ)殺す」と書き込み、陳部長を脅迫しました。台湾の警政署(警察庁)の調査によると、複数の中国人留学生が関与していたとされます。中国による台湾世論の攪乱を狙った浸透工作を裏付けました。

  ▽台湾のマスク支援  蔡英文政権は台湾の感染対策に力を入れるとともに、国際社会への配慮も忘れていません。1月時点でマスク生産能力は日産188万枚でしたが、現在は日産1500万枚に達しています。そのため、欧州連合(EU)に700万枚、米国に200万枚、日本に200万枚、台湾と外交関係を結ぶ友好国に100万枚を贈呈しました。厳しい管理により品質は高く、世界各国の政府関係者から高く評価されています。

また、マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツ氏や著名歌手のバーブラ・ストライサンド氏らからも台湾に対する熱い賛辞が寄せられています。  

▽グローバリゼーション再評価を  「武漢ウイルス」の世界的感染拡大を受け、過去20年間に政治家や産業界、学術界、メディアが讃えてきた「グローバリゼーション」を評価し直す必要に迫られています。「グローバル化」は過度に美化され、支持する人たちは資本、金融、投資のグローバル化の長所しか見てこなかったと思います。

一方、「反グローバリゼーション」を主張する人たちは、批判の対象を階級社会の二極化や地球環境破壊といった分野に集中していました。「グローバル化に伴う感染症の拡大」という副作用は、全く研究されていません。

今回の世界規模の感染拡大は、まさに今、世界に警鐘を鳴らしています。今後の社会科学の視点や世界の人々の見方を変えるきっかけとなるのは間違いありません。さらに、世界金融株式市場の脆弱さ、人類の命の安全にかかわるグローバル化がもたらしたリスクについても、改めて考え直さなければならいと思います。  

▽民主の台湾、洗脳の中国  今回の感染拡大により、浮き彫りになった事実は他にもあります。   まず、台湾です。蔡英文政権が的確に対応できた根本的な理由は、民主主義の価値を堅持しつつ専門知識を最大限活用し、政権が強いリーダーシップを発揮したためです。

そして、台湾国民の根気強さと、他者を思いやる優しい心が台湾を支える最強の力となっています。そうした中、台湾で民主主義のメリットを受けながら、中国共産党の顔色をうかがいつつ片棒を担ごうとする親中政党は極めて残念な存在です。  次に、中国です。

感染拡大に対する責任を反省することなく、ウイルスが人工的につくられたとの指摘に対しても説明をしていません。このような中国政府に洗脳された中国人は、グローバル化に伴い、民主主義などの価値観を掲げる西側社会に接する機会を得られているにもかかわらず、簡単には一党独裁の中国共産党への盲信から抜け出せないことが明らかになりました。

 ▽日本と国際事業で協力を  台湾は中国の執拗な妨害によって、WHOから排除されています。WHOに加盟できていないため、世界各国に通報されている情報を受けることができません。台湾は厳しい現実をかみしめつつ、懸命に自力で国民の健康を守ってきました。  

中国による絶え間ない嫌がらせにより、さまざまな局面で国際社会から排除されるという理不尽な目に遭ってきました。しかし、今回の世界的危機に当たり、台湾は世界に対する人道的支援活動を展開しています。台湾国民の大多数は微力ながら、国際貢献に尽くしていきたいと願っています。

日本とも今後もさらなる信頼関係を築き、多くの国際事業で手を携えていくことができればと願っています。(2020年5月19日)   ×  ×  × 蕭新煌(しょう しんこう) 1948年12月26日生まれ、台北市出身。米ニューヨーク州立大バッファロー校社会学研究所博士。国立中央研究院社会学研究所・元所長、国立台湾大学社会学部教授。専門は環境社会学、開発社会学。アジアにおける振興民主主義など。1996~2006年に総統府国策顧問。16年から現職。

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高齢者「身分証明書ない」 10万円給付申請、気仙沼で問い合わせ相次ぐ

2020年05月20日 12時32分51秒 | 社会・文化・政治・経済
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<time style="font-size: 18px; line-height: 1.4;">5/20(水) 9:45</time>配信

新型コロナウイルスの緊急経済対策で一律10万円を配る特別定額給付金で、気仙沼市が郵送した申請用紙が各世帯に届き始めた18日以降、高齢者から「(顔写真付きの)身分証明書がないがどうすればいいか」という問い合わせが相次いでいる。
18日だけで約500件、19日も同程度の相談があった。大半が身分証明書に関する内容だったという。  
申請用紙には、本人確認のため身分証明書の写しを貼り付ける欄があり、運転免許証、マイナンバーカード、パスポートが例示されている。
そのいずれも所有しない高齢者が、市に申請方法を確認したとみられる。  18日は電話での問い合わせだけで約420件に上り、夕方まで職員が対応に追われた。来庁して問い合わせる市民もおり、19日午前も庁舎の窓口には10人超の列ができた。
無職女性(85)は「身分証がなく、どうすれば受給できるか聞きに来た。分かりにくいというか、分からない」と話した。  
市特別定額給付金対策室によると、例示した証明書がない場合は健康保険証や介護保険証の写しなどで確認する。申請書は国が示した様式に基づいているという。市の担当者は「市民に迷惑を掛け申し訳ない。もっとスムーズに申請できるフォーマットを考える時間がほしかった」と話した。
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河北新報

 
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最終更新:<time class="sc-feJyhm cShsfx">5/20(水) 12:23</time>
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地震頻発、警戒続く上高地 落石や雪崩「登山自粛を」

2020年05月20日 12時28分14秒 | 社会・文化・政治・経済
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<time style="line-height: 1.4;">5/20(水) 10:46</time>配信

地震が続く上高地では、遊歩道上に大きな落石が発生している=2020年4月29日午後1時17分、長野県松本市、里見稔撮影
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 19日午後1時13分ごろ、岐阜県飛驒地方を震源とするマグニチュード5・3(推定)の地震が発生。長野市や松本市でも震度3が観測された。長野県内では被害は確認されていないが、4月下旬から県中部の岐阜県境付近で地震が続いており、長野地方気象台は注意を呼びかけている。

【写真】200メートル上から転がってきた巨大岩  最初の揺れが確認されたのは、4月22日未明。翌23日は最大震度4(マグニチュード5・5)を含め、震度1以上の揺れが16回観測された。5月中旬以降、再び頻発しており、19日には35回(午後7時現在)の揺れを観測した。  

同気象台によると、いずれも震源地は北アルプスの玄関口、上高地(松本市)周辺に集中。ほとんどが断層の横ずれによるもの、としている。一方、上高地の大正池近くにそびえる活火山の焼岳(2455メートル)の活動には特段の変化は見られないという。  

県などによると、先月23日の揺れによるとみられる落石が国道158号など3カ所で確認された。周辺では1998年夏にも約3カ月間、震度1以上の揺れが200回以上起きた。同気象台は「地震が発生しているのは山岳地域なので、付近の住民や関係者は落石や崖崩れに特に注意してほしい」と話す。  

上高地では、19日の地震に伴って落石や雪崩が発生したもようだ。バスターミナルに隣接する上高地インフォメーションセンターのスタッフは「グラグラッと大きな揺れが長く続いた。揺れが収まった後、落石の大きな音がした」。観光名所・河童橋(かっぱばし)から望める穂高連峰の岳沢では、雪崩の跡も確認できるという。  

上高地では、4月下旬からの地震で、槍(やり)・穂高連峰の登山口になる横尾を結ぶ遊歩道には落石や倒木、地割れが発生。新型コロナウイルスの感染防止のため、多くの宿泊施設や売店、キャンプ場は営業を休止。

山小屋も7月中旬まで営業していない。関係者は「新型コロナに加え、地震も続いている。登山は自粛してほしい」と注意を促す。(里見稔、近藤幸夫)

朝日新聞社

 
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最終更新:<time class="sc-feJyhm cShsfx">5/20(水) 11:40</time>
朝日新聞デジタル</footer>

近代文学にみる感受性

2020年05月20日 11時56分45秒 | 事件・事故
 

近代文学にみる感受性

中島 国彦

美術・音楽・自然などに文学者はいかに「美」を感じそれを表現しようとしたのか。美的感動を表わす言葉を軸にして、近代文学に描かれた多彩な感受性を探る。

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1946年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。早稲田大学文学学術院教授を経て、早稲田大学名誉教授。

日本近代文学館専務理事。著書に『近代文学にみる感受性』(筑摩書房、1994、やまなし文学賞)ほかがある
漱石の愛した絵はがき』より

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近代文学の世界は多彩な感受性の織物である。日常生活のみならず、美術・音楽・自然などさまざまな事象に文学者はいかに「美」を感じ、その思いを作品に込めたのか。美的感覚を表わすキーワードをとらえ、文学の描かれた感受性を探る。斬新な視点の長篇評論。

この本の目次

1 「気韻生動」の命脈
2 新しい感受性の萌芽
3 感受性の奥に潜むもの
4 「実感」と「美感」の交響
5 「闇」の認識
6 自然への感覚
7 神秘・力・生命
8 憂欝の形象、憂欝の超克
9 「感興」の展開
10 一つの結節点

 

本書は、早稲田大学の研究者による日本近代文学の論文集。創見に富む論文を集めた本書(800頁に及ぶ)は、近年まれな読書の快楽を与えてくれた。
 実証のための実証におわる研究にも、理論が先走る文学研究書にもあきたらない私は、本書と出会ったとき、心底から驚きの念にとらえられた。恐らく国文学界では著名な本だと思われるが、一般読書子に紹介する文章を今まで眼にしなかったのは意外である。
 美術にも目配りしつつ、著者の筆致は、公式的な文学史理解を超えて、日本近代文学の「多彩な感受性の織物」を明らかにしていく。文学に関心のある人は、ぜひ一度、この本を手にとって欲しいと思う。

 

 

 


感染症の歴史

2020年05月20日 11時49分40秒 | 医科・歯科・介護

感染症の歴史では、世界の歴史において、特に後世に社会的経済的文化的に甚大な影響を与えた感染症について記述する。医学は感染症の対策や治療の探求により発展してきた。

感染症は、民族や文化の接触と交流、ヨーロッパ世界の拡大、世界の一体化などによって規模が拡大していった。

病原微生物ないし病原体マイコプラズマクラミジアといった細菌スピロヘータリケッチアウイルス真菌原虫寄生虫)がヒト動物のからだや体液に侵入し、定着・増殖して感染をおこすと組織を破壊したり、病原体が毒素を出したりしてからだに害をあたえると、一定の潜伏期間を経たのちに病気となる。これを感染症という。類義語として伝染病があるが、これは伝染性をもつ感染症をさしている

また、伝染性をもつ感染症の流行を疫病(はやり病)と呼んでいる。

感染症の歴史は生物の出現とその進化の歴史とともにあり、有史以前から近代までヒトの疾患の大きな部分を占めてきた。

感染症や疫病に関する記録は、古代メソポタミア文明にあってはバビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』にすでに四災厄のなかのひとつに数えられ、同時期のエジプトでもファラオの威光は悪疫の年における厄病神に比較されている。中国にあっても、紀元前13世紀における甲骨文字の刻された考古資料からも疫病を占卜する文言が確認されている

日本においては平安時代には疫病の終息を願う神事が全国で行われていた[3]

総論

 
イブン・スィーナー(アウィケンナ)

感染症の伝染性を発見したのは、イスラーム世界を代表する医学者でサーマーン朝出身のイブン・スィーナーであった。「医学典範āb al-Qānūn fī al-ṭibb、The Canon of Medicine)」(1020年)において隔離が感染症の拡大を止めること、体液が何らかの天然物によって汚染されることで感染性を獲得することを記述している。ただし、その物質が病気の直接原因になるとは考えていなかった

 
レーウェンフック(1632-1723)

14世紀ナスル朝で活躍したイブン・アル=ハティーブイベリア半島アンダルス地方における黒死病(ペスト)の流行において、衣類食器イヤリングへの接触が発症の有無を左右していることを発見した。これを受けて、イブン・ハーティマ(Ibn Khatima、1369年 - ?)は「感染症は微生物ヒトの体内に侵入することによって発症する」との仮説を打ち立てた

この考えは、16世紀イタリア修道士で科学者のジローラモ・フラカストロの著作『梅毒あるいはフランス病』(1530年)や『伝染病について』(1546年)により、ルネサンス期のヨーロッパにも広く受け入れられた[6]。フラカストロは伝染病のコンタギオン説(接触伝染説)を唱え、梅毒(Syphilis)やチフス(typhus)という病名の命名者となった。

病原体(病原微生物)について、それを人類が初めて見たのは、形態的には1684年オランダアントニ・ファン・レーウェンフック光学顕微鏡による細菌の観察だといわれる。レーウェンフックの顕微鏡の改良により、細菌を肉眼で容易に観察できるようになった。

 
昔の顕微鏡を描いた旧東ドイツ切手。初期の感染症研究には顕微鏡の発達が不可欠であった。

1838年に細菌を意味するラテン語 "bacterium" が出現しており、病原体が現在のように判明してきたのは19世紀以降のことであって、フランスルイ・パスツールドイツロベルト・コッホに負うところが大きい。パスツールは、病気の中には病原体によって生じるものがあることを証明し、狂犬病のワクチンを開発した。

そしてコッホは、1875年、感染力のある病原体としての細菌である炭疽菌を、光学顕微鏡を用いた観察によるものとして初めて発見し、また、感染症の病原体を特定する際の指針として「コッホの原則」を提唱して近代感染症学の基礎となる科学的な考え方を打ち出した。

エドワード・ジェンナージョナス・ソークアルバート・サビンの3人はそれぞれ、天然痘ポリオに有効なワクチンを開発し、後にそれぞれを地球上から根絶、もしくはほぼ制圧するために大きな一歩を踏み出した。日本でも、北里柴三郎1894年ペスト菌を、志賀潔1898年赤痢菌を発見している

なお、主な疫病菌の発見は以下の通りであり、19世紀後葉から20世紀初頭にかけての時期に集中している

病名 発見年 病原菌発見者
ハンセン病 1875年 アルマウェル・ハンセンノルウェー
マラリア 1880年 シャルル・ルイ・アルフォンス・ラヴラン(フランス)
腸チフス 1880年 カール・エーベルト(ドイツ)
結核 1882年 ロベルト・コッホ(ドイツ)
コレラ 1883年 ロベルト・コッホ(ドイツ)
破傷風 1884年 アルトゥール・ニコライエルドイツ語版(ドイツ)
ブルセラ症 1887年 デビッド・ブルースイギリス
ペスト 1894年 アレクサンドル・イェルサンフランス語版(フランス)、北里柴三郎(日本)
赤痢 1898年 志賀潔(日本)
梅毒 1905年 フリッツ・シャウディンドイツ語版(ドイツ)
百日咳 1906年 ジュール・ボルデ(フランス)
チフス 1909年 シャルル・ジュール・アンリ・ニコル(フランス)

光学顕微鏡では観察できない極小のウイルス(virus)の発見は、細菌よりも遅れ、1892年ロシア植物学者ドミトリー・イワノフスキーによるタバコモザイクウイルスの発見が最初であった[7]

 
フレミング(1881-1955)

細菌による感染症は1929年に初の抗生物質であるペニシリンがイギリスのアレクサンダー・フレミングによって発見されるまで根本的な治療法はなく、ウイルスによる感染症に至っては患者自身の免疫に頼らざるを得ない部分が今なお大きい。

1935年、ドイツのゲルハルト・ドーマクは初の広域合成抗菌薬であるサルファ薬を開発、発表した。サルファ薬は生物由来ではないため、抗生物質とはされない。抗生物質とサルファ薬の開発は、感染症治療に新しい地平を切り開いた。

抗生物質の普及や予防接種の義務化、公衆衛生の改善などによって感染症を過去の脅威とみなす風潮もみられたが、耐性菌の拡大経済のグローバル化による新興感染症の出現など、一時の楽観を覆すような新たな状況が生じている。

こうして感染症(伝染病)は長い間、人びとのあいだで大きな災厄ととらえられてきており、今なおその脅威は人類社会に大きな影を投げかけている。災厄に対する人びとの対応は、歴史的・地域的にさまざまであったが、その一方で、人びとの行為・行動の背景となった疫病観、死生観信仰哲学科学の発達などを考察することにより、人類の歴史経済社会のあり方への理解を深めることができる。


病気と日本文学 ~近現代文学講義

2020年05月20日 11時37分03秒 | 医科・歯科・介護

福田 和也 (著)

慶應義塾大学での迫真の講義録

「病気」から読み解く日本文学
正岡子規、夏目漱石、芥川龍之介、川端康成、松本清張らの作品を
「病気」という観点から縦横無尽に論じ、文学の本質を炙り出す!


* 「病気」から見えてくる近現代文学の異貌

子規の結核、漱石の胃潰瘍と神経衰弱、芥川の神経症と自殺、北條民雄のハンセン氏病、川端の創作した架空の病、武田泰淳の描いた精神病院、柄谷の論じた近代という病――。
身体に、そして精神に密接に結びついた様々な「病」。斬新な切り口から、文学史、近現代史、そして文学と批評の本質が鮮やかに浮かび上がる。著者の慶應義塾大学での迫真の講義を再構成して収録。
構成=佐藤和歌子。

*
目次
講義風景 佐藤和歌子
第1講│近代日本文学の源流 正岡子規『仰臥漫録』
第2講│近代小説の宿命 夏目漱石『明暗』
第3講│私小説のリアリティ 宇野浩二『思い川・枯木のある風景・蔵の中』
第4講│作家のキャリアとしての自殺 芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』
第5講│実名不明の作家 北條民雄『いのちの初夜』
第6講│戦後文学における「身体」と「死体」 椎名麟三『自由の彼方で』
第7講│社会派ミステリーにおける「病気」 松本清張『砂の器』
第8講│正気と狂気の狭間の架空の病 川端康成『たんぽぽ』
第9講│近代社会における神 武田泰淳『富士』
第10講│近代という病 柄谷行人『意味という病』
特別講義│女性の身体と文学 円地文子『朱を奪うもの』三部作
あとがき 福田和也

内容(「BOOK」データベースより)

子規の結核、漱石の胃潰瘍と神経衰弱、芥川の神経症と自殺、北條民雄のハンセン氏病、川端の創作した架空の病、武田泰淳の描いた精神病院、柄谷の論じた近代という病―。
身体に、そして精神に密接に結びついた様々な「病」。斬新な切り口から、文学史、近現代史、そして文学と批評の本質が鮮やかに浮かび上がる。著者の慶應義塾大学での迫真の講義を再構成して収録。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

福田/和也
1960年、東京生まれ。文芸評論家。慶應義塾大学文学部仏文科卒業、同大学院文学研究科仏文学専攻修士課程修了。現在、慶應義塾大学環境情報学部教授。93年『日本の家郷』で三島由紀夫賞、96年『甘美な人生』で平林たい子文学賞、2002年『地ひらく』で山本七平賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
 

 


文豪の直筆原稿一堂に 仙北市角館、新潮社元会長の資料展示

2020年05月20日 11時21分08秒 | 社会・文化・政治・経済
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<time class="date">2019年9月3日(火)</time>
 
著名な作家たちの自筆資料が並んだ「矢来町のたからもの」
 
太宰治の小説「斜陽」や夏目漱石の小説「倫敦消息」の生原稿をはじめ、新潮社の佐藤俊夫元会長の遺品にあった貴重な資料を集めた企画展「矢来町のたからもの 佐藤俊夫新潮社元会長旧蔵資料の輝き」が2日、秋田県仙北市角館町の新潮社記念文学館で始まった。近代文学を彩った作家の創作過程や横顔がうかがえる草稿や書簡など計62点が展示されている。10月20日まで。

 佐藤元会長は、新潮社創業者の佐藤義亮(仙北市角館町出身)の次男で、1990年に死去した。新宿区矢来町の自宅に残った遺品に「斜陽」の生原稿などがあることが2年前に分かった。今回の企画展は、発見された多くの資料を寄贈された日本近代文学館(東京・駒場)が昨年10~12月に開いた受贈記念展の初の巡回展となる。

 会場には同社の文芸誌「新潮」の1947年7月号~10月号に計4回掲載された「斜陽」の第3回と最終回の生原稿を冒頭2枚ずつ展示。ほかに谷崎潤一郎が筆で書いた「続蘿洞(らどう)先生」の生原稿、島崎藤村の「ある女の生涯」の完全原稿100枚、26歳で亡くなった石川啄木の書簡も並んだ。漱石が自画像などを描いた絵はがき6通や編集者宛てのアンケートはがきなど珍しい資料も見ることができる。

 2日のオープニングセレモニーには、佐藤元会長の親族らが出席。発見された資料を調査し、受贈記念展の編集委員も務めた早稲田大の中島国彦名誉教授(73)=日本近代文学=は「資料の一つ一つがとても貴重な宝物。見る人によって目玉となる資料は違うだろうが、漱石の直筆資料をこれだけ目にできる機会は少ない。ぜひ足を運んでほしい」と話した。
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明治維新の陰に「感染症」があった!

2020年05月20日 11時21分08秒 | 社会・文化・政治・経済

書名感染症の近代史

監修・編集・著者名内海孝 著

対岸の火事のようでもあった新型肺炎が、日本でもじわじわ広がり始めた。これからどうなっていくのか。本書『感染症の近代史』(山川出版社)は江戸後期から明治にかけて、日本で流行した感染症とその対策についてまとめたものだ。「日本史リブレット」シリーズの一冊。ページは薄いが、中身は濃い。

 著者の内海孝さんは1949年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。専攻は日本近代史。東京外国語大学名誉教授。

榎本武揚を思い出す

 幕末から明治へ――その劇的な政権交代と社会の変化は通常、政治史、社会史として扱われる。本書はそれを医療史、とりわけ「感染症」という視点から見直したものだ。先行書をもとに、多彩なエピソード、データを積み重ねながら、「攘夷」を叫んでいた幕末の日本がなぜ開国・欧化へと舵を切ったか、その伏流を明かしている。

 同じような問題意識が感じられた本に、BOOKウォッチで紹介した『近代日本一五〇年』(岩波新書)がある。著者の山本義隆氏はペリーたちの一行が1854年、二度目に来日したとき、幕府への献上品が「蒸気機関車の模型」と「有線電信の装置一式」だったことに注目していた。「それは当時の最先端ハイテク機器であり、ほかでもない西欧近代におけるエネルギー革命の直接的な産物であった」と指摘していた。黒船によって科学技術や産業文明に関する鎖国もこじ開けられ、一気に「近代化」が始まったのだというわけだ。

 関連して榎本武揚のことを思い出した。戊辰戦争の最終局面、箱館・五稜郭の戦いでは幕府側の頭目だったのに、いつのまにか明治政府の重臣として大出世した。幕府と新政府の「二君に仕えた」要領のいい男というイメージが流布されているが、BOOKウォッチで紹介した『榎本武揚と明治維新』(岩波ジュニア新書)によれば、別の大きな理由があった。

 榎本は長崎海軍伝習所を経て1862年から67年までオランダに留学。英語やオランダ語、ドイツ語、ロシア語など多数の言語に習熟したほか、造船、蒸気機関学、砲術、機械工学、冶金、鉱物学、化学、理学、情報通信など明治の殖産興業の基盤となる科学技術全般の最新知識をものにしていた。当時の留学経験者の中で傑出した存在だった。国際法にも明るかった。その圧倒的な知識量を知っていた新政府が改めて彼を登用したというのだ。

 明治維新とは結局のところ、「鎖国」の日本に「近代」が押し寄せて社会を変えた革命だった。

「コレラ」が「攘夷」の一因?

 前置きが長くなったが本書は以下の構成。

 1.近代先進国の産業革命と貿易活動
 2.欧州「検疫」体制と西洋医学の受容
 3.転換期の西洋医学と日本人の「不潔」
 4.新政府発足後の西洋経験と医療行政の設計
 5.衛生政策と外来伝染病のコレラ情報
 6.コレラ「衛生の警鐘」と伝染病対策
 7.改正条約の実施と伝染病の国際関係

 

 冒頭に「花火」と「手洗い」の話が紹介されている。本書の表紙にもなっている「両国の花火」。現在は隅田川の花火大会として知られる。これは1732年、疫病の流行で数万人が亡くなり、慰霊と悪病退散を祈願する目的で翌年から始まったものだという。「手洗い」は明治になってからの習慣らしい。来日した外国人が、日本の衛生状態の低さを心配し、日本人に働きかけたものだという。手洗いを奨励する外国人の姿が「絵」で残っている。日本人に「衛生観念」を教えたのは外国人だったというわけだ。

 本書によると、日本では古くから痘瘡(疱瘡)が何度も流行した。6世紀に仏教とともに伝わったらしい。いわゆる天然痘だ。コレラは日本では1822年、初めて流行、多数の犠牲者を出した。オランダ船から長崎に流入したとみられている。

 著者は「コレラ」に関連して記す。「その原因は日本を外国に『開放』したからと当時の日本人は考え、外国人を敵視するようになった」。いわゆる「攘夷」の一因というわけだ。未開社会がしばしば文明人との接触を拒否し、近寄ってくる文明人を殺したりした話があるが、同じような文脈を感じる。

親王に種痘をほどこした

 天然痘については18世紀末にジェンナーが種痘を開発、対処法が変わっていた。日本でも19世紀半ばに伝わり、その劇的な効果が知られるようになった。次第に蘭方を学びたいという人が増えてくる。幕府は1857年、オランダの軍医ポンペを招いて長崎に西洋式の医学伝習所、医学校を開校した。ポンペは61年、西洋式病院「養生所」を開院する。さらに開港されたばかりの横浜には病院が次々とでき始めた。64年6月にフランス海軍病院、9月にイギリス海軍の「疱瘡病院」、オランダ海軍も66年に続く。幕末に「医療の文明開化」が先行して進んでいた。

 アメリカの宣教師フルベッキは63年に書き残している。「西洋医学による病気治療は評判がよく、旧式(漢方)医師や迷信を信じる民衆の反対があったにもかかわらず、非常に好意をもたれています。漢方医に対し、西洋医学の決定的な勝利は明らかに予知されています」。

 それを象徴する出来事が宮中であった。孝明天皇は1866年12月11日(旧暦)から発熱。親王も見舞ったが、17日に疱瘡と確認されると、天皇は感染を心配し、完治の日まで来てはいけないと命じる。そこで、親王の生母の父、中山忠能は、蘭方医に密か命じて親王に種痘をほどこした。著者は記す。

「西洋医学の優位性が宮中の世界でも、確実に認知されはじめていたことがわかる」
「時勢は親王が種痘をほどこされたように、新しい方向に傾斜していた」

 孝明天皇は種痘を受けていなかった。容体は24日急変し、25日死去。67年1月9日、親王が践祚。ほどなく明治維新、明治天皇となる。

伝染病から感染症へ

 開国を進めるにつれ、国内ではさまざまな感染症のリスクも高まっていく。横浜の居留地などに滞在する外国人が読む英字新聞には「水が不潔」という一文も掲載されていた。彼らからすれば、「未開地」に来たようなもので、自分たちが感染病に冒される不安があったのだろう。日本人は彼らが持ち込む新種の感染症を怖がり、外国人は日本の不衛生におびえる。まさに「文明の衝突」だ。

 日本政府による医療体制の構築は、1871年の岩倉使節団がきっかけだ。米欧を回り、先進的な医学教育を見聞、「西欧文明の輸入」に腐心する。医療もその一つ。新政府は医療政策の機軸を漢方から西洋医学に転換した。75年段階で西洋医(洋医)が医師全体の21.9%、5097人にまで増えている。米欧には国民の健康をつかさどる行政機関があることから、日本でも75年、中央官庁の新しい部局として「衛生局」が誕生した。中国の『荘子』のなかで、生命を安らかに守る方法のことを「衛生」と称していることから採ったという。

 1880年にはコレラ、赤痢、痘瘡などが法定伝染病に指定された。97年には「伝染病予防法」が公布。衛生状態や医療体制の向上で一時は感染症の封じ込めに成功したかに見えたが、1980年ごろから、新種が次々と出現、いずれ克服されるとみられていた結核、マラリア、デング熱が息を吹き返していることが最近の新しい動きだ。ちなみにかつて伝染病や疫病といわれていたものは現在では感染症という名前に統一され、1999年には感染症法が成立している。

 日本人と感染症の長い闘いを振り返って、著者は本書の最後に、「大砲と重さくらべて衛生の いと軽きかな近代を問う――詠み人知らず」という戯れ歌を載せている。

 安倍首相は最近、共産党を暴力革命政党だと称して物議を醸した。しかし、本当に恐れるべきは「感染症による暴力革命」かもしれない。対応に失敗すると、政権が危うくなり、国家の土台が揺らぐ。厚労省のHPによると、二類感染症(SARSなどが含まれる)に対応した指定医療機関は国内に351あるが、合計1758床。新型肺炎の拡大状況を考えると、やや心もとない気もする。


一般社団法⼈ ⽇本カーシェアリング協会

2020年05月20日 11時14分36秒 | 社会・文化・政治・経済

石巻で生まれた、
寄付車を使って持続可能な
共助の社会を実現する組織です。

約6 万台の車が被災した石巻。
そこには、たくさんの車の寄付が寄せられました。
私たちは、お預かりしたそれらの車をめいっぱい活用して、様々な課題に向き合うことで、持続可能な共助の社会の雛形を石巻に作ります。
その雛形をもって、高齢化社会・災害多発時代に対する具体的なバリューを提供することで、石巻から社会を変えていきます。

<ビジョン>
~ 最終的に目指す社会の形 ~

持続可能な共助の社会を作る

<ミッション>
~ 私たちの役割~

石巻から寄付車を使った共助の雛形をつくる

<バリュー>
~ 具体的な手法・手段 ~

  1. 支え合う地域をつくる『コミュニティ・カーシェアリング』
    地域課題:高齢化・交通弱者・孤立化・コミュニティ崩壊
  2. 車を貸すことで人と地域を元気にする『ソーシャル・カーサポート』
    地域課題:生活困窮・地域力低下・震災伝承・交通弱者
  3. 災害の時、車で困らない地域をつくる『モビリティ・レジリエンス』
    地域課題:災害時における車不足における対応・備えるための地域連携作り

<インパクト>
~社会的な影響~

  • 高齢者の移動が近所の助け合いによって補われる社会になる。
  • 大規模な自然災害が起こっても車が不足しない体制が整う。
  • 車の寄付文化が広まり、非営利の活動がより活発になる。
  • 被災地から社会を変えることで希望と元気を日本中にもたらす。
  • 石巻発としての誇りが石巻の人々の中に生まれる。

<ビジョン2025>
~ 2025年までに実現したいこと ~

  1. 『コミュニティ・カーシェアリング』を導入したいと思った地域が気軽にチャレンジできる環境を作る。
  2. 日本中どこでも寄付車が集まり、各地の非営利活動でそれを活用できるようにする。
  3. 東日本大震災規模の災害が起こった時でも対応できる体制を作る。

マスコットキャラクター

ぼくらは「シェアルパカー」⽯巻で⽣まれた動物型の⾞だよ!
⻩⾊のボディーがきれいでしょ!ぼくは1号の「スートン」さ。みんなを元気に運ぶよ!
⻘⾊のボディーがかっこいいでしょ!ぼくは2号の「ローリー」さ。いつもみんなと⼀緒だよ! 毎⽇、被災地でがんばるよ!みんな、よろしくね!

協力:Kenichi Masaki Media Lab.

 

組織概要

名称
⼀般社団法⼈ ⽇本カーシェアリング協会
Japan Car Sharing Association
設⽴
2011年7月15日(活動は2011年4月から)
代表理事
吉澤 武彦
理事
湯川伸⽮(株式会社SHIN-JIGEN 代表取締役)
増⽥敬(一般社団法人石巻じちれん 代表理事)
監事
⽵中徹(淑徳大学 経営学部 観光経営学科 准教授)
所在地・連絡先
〒986-0813 宮城県⽯巻市駅前北通り⼀丁⽬5番23号

三陸海岸大津波 

2020年05月20日 10時51分14秒 | 社会・文化・政治・経済

吉村 昭 (著)

あの日を忘れない。
歴史に学ぶ。いまこそ読みたい警告の書。
「今も三陸海岸を旅すると、所々に見える防潮堤とともに、多くの死者の声がきこえるような気がする――吉村昭(2004年記)」
アマゾン2011年上半期Booksランキング ノンフィクション部門の第1位。

<海水がふくれ上って、のっと、のっことやって来た>

漁師の言葉を使って、チリ地震津波を表現した。

60年前、約1万7000㌔離れたチリの大地震で起きた大津波は、23時間後の5月24日未明、日本列島に到着。

とりわけ三陸沿岸に甚大な被害をもたらした。

以来、宮城県南三陸町では、チリ地震津波の水位を示す看板を町内各地に設置し、住民参加の避難訓練を毎年行った。

だが、9年前の東日本大震災は、その想定をはるかに超え、数多くの人命を奪った。

 内容(「BOOK」データベースより)

明治29年、昭和8年、そして昭和35年。青森・岩手・宮城の三県にわたる三陸沿岸は三たび大津波に襲われ、人々に悲劇をもたらした。
大津波はどのようにやってきたか、生死を分けたのは何だったのか――前兆、被害、救援の様子を体験者の貴重な証言をもとに、巨大津波の恐ろしさを再現した震撼の書。
この歴史から学ぶものは多い。解説・高山文彦
 
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/昭
1927年、東京生まれ。学習院大学中退。66年「星への旅」で太宰治賞を受賞。同年「戦艦武蔵」で脚光を浴び、以降「零式戦闘機」「陸奥爆沈」「総員起シ」等を次々に発表。
73年これら一連のドキュメンタリー作品の業績により第21回菊池寛賞を受賞する。
他に「ふぉん・しいほるとの娘」で吉川英治文学賞(79年)、「破獄」により読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞(84年)、「冷い夏、熱い夏」で毎日芸術賞(85年)、さらに87年日本芸術院賞、94年には「天狗争乱」で大仏次郎賞をそれぞれ受賞。97年より芸術院会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
明治29年の大津波の時の死者・行方不明者は、2万1959人。
東日本大震災と同等であるが、人口密度が今より低いことなどを考えると、当時の津波のほうが凄まじかったのではないだろうか。

“一家全滅した家は、数知れなかった。顔見知りの者同士があった折、
「あなたの家族はどうでした」
と、挨拶代わりに問う。その折に、十人家族のうち二人か三人が死亡したときくと、
「それは、よかった。おめでたいことだ」
と、祝いの言葉を返すのが常であった。”

この津波は、夜の8時半ころに発生している。現代日本の明るい夜をイメージしてはいけない。薄暗い街灯がぽつりぽつりとある程度がせいぜいの、そんな夜の出来事である。

“六十歳の木村トラという女性は、突然流れ込んできた海水に驚いて十歳と五歳の孫を首にかじりつかせ鴨居にとびついた。水は見る間に上昇して頤(あご)にまで達した。
これまでと観念した時、家が浮き上がって流れ出した。沖にさらわれれば一命はなかったのだが、幸いにも家が石づくりの井戸の台にひっかかって止まった。そして、水は猛烈な勢いで干いていったので、トラは、孫を抱えると家を飛び出し、屈強な男子でも上ることのできない背後の絶壁をよしのぼって死をまぬがれた。”

5歳児と10歳児と言えば、それぞれ20キロと30キロはあるだろう。還暦を迎えた女性が、そんな二人を抱えて絶壁をよじ登る光景を想像して、目頭が熱くなる。

“或る老女は、津波襲来後、屋根の上に這い上がったが、屋根が大きく傾斜しつかまっていられなくなったため、浮かんでいる大きな材木にとりついた。しかし、その材木も激浪にもまれて絶え間なく回転するので、やむなく流れてきた大きな手水鉢のような容器の中に移った。
老女は、鉢とともに波の中を流されていったが、そのうちに大波がきてくつがえりそうになり、流れてきた大きな材木にとりすがった。幸いこの材木の中央部には穴があいていたので、その穴の中に両腕を突っこんで波にもまれていた。
しばらくして、足にふれた物があったので足先でさぐるとそれは地面であった。老女は、大いに喜んで土の上に坐り夜をすごした。
やがて夜が明け、あたりを見廻すと、意外にもそれは裏山の頂上であった。”

昔話めいた結末であるが、津波の高さを物語るエピソードである。奇跡のような生還話は他にもある。

“この太田名部の住民の死体を村民たちが津波襲来の翌日探していると、赤ん坊の泣声がきこえる。村民があたりを探すと、意外にも17メートルほどの大樹の枝に子供がひっかかって泣いていたという。それは、生後一年にもみたぬ嬰児で、その家族のただ一人の生き残りであった。”

遺体捜索の生々しい様子も語られている。

“死体の多くは、芥や土砂の中に埋もれていた。生き残った住民や他の地方から応援に乗り込んできた作業員たちの手で収容されていたが、掘り起こしても死体の発見されない場合が多い。
そのうちに経験もつみ重ねられて、死体の埋もれている個所を的確に探し出せるようになった。死体からは、脂肪分がにじみ出ているので、それに着目した作業員たちは地上に一面に水を流す。そして、ぎらぎらと油の湧く個所があるとその部分を掘り起し、埋没した死体を発見できるようになったのだ。”

昭和8年の津波では、政府・政治家の対応が現在とは雲泥の差である。現在の政府・政治家・国会が愚者の集まりかと思うほど、当時の対応は早い。

“中央各省でも被災県と緊密な連携をとり、救援活動を開始した。たまたま国会の開催中であったので、衆議院では議員一名につき十円の寄附金を集めて北海道、青森・岩手・宮城三県にそれぞれ贈り、各政党では代議士を現地視察のため派遣した。
衆議院・貴族院では、被災地救済の諸提案がすべて満場一致で可決、各種税金の・減・免・猶予等をはじめ、食料、衣類、寝具、住宅材料等の無料配布や、道路、港湾の復旧促進が決定された。”

最優先がなんであるのかを分かっている人たちの対応だ。いや、今の議員連中も、優先順位はしっかり把握しているはず。ただ単に、順位の付け方が一般の感覚と違っているだけだ。

記憶は風化する。だから記録に残す。それでも、記録の存在そのものが忘れ去られていく。

買って(借りるのではなく)読むべき本を一冊あげるとしたら、本書である。
 
 
海の壁ー三陸大津波、吉村昭
最近この文庫本を読んで見た。吉村昭氏の作品は好きで、長英逃亡、桜田門外の変、など幕末にテーマを絞った何冊か、また、戦艦武蔵ほか大東亜戦争の背景を持つ小説を読んだが、吉村昭さんの小説は空想的な単なる小説では無くて、史実に基づいた、正確で重いいわゆる重厚な小説である場合が多い。その緊迫した表現力も小生の好んだ要因の一つです。深海の使者などは、怖くて目を背け乍ら読んだ。吉村先生こんな作品を書いたのでは、きっと夜に魘されたに違いないと思ったものだ。

この「海の壁」ー改め、「三陸大津波」は、最近文庫本で読んだ。このテーマは誰か力ある作家が書くべきテーマであった。史実を探究し皆が唸る作品を書き続けた吉村昭先生が、この史実に注目しお書きに成られた。まさに適任の作家であった。吉村作品はある程度承知のつもりでいたが、だがこんな作品が有ったとは露も知らず驚いた。元よりこの作品を読んで居なければ、防災対策に生かせないのは仕方が無いが、恥ずかしながら私も読んで居ないのだから、国の防災担当者が読んで居ないとしても仕方が無い。吉村作品は平成三陸大津波の四十一年前に書かれた。2011年3月11日、午後2時何分かに、このルポルタージュの予言する事が実際に起きた。「現実は小説を凌駕する」、起きた現実は、口で表現できない程悲惨なものだった。この津波で逃げ遅れ、多くの同胞が水死した事は何とも悔しい。土地の人は、遠くは貞観年間に起きた大津波は知らなくとも、近年に至って起きた「明治29年」と「昭和9年」の大津波は経験しないまでも、親たちに、その悲惨な話は聞いて居るだろうと投稿者は思ったが、どうもそうでは無かったらしい。それでなければ「20000人」近い津波の死者は出なかったと思う。「人の噂も49日」、という様に、人間は経験をわすれ易い存在なのである。

奥付を見て、この作品が出版されたのが1970年5月と云う。あの平成大地震が起きる41年も前の話である。吉村さんはいつも大きな作品を書き終わると、創作に精神を傾注した疲れを取るために、一年くらいは何もせず、心と魂の回復に努めるために、好きな地方を旅して廻るのだそうである。精魂を傾けた作品には言い知れぬ精神の重い疲労感が有るのだろう。氏は東北地方、特にリアス式海岸を持つ岩手県の太平洋側が好きだったらしい。たぶん、新鮮なお魚の料理もお好きなのだろう。タコ、アワビ、イカ、イワシ、アジ、マグロ、鯛、雲丹、など、涎が出そうな海産物が三陸の漁港には豊富なのである。

その様にして三陸を回る内、旅館や土地の古老から幾度となくヨダ(津波)の話を聞いたという。彼のアンテナの好奇心が、その話にピンと来たのだ。それで、彼は、その「ヨダ」の記憶を持つ土地の古老の話を求めて、三陸の海岸辺を旅する事に成る。進んで「ヨダ」の話を聴いてみようと思い立った訳だ。長いリアス式海岸の小さな漁港を、倦むことなく話を収集して廻った。この様な吉村昭氏の情熱と作家魂にいつも敬服している。ところで、こんなにも悲惨な記録が残っているにも拘らず、まだ同様の惨禍に見舞われるとは、いったいどうした事なのだろう、と、思ってしまうのだが、そこには理由が有る。一言で云えば、「経験・体験が継承されて居ない事に尽きるのだろう。」どんな悲惨な事実でも、体験者・経験者が死に消えた後には、新たなる後生は、言い伝えられ教えられなければ過去を丸で知らないのが常である。自分で研究し、発見するという人は希な存在だから。再び、未曽有の惨禍が繰り返されるのはこの様な事情に因る。

恐らく未来の三陸海岸には、再び大津波が襲う事だろう。地球中心部のマグマからプリューウムが上昇し、地殻はその熱エネルギーで流動する。地球の皮である地殻のプレートが一年に数センチづつ動き、日本列島の下部に潜り込む。その運動エネルギーは地殻の歪を生み、その歪が極限にまで溜まると、押し込まれて居た地殻が急激に跳ねて、歪が解放されるのが地震であり、歪は何十年に一度は地殻が耐えられず跳ね返り、地震に因り歪は解放される。だから、次の津波は用意されて居ると思って好い。理屈はどうであれ、この自然現象で、大量の人を含めた動植物が、根こそぎ死に追いやられるのを防ぎたい。恐らく防波堤を創るというのは二次的な対応に過ぎない。何を置いても「基本は逃げる事」なのだ。それも「1秒でも早く、1メートルでも高い所に逃げる事なのだ。」 何よりも早く地震を感じたら、津波が来ることを覚悟し、それを発見しすることで、「大きな地震なら、必ず逃げろ!」。是しか無いのではなかろうか!。
その為には常々、持って逃げる物を用意して置くことだ。

今回の大地震で、いち早く山に逃げれば助かった多くの命が有った。だが、おおをにして、人はいつも逃げ遅れる。動けぬ年寄りを置き去りにして、逃げる事が出来なかった人たちも居た事だろう。親を置いて自分だけ逃げて、助かったとしても、おそらく後で自責の念に駆られて苦しむに違いないし、背負って逃げれば、間に合わず一家全滅も在り得る。かと言って、便利な生活の為には、海辺に住むことに成るのだ。吉村氏のこの作品が有ったのに、行政はどこを見ていたのだろうか。モット逃げる事を徹底させなかったのか。「津波が来ていますよ~、避難してください」、の放送では、一般人は危機感を持たない。怒鳴ったとすれば、もう少し避難のスピードは速まったのだろうか?、津波で多くの同胞を失った事が悔しい。なんとも今となっては詮無い事だ。人々は大体、津波と言うものが、どういう物かが分かってはいない。いずれ大地震は東京にも必ず来る。明日か十年後かは知らないが、対策は出来ているのか? 心構えは出来ているのか!

その時、自分は何をしなければ成らないのか、ガス・水道・電気はすべて失われ、大火が無数の場所で起こり、火炎流となって焼き尽くす。車で逃げる事はダメだ、道をふさいで、消防が機能しなくなる。これは江戸時代からの教訓だ。逃げる時に車を動かすな!である。道を車が埋め尽くし、人々は逃げられず焼け死ぬ。江戸時代は大八車であったが、幕府は、これを動かす事を厳禁した。自動車は恐るべき火災の発信元なのである。それは多量の爆発性の燃料を持ったタンクである。また自動車も燃料が無く走行できない。電車も止まり、会社に出勤出来ない所の騒ぎでは無い。提灯・行灯の江戸時代が突然出現するのだ。大量の怪我人や死者はどうするのか。急場を凌ぐ、水や乾パンは用意は出来ているのか!誠に心許ないのが現状だ。
 
 
読むのは今回で3度目になる。しかし震災後のことだ。3.11 以前に読もうと思いながらも読まずにいたら、読まないうちにとうとう東日本大震災を経験してしまった。私の住んでいる八戸は他に比べると被害は少なかったが、それでも震災以前にこれを読んでいたら心構えが全然違ったことだろう。

 著者の吉村昭は特に地震や津波の専門家というわけではない。三陸の風光が好きで巡っているうちに、過去の津波の話を聞き興味を持ったという。それでもあの3.11よりずっと以前にこれだけ情報を集め整理して、津波はまた必ず来ると警鐘を鳴らしていたのだから、もっと耳を傾けるべきであった。

 本書は
・明治29年の津波(1896年)
・昭和8年の津波(1933年)
・チリ地震津波(1960年、昭和35年)
の三回の大津波について書かれている。そして2011年の東日本大震災が起きた。三陸海岸はおおよそ50年ごとに津波に書かれていることがわかる。当時の記録や証言を発掘したものを読んでみると、同じことを繰り返しているようにみえる。高台移転や避難経路の問題など、当時から指摘されていたことなのだ。そしてそれはまたしても解決されないまま、私たちは3.11 に遭遇した。

 物理的に地震や津波を防ぐことは難しい。だからこそ私たちはその時にどう対応するか、備えておかなければならない。
 
 
津波で家族を失った子供たちの作文のところだけは、涙無くしては読めませんでした。「書く児童も書かせた教員たちも悲痛な思いだったに違いない。」と書いてありましたが、正にそのとおりだったのでしょう。それでも記録として残して、後世に伝えなくてはという思いがあったからだと思います。その思いを感じ取り、本に引用することで光を当てた吉村昭の仕事は賞賛に値すると思います。
 
 
 
なんて言われている街に誰がどうして住みたがるのだろう・・・
それは他の自然災害が酷い場所でも同じ問いがいつも渦巻いていた。
この本を通して自分なりに解釈できたような気がする。
津波の兆候や人々の目に焼き付いた瞬間などは恐ろしいとともに興味深かった。
津波にさらわれ助かった人助からなかった人の違いは一体なんなのだろうか。
運としか言いようがないのか、いつかわかる時は来るのだろうか。
 
 
 
東電&原発関係者の方々には読んでいただきたかったですね。
10メートル以上の津波を想定できなかったなんて言えなくなると思います。
まあ、知っていてコストの問題で知らんぷりしていたのか?
旧経営陣が無罪とは?ちょっと許せない気持ちになります。
 
 
 
歴史を学ぶという事は、過去を学ぶという事。
先人の知恵や出来事を学び、未来に生かすという事。
2011年、日本は過去起きたことを生かすことが出来たのだろうか……

文章力も凄まじく、情景がありありと目に浮かぶ。
読み物としても単純に面白い。
 
 
 
先の3月11日の、震災・津波は、インターネット・YouTube等で見られます。津波1ヶ月後に、電車途切れていて連絡バスで、石巻駅前に知人を訪ねた頃の街並みが、過去から幾度と津波被害を繰り返されていたものだった事を知り勉強になりました。当時の個人の行動、行政の行動、連絡網等、日本人として熱くなるものがあります。ありがとうございました。