面白い!

2024年11月04日 23時20分09秒 | その気になる言葉

▼「面白い」には「心が晴れ晴れするさま、快く楽しい」の意味もある。

難局にあっても豊かな生命力と強気で生き抜くことだ。

そこから人生の新たな<面白い>が開幕する。

▼困難な状況下で、手ごわい相手と必死に戦う中で、人は自分でも想像しなかった力を発揮することがある。

人を成長させるのは、味方より手強い敵であることも。

▼人の心の中に平和の砦を―ユネスコ憲章記念日の11月4日。

希望の哲学を世界が希求している。


利根輪太郎の競輪人間学 漁夫の利

2024年11月04日 23時04分01秒 | 未来予測研究会の掲示板

GⅢ 防府競輪 万博協賛 周防国府杯争奪戦

最終日(11月4日)

12レース決勝

並び予想 9-1-4  5-6 2(単騎) 7-8-3

レース評

防府記念7連覇へ、清水は視界良好だ。準決同様に前後を太田と桑原が固める。セット力では吉田−杉森もいい。

9-1-4ラインは7-8-3ラインに競られて、力を失う。

こうなると、第三のラインの出番である。

競輪の展開による、典型的な漁夫の利となった。
 



選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 5 松本 貴治   9.4    
  2 6 小岩 大介 3車身 9.5    
  3 3 武藤 龍生 1車身1/2 9.4      
4 2 菅田 壱道 1/4車輪 9.5      
5 1 清水 裕友 3/4車輪 9.7   S  
6 8 杉森 輝大 1車身 9.5      
7 9 太田 海也 3/4車輪 10.0   B  
8 4 桑原 大志 1/2車身 9.8      
× 9 7 吉田 拓矢 3/4車身 9.9      
 
2

4=5
2,440円(9)
2

5=6
4,110円(13)
3

3=5=6
23,940円(53)


3=5
3,270円(29)
3=6
5,190円(35)
5=6
2,190円(21)
4-5
4,170円(15)
5-6
7,660円(21)
5-6-3
74,390円(151)

 

戦い終わって写真

 前を取った太田海也は吉田拓矢が上昇するのに併せながら、青板バック過ぎに突っ張る。吉田は後退して7番手で一本棒。太田のカカリは良かったが、鐘4角から吉田が再度、スパート。吉田は中団でダウンしたが、2角から4番手にいた松本貴治が痛快に踏み出すと、清水裕友、太田をあっさりと乗り越え、歓喜のⅤゴール。小岩大介を連れ込んだ。3着には関東3番手にいた武藤龍生が内を衝いて外を強襲。
 Ⅴゴール決めた松本は「後ろからだともがき合うと思ったし、なるべく前の方からと。吉田君と太田君が踏み合って、中団にいた自分に展開が向いた。脚には余裕があったし、どこで仕掛けるかでしたね。それにしても、自分が思った以上に出たし、びっくり。本当に嬉しい。今後はどんな位置でもしっかりとラインの力になれるように頑張ります」。 
 松本に続いて2着の小岩は「今日は初手で中団が取れたのが大きい。そこで50%。残りの50%は松本が仕上がっていた事。太田君がドンドン加速して行く中で、仮に仕掛けても清水に併されると思っていたが、そんな事もなく、軽く飲み込んだからね。自分はG3決勝に乗れる機会も少なく、その数少ない中で競輪祭の権利を取れたし、ホッとしました」。
 バックでは9番手に置かれるも内から強襲して3着に入った武藤は「初手は中団が理想。みんなスタートを取りに行っていたし、自分達も前を取るくらいの気持ちでいかないとダメでしたね。終始1本棒でとにかくキツかった。余裕は全くなかったが、内しかないと思い、あのコースに。たまたまです。シリーズ4日間を通して収穫もあったのでまた頑張ります」。

投票


競輪獲得賞金ランキング 2024年 男子

2024年11月04日 18時52分33秒 | その気になる言葉
 

女性参政権/男女平等選挙権

2024年11月04日 11時59分53秒 | 社会・文化・政治・経済

19世紀末のニュージーランドを始め、20世紀初頭に西欧に広がった。イギリスでは第一次世界大戦末期の1918年に女性参政権(30歳以上)が認められ、28年に男女平等(21歳以上)となった。アメリカでは1920年に憲法修正19条として女性参政権が認められた。

 18世紀後半のヨーロッパで啓蒙思想の深まり、市民革命の勃発などの中から、自由・平等の思想が広がり、市民社会の成り立たせる原理として人権が意識されるようになった。
当初は男性がその運動の主体であり、社会的・経済的な平等に続け政治的な平等の要求も男性を対照することが自明のこととされていた。
しかし、フランス革命の進展は女性の人権をも自覚させ、長く男性中心の家父長制家族制度に縛られていた女性の解放(離婚の自由など)、社会的・経済的な平等(女性の財産権など)を求める声とともに、女性の政治への参加を求める声も起こり始めた。これらは広く女性解放運動と言える動きであるが、初めは散発的であり、ブルジョア社会の中でもすぐには認められなかったが、その中で19世紀に入ると組織的な女性参政権運動となっていった。
 女性参政権運動は、18世紀からフランスで始まり、19世紀には労働組合運動・社会主義運動運動と結びついて運動が本格化した。世界で最初に女性参政権を認めたのは、1893年ニュージーランドであった。
ついで20世紀に入り、オーストラリア(1902年)、フィンランド(1906年)、ノルウェー(1913年)、デンマーク・アイスランド(1915年)、ソビエト=ロシア(1917年)、カナダ・ドイツ(1918年)で実現した。主要国では第一次世界大戦直後にイギリス・ドイツ(1918年)、アメリカ(1920年)、第二次世界大戦後にフランス・日本(1945年)となります。
・主要国の女性女性参政権
 → 男性普通選挙

イギリス

 ピューリタン革命の過程で権利の章典が制定され、王権の制限や議会の権利の確立は世界に先駆けていたが、社会改革の点では遅れていたイギリスでは、女性の権利に対する自覚が芽生えるのは遅かったと言える。フランス革命やアメリカ革命に加わったトマス=ペインの影響を受けたウルストンクラフトが『女性の権利の擁護』を発表したのは1792年だった。イギリスの主流はフランス革命批判を展開したエドモンド=バークの保守主義にあったと言える。それでも産業革命の進行はブルジョワジーの台頭、さらには労働者層の形成へと社会を変質させ、19世紀にはそれぞれの政治的要求を議会政治の中で実現しようという3次にわたる選挙法改正が行われた。しかし、その場合でも女性参政権は認められることはなかった。
J.S.ミル イギリスで明確に女性参政権を主張したのは、ジョン=スチュアート=ミルであった。彼は功利主義の理念の下、「女性参政権」を掲げて下院議員となり、その支援によって女性自身による女性参政権運動が始まった。19世紀末から20世紀初頭にM=G=フォーセットの婦人参政権協会全国同盟(NUWSS)、E=パンクハーストの女性社会政治同盟(WSPU)という二つの団体が運動を展開、特に後者は過激な行動で人びとの関心を集めたが、第一次世界大戦までに女性参政権を実現することはできなかった。
1918年の女性参政権実現 第一次世界大戦では女性も戦争に協力したということから、ロイド=ジョージ挙国一致内閣の下での、1918年第4回選挙法改正で「戸主又は戸主の妻である30歳以上の女性」に選挙権があたえられた。男性は21歳以上の普通選挙権であったので不平等が続いたが、ようやく1928年第5回選挙法改正で男女平等の普通選挙が実現した。 → イギリスの女性参政権

アメリカ

 アメリカ合衆国では『独立宣言』で人間の平等が謳われたものの、黒人・インディアンとともに女性も参政権が認められないなど、差別が平然と行われていた。1830年代に女性解放運動が始まり1848年のセネカ・フォールズ集会はその第一歩だった。運動が本格化するのは南北戦争後で、1869年に初めて女性参政権を認める憲法改正案が提出されたが否決された。州の独立性の強いアメリカでは、州ごとに女性参政権を求める運動が行われるようになったが、1901年に結成されたアメリカ社会党の女性党員はニューヨークなどの大都市で活動した。1904年3月8日にはニューヨークで女性織工が参政権(選挙権)を要求してデモを行ったと伝えられている。この日は後に女性の権利のための集会を世界中で開催する「国際女性デー」の起源とも言われている。それは史実としては明確ではないが、アメリカの社会主義運動が後にドイツを中心とした第二インターナショナルに継承され、「国際女性デー」に発展したことは認められている。アメリカ合衆国では1911年のワシントン州を最初として12の州が1914年までに女性参政権を認めていたが、アメリカ合衆国憲法の修正には至っていなかった。その中で、1916年、モンタナ州で共和党ジャネット=ランキンが最初の女性下院議員として当選したことが特筆される。
1920年の女性参政権実現 民主党ウィルソン大統領は女性参政権に反対していたが、第一次世界大戦に参戦したことで女性の戦争への貢献も期待するようになり、急速に気運が高まり、大戦後の1919年には下院で女性参政権を認める修正憲法19条が可決された。しかし上院の議決や各州の批准が遅れ、発効したのは1920年8月26日であった。アメリカでの女性参政権が意外に遅かったことに注意しよう。 → アメリカの女性参政権

フランス

 フランス革命の過程で、1792年9月に男性普通選挙が実施されたのが最も早いが、女性選挙権は含まれていなかった。最近では、「人権宣言」には女性の権利が含まれていないと抗議したオランプ=ド=グージュが女性運動の初期の人物として注目されている。男性普通選挙も1795年憲法で停止され制限選挙に戻り、女性参政権はさらに遅れた。1804年3月公布のナポレオン法典でも「夫権」のもとで女性は参政権はおろか、家長の後見にあるものとされ、財産や離婚の自由もなく、従属的な立場に置かれた。その後の復古王政によりいっそう自由・平等の理念は後退し、フランスの女性参政権は他のヨーロッパ諸国に比べて遅れた要因となった。
1848年 男性普通選挙の定着 ようやく1830年代の七月王政の時期に産業革命が進行してブルジョワジーが形成されたことを背景に男性普通選挙の再開を要求する動きが強まり、それが1848年の二月革命(フランス)を呼び起こし、四月普通選挙で復活したが、女性は依然として排除されていた。男性普通選挙が定着した第三共和政の時期には憲法では認められていなかったものの、徐々に女性の権利への配慮もなされるようになり、1884年には裁判離婚制度が認められるなどの改革が行われた。女性参政権運動も1880年代は組織化も始まり、1901年以降はたびたび法案が提出され、下院は通過しながら保守的な上院で否決されると言った事態が続いた。
第一次世界大戦でも実現せず 第一次世界大戦では女性の貢献を讃える立場から女性参政権支持も多くなったが、イギリス・アメリカと異なり、下院での反対も根強く、フランスでは実現しなかった。女性参政権に反対する理由としてあげられたのは、「女性の手は投票用紙にふれるよりはむしろ、接吻されるためにある」とか、「投票すると育児を怠り、夫の意見に逆らうようになる」「投票すると女性が“いやな女”になる」などがあげられている。また夫に従うべき妻は、夫が投票するのだから充分である、とか、夫が戦争で死んだ場合にだけ認めようとか、投票は権利ではなく恩恵であると捉える意見も多かった。
1945年の女性参政権実現 ようやくフランスで女性参政権が認められるのは1944年4月21日の臨時政府の措置令によってであった。総選挙が実施されたのは1945年10月2日であった。
 フランスで最初の男性普通選挙(世界最初)が行われたのが1792年、それが定着したのが1848年であったので、女性参政権はそれより約100年遅れたことになり、イギリスやアメリカが第一次世界大戦後に実現したのに比べても約4半世紀半の遅れがあった。<辻村みよ子・金城清子『女性の権利の歴史』岩波市民講座人間の歴史を考える⑧ 1992 岩波書店 p.74-75>

ドイツ

 大日本帝国憲法が手本としたプロイセン王国の憲法も、女性参政権は認められていなかった。しかし、ウィーン体制の抑圧に対する自由主義運動が活発になり、1848年には三月革命(ドイツ)が勃発し、大きな変化が始まった。同年、マルクスエンゲルスが『共産党宣言』発表、社会主義運動が始まると、女性解放は労働者の解放と同義となり、新たな展開が始まった。
社会主義と女性解放運動 ドイツ帝国時代のビスマルクの弾圧の中で活動を展開した社会民主党ベーベルは1879年に『女性と社会主義』(婦人論)を発表し、女性の解放は労働者の解放と社会主義社会への体制変革によって可能となると主張し、エンゲルスは1884年の『家族・私有財産・国家の起源』で女性が家夫長制度と資本主義社会によって二重に搾取されていると分析して、女性解放運動は社会変革と結びつくこととなった。
ツェトキン、国際女性デーの提唱 社会民主党員のクララ=ツェトキン(1857-1933)は1892年から国際社会主義女性会議を組織し、1910年8月の第2回第2インターナショナルコペンハーゲン大会で、アメリカの女性参政権運動を継承し、世界的な女性解放運動の統一行動日として国際女性デーを開催するとすることを提唱、1911年の3月8日にそれが世界各地で開催され、100万の女性が参加した。しかし、第一次世界大戦への対応をめぐって社会民主党は分裂、ツェトキンはローザ=ルクセンブルクとともにドイツ共産党に加わったが、ドイツ革命は失敗、ローザ=ルクセンブルクは殺害された。ツェトキンはその後ワイマール共和国で議員を務め、共産党が非合法となるとソ連に亡命しコミンテルンで活動した。<マルタ・ブレーン文・イェニ・ヨルダン絵/枇谷玲子訳『ウーマン・イン・バトル―自由・平等・シスターフッド』2019 合同出版 p.64-66 などによる>
ワイマール憲法 ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北したことによって、1919年1月、憲法制定議会の選挙が男女平等の普通選挙が実施され、同年8月、新しい憲法としてワイマール憲法が制定された。ワイマール憲法は当時最も進んだ憲法と言われ、社会権を保障したことで重要であるが、男女平等の選挙権と公民権や婚姻における両性の平等が明文化され、女性の権利がほぼ保障された。しかしワイマール共和国はブルジョワ共和制国家としてファシズムの台頭を許し、1933年にナチスは男女平等の普通選挙によって「合法的に」権力を獲得した。しかしヒトラーの総統国家は、政党を非合法化して活動を禁止し、議会制や民主主義は形骸化して国家意思は総統個人の意志となり、必要とあれば国民投票で信を問うという体制を作り上げた。女性は全国婦人団体に組織化され、総裁国家に組み込まれた。

ロシア革命とソ連での女性解放

 マルクス主義の人権論はフランス革命の「人権宣言」のいう人権とは異なる見方をしている。マルクスは「人権宣言」の普遍的な「人権」を否定し、階級闘争の中で人権として認められるのはプロレタリアートの階級的権利だけであり、ブルジョワ階級の権利は否定されなければならない、と考えていた(『ユダヤ人問題によせて』)。マルクス主義をロシアに適合させたレーニンも、当初は女性問題を特に重視してはいなかったが、1910年に第二インターナショナルのクララ・ツェトキンが提唱して始まっていた国際女性デーの当日にあたる1917年3月8日(ロシア暦2月23日)に、ペテルブルクの女性織工等がパンと平和を求めてストライキに立ち上がったことが二月革命(三月革命)の発端となったことから状況が変化した。ボリシェヴィキのソヴィエト政権の中ではドイツから亡命してきたクララ・ツェトキンやレーニンの妻のクルプスカヤなどが中心となってロシアの反封建状態からの女性の解放が一気に進められることとなった。
 1917年の十月革命(十一月革命)によって権力をにぎったレーニンのボリシェヴィキ政権のもとで、1918年の憲法では「社会主義的基本権」が保障されるのは勤労・被搾取人民であるというマルクス主義に基づき、選挙権・被選挙権は労働資格者・政治資格者に与えられ、それには勤労女性および家事労働に従事する女性が含まれた。また男女同一賃金原則が保障された。その一方で非勤労階級(資本家・地主・聖職者など)からは選挙権・被選挙権は剥奪された。またそれまでのロシア社会でギリシア正教教会の管轄下にあった婚姻や離婚は自由とされ、夫婦は平等となった。
スターリン憲法 その後、1922年にソ連邦が成立し、スターリン体制が確立した1936年に制定された、いわゆるスターリン憲法では社会主義化が達成されたとして、選挙権剥奪規定はなくなり、労働者と農民、勤労インテリゲンツィアは平等な諸権利、市民権を持つと規定され、女性は経済的・国家的・文化的などすべての分野で男性と平等であり、労働・賃金・社会保障・教育などでも同等の権利が認められた。しかし、スターリン体制下においてはしだいに家族を通して国家統制を図ろうという動きが強まり、封建的な意識を変革しないままの社会では事実上の男女不平等が残存していた。また中絶の禁止、離婚の制限などが復活し、息苦しい社会になったことも否めない。<辻村・金城『前掲書』 p.83-85 などによる>

その他の国々での実現

 その他、女性参政権実施が遅かった主な国には、イタリア(45年)、ベルギー・イスラエル・韓国(48年)、中国(49年)、ギリシア(52年)、スイス(71年)などがある。
日本 日本は1889年に大日本帝国憲法が成立し、立憲君主国の議会制国家となったが、議会を構成する議員の選挙権は直接国税15円以上を納入する男性のみとされる制限選挙であり、女性の参政権は認められていなかった。いわゆる「大正デモクラシー」の時期の1924年に市川房枝らが婦人参政権獲得期成同盟(25年に婦選獲得同盟に改称)を結成して運動を開始した。
1925年に、25歳以上の男性に選挙権が与えられる「普通選挙法」が成立したが、同時に労働者層の政治参加を恐れ、牽制するために「治安維持法」が制定された。それでも女性参政権は認められなかった。
 日本の女性参政権は第二次大戦後の民主化の最も重要な項目としてあげられ、1945年12月の改正選挙法で実現し、満20歳以上の男女による平等な選挙制度となった。翌年4月の総選挙では婦人議員が39名当選した。ここで成立した新議会で日本国憲法が制定された。日本国憲法は日本で始めて男女平等の選挙制度によって成立した議会で制定されたものである。

参考 女性参政権が1918年からであったことの意味

 女性参政権は、近代以降の主要主権国家においてはイギリスの1918年(完全には1928年)、アメリカの1920年、つまり現在(2020年代初頭)からほぼわずか100年前に始まったに過ぎない。と言うことは何を意味するのだろうか。
 それは、それ以前の各国の国家意思の決定には女性は加わっていない、つまり責任はないことを意味する。ということは、第一次世界大戦までの各国が行った国家間の戦争は、その意志決定に関わった国民は男性のみであり、女性の関われないところで決められ、実行された、ということだ。第二次世界大戦では連合国側は別として、枢軸側はドイツでは議会制度は事実上成り立っていなかったし、日本・イタリアでは女性参政権は認められていなかった。
 今までの戦争という歴史に女性が一切責任がない、などとは言えるはずはないが、少なくとも議会政治が機能するようになった国家において、女性に参政権が無かったと言うことはその国家意思の決定に責任はなかったと言える。極端な話、女性は「戦争は男が勝手にやったことだ!」ともっと怒って良いのは事実である。
こう考えれば、議会制度のもとで選挙によって国民が国家意思を決定するという現代主権国家のシステムの中で、女性参政権の意義はとてつもなく重要であることが判る。このことは女性参政権の歴史的意義として重視して良いのではないだろうか。

 


女性参政権の歴史

2024年11月04日 11時54分27秒 | 社会・文化・政治・経済

女性参政権行使70年


4月10日は、我が国で女性が初めて参政権を行使した日です。
 今からちょうど70年前の昭和21年4月10日、戦後初めての衆議院議員総選挙が行われ、約1,380万人の女性が初めて投票し、39名の女性国会議員が誕生しました。
 女性参政権行使70年の記念すべき日に寄せて、加藤大臣からのメッセージを公表するとともに、関連する取組・資料をご紹介します。


加藤大臣からのメッセージ

「女性参政権行使70年」に寄せて

4月10日は、我が国において、女性が初めて参政権を行使した日です。今からちょうど70年前の4月10日、戦後初めての衆議院議員総選挙が行われ、約1,380万人の女性が初めて投票し、39名の女性国会議員が誕生いたしました。
 少子高齢化が進み、人口減少社会に突入した我が国が活力ある豊かな国に発展していくためには、多様な意思が政治や社会の政策・方針決定に公平・公正に反映されることが必要であり、この観点から、政治分野における女性の参画拡大は、最も重要な課題です。
 しかしながら、現在、衆議院議員に占める女性の割合は、45名で9.5%、参議院議員に占める女性の割合は38名で15.7%、都道府県議会議員に占める女性の割合は259名で9.7%と、諸外国に比べ、依然として低い水準に留まっています。残念ながら、衆議院議員に占める女性の割合が8.4%であった70年前と比べ状況が顕著に進展しているとは言い難い状況にあります。
 昨年末に閣議決定した第4次男女共同参画基本計画においては、衆議院議員及び参議院議員の候補者に占める女性の割合を2020年までに30%とする目標を、政府が政党に働きかける際に示す努力目標として掲げています。
 計画に基づき、私から各政党等に対し、民間企業等が女性活躍推進法に基づいた数値目標の設定等の取組を行うことを踏まえ、各政党においても同様に女性の政治参画に関する数値目標を設定する等のポジティブ・アクションを導入することなどについて、要請を行っているところです。
 また、女性の政治参画の重要性に対する社会全体の意識を更に高めるべく、政治分野における女性の参画状況について全国の状況が一覧できる「女性の政治参画マップ」を作成・公表するなど、政治分野における「見える化」の推進にも取り組んでいます。
 政党等におけるポジティブ・アクション導入に向けた検討が進むことで、女性が政治活動に参加しやすく、また、女性議員が更に活躍しやすい環境整備が進んでいくことを期待しています。
 選挙権年齢が18歳に引き下げられ、若い世代の政治分野への参画も進む今年、政治に多様な民意を反映させるという観点からも、政治分野における女性の参画の拡大が図られるように、政府としても引き続き働きかけてまいります。

平成28年4月
内閣府特命担当大臣(男女共同参画)、女性活躍担当大臣
加藤 勝信


PDF版はこちら[PDF形式:84.9KB]別ウインドウで開きます

加藤大臣による各政党への要請

(写真)公明党の井上義久幹事長に要請文を手渡す加藤大臣

 平成27年12月25日に閣議決定された「第4次男女共同参画基本計画」では、衆議院議員及び参議院議員の候補者に占める女性の割合を2020年までに30%とする目標を、政府が政党に働きかける際に示す努力目標としています。
 同計画に基づき、加藤大臣から各政党等に対し、女性の政治参画に関する数値目標を設定する等のポジティブ・アクションを導入することなどについて要請を行っています。

(参考)各政党への要請文[ PDF形式:1.6MB ]別ウインドウで開きます


関連資料

地方の政治分野における都道府県ごとの女性の参画状況(知事、市区町村、都道府県議会の長及び議員、市区町村議会の長及び議員)について、マップでご覧いただけます。[右上図参照]

我が国において、今後、ポジティブ・アクションの導入に向けた具体的な議論が喚起されることを期待して、ポジティブ・アクションを導入している諸外国の事例等についてまとめたものです。


(写真)初めて議席につく女性たち【毎日新聞社提供】

○女性の政治参加促進のためのガイドブック(国連開発計画(UNDP)作成、内閣府仮訳)

女性の政治分野への参画について、各国の取組等をまとめたものです。

 
 
 

ファクトチェック

2024年11月04日 11時48分23秒 | その気になる言葉

ファクトチェックとは、社会に広がっている情報・ニュースや言説が事実に基づいているかどうかを調べ、そのプロセスを記事化して、正確な情報を人々と共有する営みです。

一言でいえば、

真偽検証

です。

手軽にファクトチェックを知るために、リーフレット、入門動画、コミックも掲載しています。教育現場などでもご活用いただけます。

 

リーフレット
動画
コミック

ファクトチェックの定義、ルール、FIJのガイドラインについては、以下のページでご覧ください。

 
 

入門書としてブックレット『ファクトチェックとは何か』もぜひ手にとって読んでいただければと思います。


ファクトチェックの原則

ファクトチェックは、特定の主義・主張や党派・集団等を擁護、あるいは批判する目的で行うものではありません。

非党派性・公正性」ーーこれは、国際標準のファクトチェック原則を定めたIFCNの綱領における最も重要な考え方です。

 

こうした原則を踏まえ、FIJでは国内のファクトチェック活動の指針となるよう、ガイドラインを策定し、活用を推奨しています。

 

 


日本のファクトチェック活動

近年、日本でもファクトチェックの取り組みが広がりつつあります。FIJが運営するFactCheck Naviを参考にしてください。

 


 

世界のファクトチェック活動

ファクトチェックは、欧米、中南米、アフリカ、アジアなど世界中の国々で、様々なメディア、団体によって取り組まれています。

FIJが運営するFactCheck Naviのリンク集を参考にしてください。

 

検事正が部下に性暴行

2024年11月04日 00時30分30秒 | 事件・事故
大阪地方検察庁の元検事正が、部下の女性に性的暴行をした罪に問われている事件で、この事件の捜査中、検察の関係者が元検事正側に情報を漏らしていたなどとして、部下の女性が国家公務員法違反などの疑いで刑事告訴したことを明らかにしました。


弁護士の北川健太郎被告(65)は、大阪地検のトップの検事正を務めていた2018年9月、大阪市内の公務員の宿舎で、酒に酔って抵抗できない状態の部下の女性に性的暴行をした罪に問われ、25日の初公判で「争うことはしません」と述べ、起訴された内容を認めまし初公判のあと、被害者の現職の女性検事が会見を開き、この事件の捜査中、副検事が元検事正側に捜査情報を漏らし、女性が虚偽告訴を行ったといううわさを庁内で広められたと訴えました。

そのうえでこの副検事について、国家公務員法違反や名誉毀損などの疑いで10月1日付けで大阪高等検察庁に刑事告訴したことを明らかにしました。
会見で女性は「私は堂々と検事としての仕事がしたいのに、虚偽告訴の噂が広がって絶望し、休職せざるを得なくなった。検察庁には適正な捜査をしてもらいたい」と話していました。

告訴について大阪地方検察庁の田中知子次席検事は、「告訴・告発があったことを含め、捜査機関の活動に関わる事項については答えを差し控える。一般論として、告訴・告発があった場合には、内容に応じて適切に対応している」とコメントしています。

 


陥落からわずか50日でS班復帰! 父だけが知る郡司浩平の強さの秘密 / 競輪父子鷹 part1

2024年11月04日 00時27分34秒 | 未来予測研究会の掲示板

アプリ限定 2024/03/26 (火) 18:00  68

2024年はS班から陥落しての戦いという1年になった郡司浩平だったが、2月岐阜競輪「全日本選抜競輪(GI)」を優勝して、来年のS班復帰を即座に決めた。元競輪選手でもある浩平の父・郡司盛夫(引退=50期)は、息子・浩平を、競輪選手・浩平をどう見ているのか。2部作でお届けする前編では、“師匠として”の目線から見た郡司浩平の姿を語ってもらった。(取材・構成:netkeirin編集部)

 

師匠・郡司盛夫氏から見た郡司浩平とは

 

「自分のスタイルはしっかりしろ」と教えた師匠からの言葉

ーー師匠という立場から見た「競輪選手・郡司浩平」

郡司盛夫(以下:盛夫) 僕の立場としては『S級までさせる』というのが使命だと思ってました。合格するまでは相当厳しい練習をさせたんですが、デビューしてからは本人に任せて。レースが終わってからのポイントくらいしか話してないんです。本当にコツコツ、特進したわけでもなく、積み重ねで今の地位に行ったんだと思っています。

ーーどんなアドバイスをすることが多かったですか?

盛夫 脚力的にある方じゃなかったので、「バックだけは取りなさい」と。ラインは大切なんだけど、自分が先手を取れないとか競走にならないとしようがない。「自分のスタイルはしっかりしなさい」と教えましたね。

ーー後ろの選手が優勝することが多かったこともありますが…

盛夫 S級に上がってからは自分の意志でやってましたね。あそこまで点数が上がってきたのに、そこまでする必要ないかなっていうのもありました。お客さんのバッシングも結構あって、「印ついているのになんであそこまでするんだ」って僕のところ(ガイダンスコーナー)に言いに来られたりしました(苦笑)

S班陥落が決まった時も穏やかだった郡司浩平の姿

 

郡司浩平選手は昔から黙々とコツコツやる努力家タイプ
 

 

ーー浩平選手は、新人時代と今は性格は変わりましたか?

盛夫 変わらないって言えば変わりませんね。昔から黙々とコツコツやるタイプです。

ーーピリピリとかしないですか?

盛夫 去年、S班陥落が決まった時も全くなかったです。自分のやったこと、結果がすべてだからしょうがないや、と。12月は「KEIRINグランプリ」に乗れても乗れなくても、リフレッシュと脚力の上積みをやりたいと話していました。それで「ウィナーズカップ(GII)」出場に届かなかったけど、本人が決めたこと。それが今年、歯車があって成績がよくなりましたし。

ーー松井宏佑の後ろで番手の仕事に徹した、競輪祭の準決勝の走りはどう見てましたか?

 

2023年競輪祭(G1)準決勝10R(写真提供:チャリ・ロト)

 

盛夫 あの時は僕もお客さんから言われました。どうだったんだと聞いたら、「番手に付いたら番手の仕事をして、最後は眞杉(匠)に踏み負けたからしょうがない。脚力があれば仕事をしても3着には入っていただろう」とサバサバしていたし、自分の軸はブレていませんでした。

ーーグランプリがかかっているぞ!という一戦でも!?

盛夫 あの辺は、お客さんからも言われたけど、でも浩平らしいレースで、これからもスタイルを築いていく面で番手を回った時はこういう風にやると。いない時は平原康多じゃないけどオールラウンダーを目指して、ね。

ーー12月は「親父、旅行に連れて行ってやるぞ」とかはありましたか?

盛夫 僕も僕で忙しくて。まぁ、前もって言ってくれればね(笑)。でも、なんか、恥ずかしいんじゃない。へへへ。

特別の優勝を獲るには実力だけじゃない

 

2024年全日本選抜競輪で見事優勝を掴んだ郡司浩平選手(撮影:北山宏一)

 

ーー全日本選抜の決勝はどう見ていましたか?

盛夫 北井(佑季)の調子が良かったので、狙われる位置かなと見てました。でも清水(裕友)も、来るかな、と思ったら、清水も好調だったので引いてくれましたね。あそこは運が良かったと思う。あとは…初日、2日目のレースとか。去年は特別競輪での流れがあまりにも悪すぎて。「流れを作らなきゃダメだよ」と話していたんです。特別の優勝を獲るには実力だけじゃなく、流れも必要だと思うんです。そこを自分で持ってこられるように。

ーー優勝後の連絡はしましたか?

盛夫「おめでとう」ってラインを打ったら「ありがとう」って。まあ、みんなからたくさんあったと思うんでね。

ーー「S班戻れたよ」とかは?

盛夫 なかったね。それで、女房が「食事連れて行ってあげるわよ」と近くのお寿司屋さんに行ってみんなでお祝いしたよ。払ったのはもちろん、こちら! 活躍して賞金も稼いでいて、女房とかは「ごちそうになろう」っていう気は昔は満々だったんだけど(笑)。でも、それは違うだろう、と。お祝いをしてあげなきゃいけないんだから。

ーー祝賀会の席では深く飲んだりしましたか?

盛夫 いや、浩平も車で来ていたのでノンアルを少し飲んで、そこまで深い話はせずにね。僕は普通に飲んで。S班にまたなって良かったねって。でも川崎の「全日本選抜競輪(GI)」の時と一緒で早めにグランプリ出場を決められたので、この後、グランプリまでどういう風に持っていくか、とか。1班だからFIも走るし、脚力を作るにしてもしっかりやっていかないと、と。出走本数もありますし。

郡司浩平の前で頑張りたいという南関ムード

 

「自分の役割を全うしてほしい」と話す郡司盛夫氏

 

ーー8月には平塚のオールスターがありますが…

盛夫 みんな獲りたいのは「ダービー(日本選手権競輪・GI)」と「オールスター競輪(GI)」だと思うんです。でも北井もいるし、松井も和田真久留もいて、彼らのホームバンク。誰かが優勝できる状態に持っていければ一番いいのかな。お客さんは、そこを目指して、と言うけど。自分の役割を全うしてほしい。

ーー南関には郡司浩平の前で頑張りたい、というムードも出てきていますが。

盛夫 浩平が自分で引っ張ってきたというのを、昔の人たちも言ってくれているんだと思う。北井が上に上がってきているけど、まあこれは師匠(高木隆弘)が言うことなんだけど、今のスタイルを貫いて、ね。勝ちたい、獲りたい、って思うとどこかで先行争いできなかったり、引いてまくりになったりすると、今の流れが崩れちゃう。
 松井はスタイルを変えているけど、ナショナルチームの時から力は抜群にあるし、今の形で頑張ってほしい。浩平は番手で競りになることも出てくるかもしれないけど、そこで優勝を獲れれば、自分の仕事をしての優勝なんで一番いいことだと思う。

デビュー1週間前に「コノヤロー!」と入れた蹴り

 

師匠として選手のセンスの良さを認めている(撮影:北山宏一)

 

ーー郡司浩平の競輪選手としての才能は?

盛夫 センスはいいね。追い込みのどうのこうのじゃないけど、危ないくらい車輪ギリギリのところでも走れる。教えたわけじゃないし、生まれ持って恐怖感もないんだと思う。
 怖いんですよ。僕も選手辞めたら、ピッタリ付くことはできなくなった。空いちゃうんです。辞めるって決めた選手が、口が空いて離れていっちゃうでしょう。怖くてピッタリ付けなくなるんです。選手辞めてガイダンスにいてレースを見ていると、「選手ってすごいよな」って思いますもん(笑)。脚が浮いているところで自転車に乗っていてそこで競ったりしているんですよ。あれは絶対にできない。今まですげえことやってきたんだな…。

ーー盛夫さんは長い現役生活を送りましたが…

盛夫 昔話したことあるんですが、「選手終わったらどうするんだよ?」と。浩平は「太く短くやりたいって」とそういう感じだった。「親父みたいに長くやることは考えてない」って。先のことも考えないといけないんだけど、今に集中してるのかな。競輪の方がおろそかにならないように、みたいな感じ。関根(幸夫、引退=59期)んとこにも聞いたことあるんだけど、健太郎は「僕はマッサージで…」どうのこうの言ってたね(笑)。

ーー師匠として気を付けたことは?

盛夫 怒鳴りつけて怒るとかはなかったね。今の人たちには良くないし。石井毅や山田慎一郎の時は厳しくやったけど。今の子たちには、そんなには言わない。練習じゃない私生活とかは厳しく言うかな。
 浩平のデビュー前の話で、花月園競輪場が終わっちゃった時。午前中にバーベキューやって、夕方からウチのグループ(泉野門下)で飲み会があって浩平も来たんだけど。その後また「クラブに行く」って。もうデビューまで1週間くらいしかないんですよ。もう、やめろっつって。そしたらもう、むくれちゃって。みんないっぱいいる五番街のところで蹴り入れて「コノヤロー!」って。そこから仕方な〜くずっと電車乗ると、ついてきた。五番街の橋の所だよ(笑)。

 

当時を思い出し五番街の橋での蹴りを再現

 

ーー最後に今年に期待していることはありますか?

盛夫 師匠としてはS班復帰と思っていて、すぐに決めてくれましたね。でも自分のレースを貫いて結果が出る出ない、でやってくれればいいなと。ケガをしないように走ってもらえるのが一番だから。あとはダメなら本人が努力するだろうし、上には上がいるので、そこを目指すだろうと。

 

後編では父・郡司盛夫から見た郡司浩平選手の姿をお届けします。
2023年4月4日(木)公開予定です。