第二次世界大戦後に日本を占領下に置いた連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)は、学校教育の改革政策として「民主化の一環」として1945年12月に教員組合の結成を指令した。
12月には全日本教員組合(全教。翌年より「全日本教員組合協議会」)が、また翌年、教員組合全国同盟(教全連)が結成された。
これら2つの組織に大学専門学校教職員組合協議会を加えて、組織を一本化する機運が生まれ、1947年(昭和22年)6月8日に奈良県高市郡(現在の橿原市)橿原神宮外苑で日本教職員組合の結成大会が開かれた。
大会では、日教組の地位確立と教育の民主化、民主主義教育の推進を目指すと定めた3つの綱領を採択し、6・3制(小学校6年間・中学校3年間)完全実施・教育復興に向けての取り組みを開始するとした。
1950年6月に北朝鮮が韓国に突如侵攻したことで朝鮮戦争が勃発し、連合国軍最高司令官のマッカーサーは警察予備隊(後の保安隊、現在の陸海空自衛隊)の創設を指令、再軍備に道を開き、日本を「反共の砦」と位置づけた。また日本政府も連合国軍による占領終了に伴う主権回復(1952年4月28日:日本国との平和条約発効)を前にして、「日の丸」「君が代」「道徳教育」の導入など、左翼陣営から戦前への「逆コース」といわれる教育政策を志向し始めた。戦後教育見直しや再軍備への動きの中で、日教組は、1951年1月に開いた中央委員会でスローガン「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」(=非武装中立)を採択し文部省(現・文部科学省)の方針に対立する運動を開始した。また、1951年11月10日、栃木県日光市で第1回全国教育研究大会(教育研究全国集会=全国教研の前身)を開き、毎年1回の教育研究集会を開催、現在に至っている。
その後も、「教師の倫理綱領」を定めて新しい教員の姿を模索する一方、文部大臣(現在の文部科学大臣)と団体交渉を行ってきた。
「教育の国家統制」や「能力主義教育政策」に反対する立場を取り、1950年代から60年代にかけて、以下のような運動を行った。
- 1950年(昭和25年)以降、「教育の国家統制」に反対する立場から国旗掲揚と国歌斉唱の強制に対して反対している(なお、この様な方針を掲げる教職員組合は世界では日本のみである)。
- 1956年(昭和31年) - 教育委員会が住民による公選制から首長による任命制に移行することへの反対
- 1957年(昭和32年)・1958年(昭和33年) - 教員の勤務評定を実施することへの反対。この運動方針をめぐり組合の路線対立が起き、1958年6月6日より開かれた第17回大会(上ノ山)は新役員選出が頓挫して6月11日に一時休会。7月27日、東京で大会を再開、新書記長に、現場側と教育委員会の協議による「神奈川方式」の導入を目指す宮之原貞光を選出した[15][16]。一方、組合員の教員による「休暇闘争」が行われ、10月28日より群馬・高知で10割休暇、12月4日より高知で10割休暇が行われた[16]。12月5日には、当時の委員長・小林武が闘争反対の父兄に暴行され重傷を負っている[17]。
- 1961年(昭和36年) - 日本の全国統一学力テスト実施への反対
- 1965年(昭和40年) - 「歴史教科書問題」をめぐる裁判(家永教科書裁判)の支援
国政においては、日教組の政治組織である日本民主教育政治連盟は、1956年の総選挙で日本社会党などから推薦候補20人(うち、日教組組織内候補13人)を当選させ、1956年の参院選では10人を当選させた。
1970年代に入ると、日教組への右翼団体の妨害がエスカレートした。1971年7月22日から佐賀県嬉野町立体育館で行われた第39回定期大会の例では、会場周辺を700人の機動隊が警戒に当たっていたにもかかわらず、右翼側は前日から会場の天井裏に潜伏。
大会の開会宣言に合わせて天井から消火剤をまき散らし、19人が逮捕される事件も起きた。
また、1973年大会の会場として確保した群馬県民会館からは、事前に周辺自治会から大会開催に賛同を得ること、会館や住民などへ被害が出た際には日教組が補償することなどの条件が附された。次第に会場の確保は困難となり、利用を拒否される出来事も起きた。
1974年の春闘では、本部委員長をはじめ21人が逮捕され、12都道府県13組合999か所が捜索を受けた。
この事件を前後して教師のストライキ実施方法で日教組内で対立をもたらした。
また、1980年代の労働戦線統一の論議で社会党系と共産党系が対立し、1989年11月には共産党支持グループが離脱して全日本教職員組合協議会(1991年以降全日本教職員組合、略称:全教)が結成された。
こうして日教組を構成していた一部の組合員や単位労働組合(単組)が脱退した(詳しくは、#離脱・独立を参照)。
1994年(平成6年)には、日本社会党の路線変更に伴い、それまで社会党を支持していた日本教職員組合も方針を変更し、文部省(現在の文部科学省)と協調路線をとることに決定し、文部省と和解した。
2002年度(平成14年度)から翌年度にかけて施行された文部省告示の学習指導要領では、日本教職員組合がこれまでに取り組んできた「自主的なカリキュラムの編成」運動における「総合学習」の考え方に近いとも考えられる「総合的な学習の時間」が新設された。
時代の変化とともに対立から協調へと変化しており、特に20世紀末から21世紀始めにかけては、日本教職員組合と文部科学省との長期の対立に終止符が打たれたのではないかという捉え方もされている。
全日本高等学校教職員組合
日教組は組合員の多くが小学校や中学校の教職員であることから、小・中学校重視の活動を続けてきた。
これに不満を持っていた高等学校組合員も多く、文部省の打ち出した高校教員優遇政策に乗り、多くの高等学校の組合が日教組を離脱した。これは当時の高等学校教職員組合のほぼ半数に当たる。
1950年(昭和25年)4月8日に全日本高等学校教職員組合(略称は全高教、現在の日本高等学校教職員組合(日高教))を組織した。
日本教職員組合
(日教組)加盟組織 日本労働組合総連合会
公務公共サービス労働組合協議会
教育インターナショナル
支持政党 立憲民主党
社会民主党
公式サイト 日本教職員組合
日本教職員組合(にほんきょうしょくいんくみあい、略称:日教組 (にっきょうそ)、英語:Japan Teachers' Union、略称:JTU)は、日本の公立小学校・中学校・高等学校の教員・学校職員による労働組合の連合体である。教職員組合としては日本最大であり、日本労働組合総連合会(連合)、公務公共サービス労働組合協議会(公務労協)、教育インターナショナル(EI)に加盟している。
立憲民主党および社会民主党(旧日本社会党)の支持団体の一つであり、両党に地方議会・国会に組織内議員を輩出してきた。
文部科学省が毎年10月1日に実施している教職員団体への加入状況調査や、厚生労働省が毎年6月30日に実施している労働組合基礎調査などから、日教組の加入者数が緩やかな減少傾向にあることが明らかになっている[7]。1977年以降から小中高教職員を占める割合(組織率)は下落の一途であり[6]、2016年秋時点23.6%[2]、2020年10月時点で過去最低の21.3%である。
NGOであるEducation International(EI)に加盟している(EIには米国の全米教職員組合など世界のほとんどの教職員組合がメンバーである)。
概説
日教組は、国立・公立・私立の幼稚園、小学校、中学校、高等学校、特別支援学校、大学、高等専門学校、専修学校、各種学校などの教職員で構成する組合と、教育関連団体スタッフによる組合を単位組織とする連合体組織であり、教職員の待遇改善、地位の向上、教職員定数の改善をはじめとする教育条件の整備などを主な目的として活動している利益団体である。
現状では小学校、中学校、高等学校の教職員が組合員の大半を占めている。現存する日本の教職員組合の中で最も歴史が古く、規模も結成以来一貫して日本最大の教職員組合である[注 1]。
2007年の教育基本法改定、教員免許更新制導入に反対する運動など、教育課題に直接関係する活動のほか、政治的な活動も行っており、入学式や卒業式で国旗掲揚及び国歌斉唱を求める文部科学省の指導[注 2]に対しては、様々な教職員に対する処分の実態などを背景にして「強制」であるとして批判的な立場をとる。
日教組の政治活動が大きな問題となった例としては、日教組系の山梨県教職員組合による政治献金問題や、教職員組合の政治活動問題などがある(詳細は下記の『教職員組合の政治活動への批判』などを参照)。
55年体制下では、他の総評系官公労と同じく、社会党を支持する有力労働組合の一つであったが、かつては日本共産党支持の教職員らも日教組に属し、共産党支持グループからなる反主流派が約3分の1の勢力を持っていた。
しかし、1987年に総評が日本労働組合総連合会発足のために全日本労働総同盟と合流したため、共産党支持グループの大多数が1991年に日教組から離脱して、全日本教職員組合を発足させ、日教組内の反主流派はごく一部を残すのみとなった。
日教組内の約半数弱を占めていた共産党系教職員らが離脱したことで、1991年に日教組の組織率は50%弱から2割一気に減って30%台となった。
現状
かつて、日教組の組織の形態は法人格のない社団であり、そのことに起因する活動範囲、権利能力及び財産管理など(団体名義による契約締結及び口座開設並びに登記などができないこと)の問題を改善するために法人格取得への動きがあったが、難航していた。2021年時点では、法人格がある。
かつては日本の学校教育に大きな影響力を持ち、文部省(現在の文部科学省)が教育行政によるトップダウン方式で均質かつ地域格差のない教育を指向するのに対し、現場の教員がボトムアップ方式で築く柔軟で人間的な教育を唱え、激しく対立した。
その後、1994年(平成6年)に日本社会党委員長の村山富市を首班とする村山内閣(自社さ連立政権)が誕生した。
そして、1995年(平成7年)、日本教職員組合は、文部省(当時)との協調路線(歴史的和解)へと方針転換を表明した。
組織内候補として日本民主教育政治連盟(日政連)に所属する議員を推薦して、国会に送り込んでおり、連合に所属する産別の中では、政治的影響力は大きいとされる。
国会議員では衆議院議員に横光克彦・川内博史・本多平直・道下大樹、参議院議員には水岡俊一・那谷屋正義・斎藤嘉隆・鉢呂吉雄がいる。
2022年現在では立憲民主党支持が中心であるが、岩手県、大分県など社会民主党を軸に支持するところや、広島県のように新社会党を支援するところもある(大分県の例については大分県教職員組合を参照)。
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