宇都宮千枝さんは、1931年、父が赴任した台湾で生まれた。
戦時下の青春は激動だった。
1942年、父が病死。戦後、日本への引き揚げ船は地獄だった。
衛生状態は悪く、乳飲み子は次々に亡くなった。
埋葬もできず、投げ込まれた遺体は海へと沈んだ。
引き揚げ後、学校で下駄を売り、生活の足しにした。
母・ヤスコさんと東京へ出ると、米軍の将校の家に住み込みで働いた。
やがて結婚し、娘が生まれた。
ところが、夫は家庭を顧みない。
1961年宇都宮さんは30歳で離婚を決断。
<孤独で病弱な母のような人生にはなりたくない>と思ってきた。
気付けば、同じ不幸の道をたどっていると感じた。
苦難は続いた。母が胃がんを患い、医師は残された時間を告げた。
ところが、医師の余命宣告を覆し、母の病状が劇的に回復する。
離婚後、美容の専門学校へ通い、美容室を開店した。
ところが美容室の経営は軌道に乗らず、心に余裕がなかった。
宇都宮さんの心には、離婚した夫への憎しみの感情が渦巻いていた。
経営が振るわなかった美容室は閉店し、着物着付け教室で働くことに。
その後、人生の師と巡り合い励まされる。
母ヤスコさんを記念する桜も師の提案で植樹する。
着物に関する書籍の編集も担った。
その後、月刊の婦人雑誌「婦人と暮らし」の編集者の話が舞い込んだ。
すべての経験が生かされ、文筆の使命の道が開けた。
はつらつと仕事に臨んだ。セミナー講師として各地を回った。
家事評論のライターとなる。
宇都宮さんは、これまで講演した回数は、1088回。
参加者は、30万人を超えている。
93歳の今も健筆を振るう。
先月も一般紙への投稿が掲載され、戦争の悲惨さを訴えた。
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