レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

サッポロ北街ひとり日誌(8)- 故郷、母国、Heima

2013-07-05 05:00:00 | 日記
二週間ほどの滞在を終えて札幌からレイキャビクは西街の古アパートに戻ってきました。札幌滞在中は「夏日」とはとてもいえない天候で、楽をしたような残念なような。代わり映えしない天気がアイスランドで待っていてくれました。

日本へ里帰りする度にそうなのですが、もちろん成田に着いた時には「帰ってきたぞー...」という思いに駆られます。当分は文法と発音に気を遣う必要のない日々の始まり! なんとさわやかなことか! v(^_^)

ところが面白いことに、成田からアイスランドへの帰路、乗り換え地のコペンハーゲンの空港に着くと、そこでも必ず「あー、帰ってきた」という想いが湧き上がってくるのです。

こうなるとどちらへ行くにも「往路」はなく「帰路」のみです。日本への路は「故郷」「母国」への路、レイキャビクへの路は「Home」「Heima」への路、とでも言えるでしょうか?「Heima」はアイスランド語での「ホーム」「自宅」「自分のところ」といった意味の言葉です。

「故郷」は自分の生まれ育った土地のことと言っていいでしょう。「母国」は自分の出自の国ですね。これらは事実として歴史の一部になっている、と言っても差し支えない事項ですから、その意味では変わることのない事柄でしょう。

それに対して「Heima」あるいは「自分のところ」という概念は客観的な事実というよりも主観的な感情、思い入れというものが主たる要因になり得るのではないかと考えます。

例えばある日本人が事実として東京に住んでいるとしても、その当人が「仕方ないからここにいるけど、そのうち必ず出て行ってやる」と考えているとしたら、そこは「Home」にも「自分のところ」にもなり得ないでしょう。

逆に私のように、言葉で苦労するわ、生活習慣でも相変わらず不慣れなものはあるわ、にもかかわらず「ここはオレのところ」という意識で今いるところを「Heima」として生きることもできるようです。

もっとも「母国」と「Home」の違いはデリケートなものにもなり得るようで、欧州各地の移民の状況を考察する際にいつも指摘されるのが「母国less」移民の問題です。

これは特に若い移民なのですが、幼くしてホスト国に移住し、あるいはホスト国で生まれ、言葉も学び国籍も取り、自分はそこが自身の「母国」と思い始めているのに、周囲は相変わらず「お前は外国人」として同胞として受け入れてくれない。帰るべき「母国」は既に他になく「どこにも属せない」という虚無感に捕われてしまう若者が少なくないというのです。これは当人たちの問題だけではなく、むしろ周囲の社会の問題であると言えるでしょう。

「故郷」「母国」という概念は「客観的で不変のもの」と先に述べましたが、ある意味ではノスタルジックな感傷を伴うものでもありますね。この感傷は必ずしも論理的なものではないので、あまりにも感傷が強過ぎたり、現実からの逃避の方向に向いてしまうと困ったものになるかもしれません。




懐かしい「故郷」の香りをいただいただきました
福音ルーテル札幌教会北札幌礼拝所


札幌滞在中に一度教会へ出席しました。もともと私が所属していた同じ教派の教会でしたが、ちょうど私が青年の時初めて出席した教会と同じような造りのところで、何というか、独特の同じ「雰囲気」があるのですよ。これはアイスランドの教会では味わえないもので、私にとってはノスタルジックな「故郷」の一部だと感じました。

でもそれはそれ。こちらに帰ってくれば、ここには現実の仕事と責任が待っていますし、アイスランドの教会に日本の教会の面影を求めてもかないません。

二年前の震災の時とそれに続く日々では自分が日本人であることを改めて思い知りました。これは変えられるものではないなあ。それでも私の「Heima」は今はこのレイキャビクの西街ですし、こちらの教会です。ここが「オレんとこ」なのです。「オレんとこ」万歳!



応援します、若い力。Meet Iceland


コメント
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