▼「面白い」には「心が晴れ晴れするさま、快く楽しい」の意味もある。
難局にあっても豊かな生命力と強気で生き抜くことだ。
そこから人生の新たな<面白い>が開幕する。
▼困難な状況下で、手ごわい相手と必死に戦う中で、人は自分でも想像しなかった力を発揮することがある。
人を成長させるのは、味方より手強い敵であることも。
▼人の心の中に平和の砦を―ユネスコ憲章記念日の11月4日。
希望の哲学を世界が希求している。
▼「面白い」には「心が晴れ晴れするさま、快く楽しい」の意味もある。
難局にあっても豊かな生命力と強気で生き抜くことだ。
そこから人生の新たな<面白い>が開幕する。
▼困難な状況下で、手ごわい相手と必死に戦う中で、人は自分でも想像しなかった力を発揮することがある。
人を成長させるのは、味方より手強い敵であることも。
▼人の心の中に平和の砦を―ユネスコ憲章記念日の11月4日。
希望の哲学を世界が希求している。
GⅢ 防府競輪 万博協賛 周防国府杯争奪戦
最終日(11月4日)
12レース決勝
並び予想 9-1-4 5-6 2(単騎) 7-8-3
レース評
防府記念7連覇へ、清水は視界良好だ。準決同様に前後を太田と桑原が固める。セット力では吉田−杉森もいい。
9-1-4ラインは7-8-3ラインに競られて、力を失う。こうなると、第三のラインの出番である。
予 想 |
着 順 |
車 番 |
選手名 | 着差 | 上り | 決ま り手 |
S / B |
勝敗因 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 5 | 松本 貴治 | 9.4 | 捲 | ||||
2 | 6 | 小岩 大介 | 3車身 | 9.5 | ク | |||
3 | 3 | 武藤 龍生 | 1車身1/2 | 9.4 | ||||
注 | 4 | 2 | 菅田 壱道 | 1/4車輪 | 9.5 | |||
◎ | 5 | 1 | 清水 裕友 | 3/4車輪 | 9.7 | S | ||
▲ | 6 | 8 | 杉森 輝大 | 1車身 | 9.5 | |||
○ | 7 | 9 | 太田 海也 | 3/4車輪 | 10.0 | B | ||
△ | 8 | 4 | 桑原 大志 | 1/2車身 | 9.8 | |||
× | 9 | 7 | 吉田 拓矢 | 3/4車身 | 9.9 |
2 枠 連 |
複 |
|
2 車 連 |
複 |
|
3 連 勝 |
複 |
|
ワ イ ド |
|
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
単 |
|
単 |
|
単 |
|
前を取った太田海也は吉田拓矢が上昇するのに併せながら、青板バック過ぎに突っ張る。吉田は後退して7番手で一本棒。太田のカカリは良かったが、鐘4角から吉田が再度、スパート。吉田は中団でダウンしたが、2角から4番手にいた松本貴治が痛快に踏み出すと、清水裕友、太田をあっさりと乗り越え、歓喜のⅤゴール。小岩大介を連れ込んだ。3着には関東3番手にいた武藤龍生が内を衝いて外を強襲。
Ⅴゴール決めた松本は「後ろからだともがき合うと思ったし、なるべく前の方からと。吉田君と太田君が踏み合って、中団にいた自分に展開が向いた。脚には余裕があったし、どこで仕掛けるかでしたね。それにしても、自分が思った以上に出たし、びっくり。本当に嬉しい。今後はどんな位置でもしっかりとラインの力になれるように頑張ります」。
松本に続いて2着の小岩は「今日は初手で中団が取れたのが大きい。そこで50%。残りの50%は松本が仕上がっていた事。太田君がドンドン加速して行く中で、仮に仕掛けても清水に併されると思っていたが、そんな事もなく、軽く飲み込んだからね。自分はG3決勝に乗れる機会も少なく、その数少ない中で競輪祭の権利を取れたし、ホッとしました」。
バックでは9番手に置かれるも内から強襲して3着に入った武藤は「初手は中団が理想。みんなスタートを取りに行っていたし、自分達も前を取るくらいの気持ちでいかないとダメでしたね。終始1本棒でとにかくキツかった。余裕は全くなかったが、内しかないと思い、あのコースに。たまたまです。シリーズ4日間を通して収穫もあったのでまた頑張ります」。
投票
241,384,596円
87期 42歳 S1
127,011,000円
99期 34歳 S1
113,642,448円
119期 34歳 S1
106,526,000円
113期 25歳 SS
97,812,674円
105期 29歳 SS
95,851,696円
94期 35歳 SS
85,097,948円
107期 31歳 SS
81,076,000円
94期 40歳 S1
75,582,274円
96期 34歳 SS
70,296,548円
100期 33歳 S1
68,719,000円
107期 29歳 S2
67,043,274円
78期 47歳 SS
61,840,600円
19世紀末のニュージーランドを始め、20世紀初頭に西欧に広がった。イギリスでは第一次世界大戦末期の1918年に女性参政権(30歳以上)が認められ、28年に男女平等(21歳以上)となった。アメリカでは1920年に憲法修正19条として女性参政権が認められた。
イギリス
ピューリタン革命の過程で権利の章典が制定され、王権の制限や議会の権利の確立は世界に先駆けていたが、社会改革の点では遅れていたイギリスでは、女性の権利に対する自覚が芽生えるのは遅かったと言える。フランス革命やアメリカ革命に加わったトマス=ペインの影響を受けたウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』を発表したのは1792年だった。イギリスの主流はフランス革命批判を展開したエドモンド=バークの保守主義にあったと言える。それでも産業革命の進行はブルジョワジーの台頭、さらには労働者層の形成へと社会を変質させ、19世紀にはそれぞれの政治的要求を議会政治の中で実現しようという3次にわたる選挙法改正が行われた。しかし、その場合でも女性参政権は認められることはなかった。アメリカ
アメリカ合衆国では『独立宣言』で人間の平等が謳われたものの、黒人・インディアンとともに女性も参政権が認められないなど、差別が平然と行われていた。1830年代に女性解放運動が始まり1848年のセネカ・フォールズ集会はその第一歩だった。運動が本格化するのは南北戦争後で、1869年に初めて女性参政権を認める憲法改正案が提出されたが否決された。州の独立性の強いアメリカでは、州ごとに女性参政権を求める運動が行われるようになったが、1901年に結成されたアメリカ社会党の女性党員はニューヨークなどの大都市で活動した。1904年3月8日にはニューヨークで女性織工が参政権(選挙権)を要求してデモを行ったと伝えられている。この日は後に女性の権利のための集会を世界中で開催する「国際女性デー」の起源とも言われている。それは史実としては明確ではないが、アメリカの社会主義運動が後にドイツを中心とした第二インターナショナルに継承され、「国際女性デー」に発展したことは認められている。アメリカ合衆国では1911年のワシントン州を最初として12の州が1914年までに女性参政権を認めていたが、アメリカ合衆国憲法の修正には至っていなかった。その中で、1916年、モンタナ州で共和党ジャネット=ランキンが最初の女性下院議員として当選したことが特筆される。フランス
フランス革命の過程で、1792年9月に男性普通選挙が実施されたのが最も早いが、女性選挙権は含まれていなかった。最近では、「人権宣言」には女性の権利が含まれていないと抗議したオランプ=ド=グージュが女性運動の初期の人物として注目されている。男性普通選挙も1795年憲法で停止され制限選挙に戻り、女性参政権はさらに遅れた。1804年3月公布のナポレオン法典でも「夫権」のもとで女性は参政権はおろか、家長の後見にあるものとされ、財産や離婚の自由もなく、従属的な立場に置かれた。その後の復古王政によりいっそう自由・平等の理念は後退し、フランスの女性参政権は他のヨーロッパ諸国に比べて遅れた要因となった。ドイツ
大日本帝国憲法が手本としたプロイセン王国の憲法も、女性参政権は認められていなかった。しかし、ウィーン体制の抑圧に対する自由主義運動が活発になり、1848年には三月革命(ドイツ)が勃発し、大きな変化が始まった。同年、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』発表、社会主義運動が始まると、女性解放は労働者の解放と同義となり、新たな展開が始まった。ロシア革命とソ連での女性解放
マルクス主義の人権論はフランス革命の「人権宣言」のいう人権とは異なる見方をしている。マルクスは「人権宣言」の普遍的な「人権」を否定し、階級闘争の中で人権として認められるのはプロレタリアートの階級的権利だけであり、ブルジョワ階級の権利は否定されなければならない、と考えていた(『ユダヤ人問題によせて』)。マルクス主義をロシアに適合させたレーニンも、当初は女性問題を特に重視してはいなかったが、1910年に第二インターナショナルのクララ・ツェトキンが提唱して始まっていた国際女性デーの当日にあたる1917年3月8日(ロシア暦2月23日)に、ペテルブルクの女性織工等がパンと平和を求めてストライキに立ち上がったことが二月革命(三月革命)の発端となったことから状況が変化した。ボリシェヴィキのソヴィエト政権の中ではドイツから亡命してきたクララ・ツェトキンやレーニンの妻のクルプスカヤなどが中心となってロシアの反封建状態からの女性の解放が一気に進められることとなった。その他の国々での実現
その他、女性参政権実施が遅かった主な国には、イタリア(45年)、ベルギー・イスラエル・韓国(48年)、中国(49年)、ギリシア(52年)、スイス(71年)などがある。参考 女性参政権が1918年からであったことの意味
女性参政権は、近代以降の主要主権国家においてはイギリスの1918年(完全には1928年)、アメリカの1920年、つまり現在(2020年代初頭)からほぼわずか100年前に始まったに過ぎない。と言うことは何を意味するのだろうか。
4月10日は、我が国で女性が初めて参政権を行使した日です。
今からちょうど70年前の昭和21年4月10日、戦後初めての衆議院議員総選挙が行われ、約1,380万人の女性が初めて投票し、39名の女性国会議員が誕生しました。
女性参政権行使70年の記念すべき日に寄せて、加藤大臣からのメッセージを公表するとともに、関連する取組・資料をご紹介します。
「女性参政権行使70年」に寄せて
4月10日は、我が国において、女性が初めて参政権を行使した日です。今からちょうど70年前の4月10日、戦後初めての衆議院議員総選挙が行われ、約1,380万人の女性が初めて投票し、39名の女性国会議員が誕生いたしました。
少子高齢化が進み、人口減少社会に突入した我が国が活力ある豊かな国に発展していくためには、多様な意思が政治や社会の政策・方針決定に公平・公正に反映されることが必要であり、この観点から、政治分野における女性の参画拡大は、最も重要な課題です。
しかしながら、現在、衆議院議員に占める女性の割合は、45名で9.5%、参議院議員に占める女性の割合は38名で15.7%、都道府県議会議員に占める女性の割合は259名で9.7%と、諸外国に比べ、依然として低い水準に留まっています。残念ながら、衆議院議員に占める女性の割合が8.4%であった70年前と比べ状況が顕著に進展しているとは言い難い状況にあります。
昨年末に閣議決定した第4次男女共同参画基本計画においては、衆議院議員及び参議院議員の候補者に占める女性の割合を2020年までに30%とする目標を、政府が政党に働きかける際に示す努力目標として掲げています。
計画に基づき、私から各政党等に対し、民間企業等が女性活躍推進法に基づいた数値目標の設定等の取組を行うことを踏まえ、各政党においても同様に女性の政治参画に関する数値目標を設定する等のポジティブ・アクションを導入することなどについて、要請を行っているところです。
また、女性の政治参画の重要性に対する社会全体の意識を更に高めるべく、政治分野における女性の参画状況について全国の状況が一覧できる「女性の政治参画マップ」を作成・公表するなど、政治分野における「見える化」の推進にも取り組んでいます。
政党等におけるポジティブ・アクション導入に向けた検討が進むことで、女性が政治活動に参加しやすく、また、女性議員が更に活躍しやすい環境整備が進んでいくことを期待しています。
選挙権年齢が18歳に引き下げられ、若い世代の政治分野への参画も進む今年、政治に多様な民意を反映させるという観点からも、政治分野における女性の参画の拡大が図られるように、政府としても引き続き働きかけてまいります。
平成28年4月
内閣府特命担当大臣(男女共同参画)、女性活躍担当大臣
加藤 勝信
(写真)公明党の井上義久幹事長に要請文を手渡す加藤大臣
平成27年12月25日に閣議決定された「第4次男女共同参画基本計画」では、衆議院議員及び参議院議員の候補者に占める女性の割合を2020年までに30%とする目標を、政府が政党に働きかける際に示す努力目標としています。
同計画に基づき、加藤大臣から各政党等に対し、女性の政治参画に関する数値目標を設定する等のポジティブ・アクションを導入することなどについて要請を行っています。
地方の政治分野における都道府県ごとの女性の参画状況(知事、市区町村、都道府県議会の長及び議員、市区町村議会の長及び議員)について、マップでご覧いただけます。[右上図参照]
我が国において、今後、ポジティブ・アクションの導入に向けた具体的な議論が喚起されることを期待して、ポジティブ・アクションを導入している諸外国の事例等についてまとめたものです。
(写真)初めて議席につく女性たち【毎日新聞社提供】
○女性の政治参加促進のためのガイドブック(国連開発計画(UNDP)作成、内閣府仮訳)
女性の政治分野への参画について、各国の取組等をまとめたものです。
ファクトチェックとは、社会に広がっている情報・ニュースや言説が事実に基づいているかどうかを調べ、そのプロセスを記事化して、正確な情報を人々と共有する営みです。
一言でいえば、
です。
手軽にファクトチェックを知るために、リーフレット、入門動画、コミックも掲載しています。教育現場などでもご活用いただけます。
ファクトチェックの定義、ルール、FIJのガイドラインについては、以下のページでご覧ください。
入門書としてブックレット『ファクトチェックとは何か』もぜひ手にとって読んでいただければと思います。
ファクトチェックは、特定の主義・主張や党派・集団等を擁護、あるいは批判する目的で行うものではありません。
「非党派性・公正性」ーーこれは、国際標準のファクトチェック原則を定めたIFCNの綱領における最も重要な考え方です。
こうした原則を踏まえ、FIJでは国内のファクトチェック活動の指針となるよう、ガイドラインを策定し、活用を推奨しています。
近年、日本でもファクトチェックの取り組みが広がりつつあります。FIJが運営するFactCheck Naviを参考にしてください。
ファクトチェックは、欧米、中南米、アフリカ、アジアなど世界中の国々で、様々なメディア、団体によって取り組まれています。
FIJが運営するFactCheck Naviのリンク集を参考にしてください。
弁護士の北川健太郎被告(65)は、大阪地検のトップの検事正を務めていた2018年9月、大阪市内の公務員の宿舎で、酒に酔って抵抗できない状態の部下の女性に性的暴行をした罪に問われ、25日の初公判で「争うことはしません」と述べ、起訴された内容を認めまし初公判のあと、被害者の現職の女性検事が会見を開き、この事件の捜査中、副検事が元検事正側に捜査情報を漏らし、女性が虚偽告訴を行ったといううわさを庁内で広められたと訴えました。
そのうえでこの副検事について、国家公務員法違反や名誉毀損などの疑いで10月1日付けで大阪高等検察庁に刑事告訴したことを明らかにしました。
会見で女性は「私は堂々と検事としての仕事がしたいのに、虚偽告訴の噂が広がって絶望し、休職せざるを得なくなった。検察庁には適正な捜査をしてもらいたい」と話していました。
告訴について大阪地方検察庁の田中知子次席検事は、「告訴・告発があったことを含め、捜査機関の活動に関わる事項については答えを差し控える。一般論として、告訴・告発があった場合には、内容に応じて適切に対応している」とコメントしています。
アプリ限定 2024/03/26 (火) 18:00 68
2024年はS班から陥落しての戦いという1年になった郡司浩平だったが、2月岐阜競輪「全日本選抜競輪(GI)」を優勝して、来年のS班復帰を即座に決めた。元競輪選手でもある浩平の父・郡司盛夫(引退=50期)は、息子・浩平を、競輪選手・浩平をどう見ているのか。2部作でお届けする前編では、“師匠として”の目線から見た郡司浩平の姿を語ってもらった。(取材・構成:netkeirin編集部)
ーー師匠という立場から見た「競輪選手・郡司浩平」
郡司盛夫(以下:盛夫) 僕の立場としては『S級までさせる』というのが使命だと思ってました。合格するまでは相当厳しい練習をさせたんですが、デビューしてからは本人に任せて。レースが終わってからのポイントくらいしか話してないんです。本当にコツコツ、特進したわけでもなく、積み重ねで今の地位に行ったんだと思っています。
ーーどんなアドバイスをすることが多かったですか?
盛夫 脚力的にある方じゃなかったので、「バックだけは取りなさい」と。ラインは大切なんだけど、自分が先手を取れないとか競走にならないとしようがない。「自分のスタイルはしっかりしなさい」と教えましたね。
ーー後ろの選手が優勝することが多かったこともありますが…
盛夫 S級に上がってからは自分の意志でやってましたね。あそこまで点数が上がってきたのに、そこまでする必要ないかなっていうのもありました。お客さんのバッシングも結構あって、「印ついているのになんであそこまでするんだ」って僕のところ(ガイダンスコーナー)に言いに来られたりしました(苦笑)
ーー浩平選手は、新人時代と今は性格は変わりましたか?
盛夫 変わらないって言えば変わりませんね。昔から黙々とコツコツやるタイプです。
ーーピリピリとかしないですか?
盛夫 去年、S班陥落が決まった時も全くなかったです。自分のやったこと、結果がすべてだからしょうがないや、と。12月は「KEIRINグランプリ」に乗れても乗れなくても、リフレッシュと脚力の上積みをやりたいと話していました。それで「ウィナーズカップ(GII)」出場に届かなかったけど、本人が決めたこと。それが今年、歯車があって成績がよくなりましたし。
ーー松井宏佑の後ろで番手の仕事に徹した、競輪祭の準決勝の走りはどう見てましたか?
盛夫 あの時は僕もお客さんから言われました。どうだったんだと聞いたら、「番手に付いたら番手の仕事をして、最後は眞杉(匠)に踏み負けたからしょうがない。脚力があれば仕事をしても3着には入っていただろう」とサバサバしていたし、自分の軸はブレていませんでした。
ーーグランプリがかかっているぞ!という一戦でも!?
盛夫 あの辺は、お客さんからも言われたけど、でも浩平らしいレースで、これからもスタイルを築いていく面で番手を回った時はこういう風にやると。いない時は平原康多じゃないけどオールラウンダーを目指して、ね。
ーー12月は「親父、旅行に連れて行ってやるぞ」とかはありましたか?
盛夫 僕も僕で忙しくて。まぁ、前もって言ってくれればね(笑)。でも、なんか、恥ずかしいんじゃない。へへへ。
ーー全日本選抜の決勝はどう見ていましたか?
盛夫 北井(佑季)の調子が良かったので、狙われる位置かなと見てました。でも清水(裕友)も、来るかな、と思ったら、清水も好調だったので引いてくれましたね。あそこは運が良かったと思う。あとは…初日、2日目のレースとか。去年は特別競輪での流れがあまりにも悪すぎて。「流れを作らなきゃダメだよ」と話していたんです。特別の優勝を獲るには実力だけじゃなく、流れも必要だと思うんです。そこを自分で持ってこられるように。
ーー優勝後の連絡はしましたか?
盛夫「おめでとう」ってラインを打ったら「ありがとう」って。まあ、みんなからたくさんあったと思うんでね。
ーー「S班戻れたよ」とかは?
盛夫 なかったね。それで、女房が「食事連れて行ってあげるわよ」と近くのお寿司屋さんに行ってみんなでお祝いしたよ。払ったのはもちろん、こちら! 活躍して賞金も稼いでいて、女房とかは「ごちそうになろう」っていう気は昔は満々だったんだけど(笑)。でも、それは違うだろう、と。お祝いをしてあげなきゃいけないんだから。
ーー祝賀会の席では深く飲んだりしましたか?
盛夫 いや、浩平も車で来ていたのでノンアルを少し飲んで、そこまで深い話はせずにね。僕は普通に飲んで。S班にまたなって良かったねって。でも川崎の「全日本選抜競輪(GI)」の時と一緒で早めにグランプリ出場を決められたので、この後、グランプリまでどういう風に持っていくか、とか。1班だからFIも走るし、脚力を作るにしてもしっかりやっていかないと、と。出走本数もありますし。
ーー8月には平塚のオールスターがありますが…
盛夫 みんな獲りたいのは「ダービー(日本選手権競輪・GI)」と「オールスター競輪(GI)」だと思うんです。でも北井もいるし、松井も和田真久留もいて、彼らのホームバンク。誰かが優勝できる状態に持っていければ一番いいのかな。お客さんは、そこを目指して、と言うけど。自分の役割を全うしてほしい。
ーー南関には郡司浩平の前で頑張りたい、というムードも出てきていますが。
盛夫 浩平が自分で引っ張ってきたというのを、昔の人たちも言ってくれているんだと思う。北井が上に上がってきているけど、まあこれは師匠(高木隆弘)が言うことなんだけど、今のスタイルを貫いて、ね。勝ちたい、獲りたい、って思うとどこかで先行争いできなかったり、引いてまくりになったりすると、今の流れが崩れちゃう。
松井はスタイルを変えているけど、ナショナルチームの時から力は抜群にあるし、今の形で頑張ってほしい。浩平は番手で競りになることも出てくるかもしれないけど、そこで優勝を獲れれば、自分の仕事をしての優勝なんで一番いいことだと思う。
ーー郡司浩平の競輪選手としての才能は?
盛夫 センスはいいね。追い込みのどうのこうのじゃないけど、危ないくらい車輪ギリギリのところでも走れる。教えたわけじゃないし、生まれ持って恐怖感もないんだと思う。
怖いんですよ。僕も選手辞めたら、ピッタリ付くことはできなくなった。空いちゃうんです。辞めるって決めた選手が、口が空いて離れていっちゃうでしょう。怖くてピッタリ付けなくなるんです。選手辞めてガイダンスにいてレースを見ていると、「選手ってすごいよな」って思いますもん(笑)。脚が浮いているところで自転車に乗っていてそこで競ったりしているんですよ。あれは絶対にできない。今まですげえことやってきたんだな…。
ーー盛夫さんは長い現役生活を送りましたが…
盛夫 昔話したことあるんですが、「選手終わったらどうするんだよ?」と。浩平は「太く短くやりたいって」とそういう感じだった。「親父みたいに長くやることは考えてない」って。先のことも考えないといけないんだけど、今に集中してるのかな。競輪の方がおろそかにならないように、みたいな感じ。関根(幸夫、引退=59期)んとこにも聞いたことあるんだけど、健太郎は「僕はマッサージで…」どうのこうの言ってたね(笑)。
ーー師匠として気を付けたことは?
盛夫 怒鳴りつけて怒るとかはなかったね。今の人たちには良くないし。石井毅や山田慎一郎の時は厳しくやったけど。今の子たちには、そんなには言わない。練習じゃない私生活とかは厳しく言うかな。
浩平のデビュー前の話で、花月園競輪場が終わっちゃった時。午前中にバーベキューやって、夕方からウチのグループ(泉野門下)で飲み会があって浩平も来たんだけど。その後また「クラブに行く」って。もうデビューまで1週間くらいしかないんですよ。もう、やめろっつって。そしたらもう、むくれちゃって。みんないっぱいいる五番街のところで蹴り入れて「コノヤロー!」って。そこから仕方な〜くずっと電車乗ると、ついてきた。五番街の橋の所だよ(笑)。
ーー最後に今年に期待していることはありますか?
盛夫 師匠としてはS班復帰と思っていて、すぐに決めてくれましたね。でも自分のレースを貫いて結果が出る出ない、でやってくれればいいなと。ケガをしないように走ってもらえるのが一番だから。あとはダメなら本人が努力するだろうし、上には上がいるので、そこを目指すだろうと。
後編では父・郡司盛夫から見た郡司浩平選手の姿をお届けします。
2023年4月4日(木)公開予定です。