漆原将司の母親は、中学校の教師であり、共産党の党員でもあった。
彼は大学時代に、同期生の金子公子から、労音のコンサートに誘そわれた。
彼が女性と個人的に学外で行動を共にしたことは、初めてだった。
そして、帰りに立ち寄った新宿の喫茶店で、彼女から政党の機関紙の購読を勧められた。
「この新聞、母親が購読しているんだ」彼は、その新聞を不愉快な表情で見詰める。
「あら、そうなの」公子は急に冷めた目線となる。
彼女に何となく違和感を抱いていた彼は、労音のコンサートに行ったことを悔いる。
彼女の魂胆が見えたのだ。
そして、「この人は、なぜ、若い身で共産党の党員なのか」と訝るのだ。
太宰治が、共産党から離れていったことが、 脳裏に浮かぶのだ。
太宰治の左翼活動
1929年(昭和4年)、弘前高校で校長の公金流用が発覚し、学生たちは上田重彦(石上玄一郎)社会科学研究会リーダーのもと5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取る。
太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、当時流行のプロレタリア文学を真似て、事件を『学生群』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせている。
津島家は太宰の左翼活動を警戒した。翌年1月16日、特高は田中清玄の武装共産党の末端活動家として動いていた上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、3人が諭旨退学、2人が無期停学となっている。
大学生になった太宰は活動家の工藤永蔵と知り合い、共産党に毎月10円の資金カンパをする。
初代との結婚で津島家を分家除籍にされたのは、政治家でもある文治に非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった。
結婚してからはシンパを匿うよう命令され、引っ越しを繰り返した。
やがて警察にマークされるようになり、2度も留置所に入れられた。
1932年(昭和7年)7月、文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署に出頭させる。12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して左翼活動から完全離脱した。
勤労者音楽協議会(きんろうしゃおんがくきょうぎかい)は、会員制を基本に運営される日本の音楽鑑賞団体。通称は労音(ろうおん)。
1960年代半ばには、192の地域組織が存在し、60万人を超える組織となったが、その後、急速に衰退した。現在では、各地に「勤労者音楽協議会」の名称だけでなく、「音楽鑑賞協会」「音楽鑑賞会」「新音楽協会」「コンサート協会」などの名称の40余りの組織が存在し、会員数万人の全国的なネットワークとして、「全国労音連絡会議」が存在する。
略史
起源
起源となるのは、職場の合唱団、軽音楽団などで構成される「関西自立楽団協議会」の主唱によって1949年11月に大阪で結成された「関西勤労者音楽協議会」。結成時の会員は467人。
初代会長は宝塚歌劇団の音楽監督で労働組合委員長だった須藤五郎。「良い音楽を安く」がスローガンといわれる。第1回例会は中之島の朝日会館(1926年開館)で開催された。
組織の拡大
各地で次々と地域単位の組織が結成されていった。
1952年に発足した横浜労音は1954年には1万人を越える組織となった。
1953年、東京労音結成。
1954年、姫路労音が姫路音楽文化協会を母体に、全国で11番目の労音として発足。
1955年10月15日〜10月17日、芥川也寸志指揮・東京交響楽団の両国国際スタジアムでのあわせて4公演(東京労音主催)で、のべ4万人近くを動員した。
1955年、第1回全国労音連絡会議が開催(地域労音20、会員数13万人となる)。
1957年9月、函館労音が結成。
1959年、77労音、会員32万人、1965年には192労音、会員65万人を超す巨大組織に成長。
衰退と再生
1970年代の初頭には、大阪労音も含め、大都市の労音は衰退した。
その一方、大都市から離れた地方都市では、1000人から1800人前後を収容するような公共ホールができた1980年代以降のバブル時に初めて設立された地方組織も少なくない。
一度労音が崩壊した後にまったく別のかたちでつくられた例もある。
全体的な後退のなかでも、兵庫県西部(播磨)地域のように、1960年代の隆盛期と比べても組織を拡大させた地域もある。
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