私がアイスランドへ移ったのはもう二十五年前、いやこの四月二日で二十六年も前になります。なぜ日にちを覚えているかというと、前泊した成田のホテルで「入社式」のニュースを見たからです。
新しい門出に立っている多くの若い人たちを画面で見ながら「こっちもそうだな」と思いながらも、なぜか心重いものがあったのも覚えています。
さて、いきなり「昔はなー」的に始まりましたが、これは老人の特権ですのでご容赦。今日書きたいことはコミュンケーションの発達と、それに付随するいろいろな生活スタイルの変化のようなものです。一般論は世に満ちていますので、ここでは私の実体験バージョンに限らさせていただきます。
始めの数年は、東京の両親が月に一二度送ってくれる新聞と「ニュースステーション」などのビデオが、日本からの唯一の情報源となりました。ちなみに「ニュースステーション」は久米宏と小宮の悦ちゃんのコンビでしたから。
こういう環境では得られる情報は限られています。結果、私は90年代に日本で何があったか、誰の歌が流行ったか、どの野球選手が活躍したか、等々の知識がまったく欠如しています。ZARD坂井泉水さんさえ、亡くなって初めて知ったほどですから。(亡くなってから大ファンになりました)
もちろん私だけそのような状況にいたわけではなく、「庶民の国際コミュニケーション」一般というものはそのようなものだったのです。
No borders
Myndin er ur heimasidu No Borders Iceland
1997,8年頃から、仕事で難民申請者の人々とのコンタクトするようになってきました。その頃サポートしていた人で、クルドから来た兄弟を覚えています。クルドはイランからイラク、トルコにまで及ぶ広範なクルド人居住の土地なのですが、独立国となっていないのはご承知の通りです。
しばらくしてお兄さんの方の婚約者(この人もクルド難民)も加わったのですが、何年も家族と会えていないとのこと。ちょうどクリスマス前の時期だったので、多少のクリスマスプレゼントになるようにと、教会のビショップのオフィスの許しをもらって、クルドまで国際電話をかけさせてもらいました。
ロンドンの電話局経由だったと記憶していますが、通話できたのは十五分くらいだったと覚えています。それでも、それなりに喜んでもらえて、多少のサンタさん気分に浸りました。私が電話代を払ったんでもないのに。
その頃は難民申請者の間では、「家族と何年も連絡できていない」というのが当たり前のような定番でした。
しかし、時を経て、ネット交信が高度に発達した2016,7年ともなりますと事情は違っています。今では難民申請者といえども、相当数がスマートフォンを持っていますし、フリーWiFiを使ってスカイプだの何だので、かなり頻繁に故国の家族と連絡が取れていたりします。ただもちろん、シリアのような激戦地ではそうはいかないようですが。
さて、そのようなコミュニケーション手段の発達の中で、私自身の難民の人たちとの仕事の仕方、というよりはポリシーのようなものも再考を余儀なくされています。
昔も今も変わらないのは「強制送還」デポテーションです。これには失望感、怒り、不安、無力感というようなネガティブな感情がまつわりつきます。別に私が送還されるわけではないのですが、やはり心に重くのしかかってくる出来事です。
で、以前は、それでも一度誰かが送還されてしまったら「それでおしまい」という区切りの付け方がありました。実際に連絡が取れなくなってはどうしようもないですし、こちらもすべての問題を際限なく抱えていくことはできないので「国外へ出てしまった人に関しては、その国の人に頑張ってもらう」ということに決めていました。
ところが気がついてみると、今はFacebookなどで送還されてしまった人たちの「その後」をフォローすることが可能です。実際、私のFacebookフレンドの中には、送還された難民申請者の人が大勢いるんです。実際にいまだに連絡を取っている人も何人もいます。
十日ほど前に、私の担当している祈りの会のメンバーふたりがイタリアへ送還されました。イタリアというのは、その国がいい国かどうかという問題ではなく、難民の生活状況が著しく悪いところなのです。中東、アフリカからの玄関口になってしまっていますからね、これは仕方ないでしょう。
で、そのメンバーふたりもイタリアの路上へ放り出されることとなってしまいました。
Refugees are human beings
ふたりのうち一人は、今はミラノに滞在しているのですが、アイスランドの支援者たちが連絡を取りつつ、彼のために家を探したり、カンパを募って送金したりしています。最終的にはこちらへ呼び戻そうとしているのです。
これは「繋がっていること」がポジティブに作用している場合で、良い結果をもたらすかもしれないものです。ですが、そうではない場合もあり得ます。
昨夏に、アイスランドからやはり強制送還されたイラクの少年がありました。実際は十六歳だったのに十八だと偽っていました。彼は入国したノルウェーに送還され、そこで難民申請への拒否を受け、イラクへと本国送還になりました。
いろいろな理由があるのですが、彼がアイスランドでキリスト教に改宗したこともあり、彼は現在バグダッドの近郊に住みながら、家族から勘当されたような状態に置かれています。
この少年も時折メッセージを送ってきます。彼は英語ができないので翻訳アプリを使っていることもあり、なかなか会話を実のあるものにすることができません。結局「Please,help.Help」というような言葉の繰り返しに終わってしまうのがオチなのです。
正直言ってこれは私にとってはしんどいものがあります。私は国連職員ではありませんし、事実問題は手の届く範疇にはありません。その状況で泣きつかれても辛いのですが、それでも交信を切ってしまうと、彼にはさらに追い討ちをかけるような仕打ちになってしまいます。
というわけで、こういう場合にどのように対処すべきかを考えている最中なのです。
以前なら自然に「終了」の区切りを付けられたものが、今ではその区切りの付け方が難しくなったといいううか、ズルズルと引きずっていってしまうことができるようになってしまったわけです。
牧師というのは、医者や弁護士とも違い、相手を「クライアント」としてみることをしません(少なくとも私はしません)。ですから人間関係上で区切りをつける、というのは本当に難しくなることがあります。
とは言いながら、私は「無礼な奴」「自分の都合でしかものを考えない奴」に関してはかなり冷たく切り捨てますが... (^-^;
コミュニケーションの手段と度合いは驚くほど発展しても、根本にある「人と人との関係」のあり方には、まだまだ考える余地があるようです。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
新しい門出に立っている多くの若い人たちを画面で見ながら「こっちもそうだな」と思いながらも、なぜか心重いものがあったのも覚えています。
さて、いきなり「昔はなー」的に始まりましたが、これは老人の特権ですのでご容赦。今日書きたいことはコミュンケーションの発達と、それに付随するいろいろな生活スタイルの変化のようなものです。一般論は世に満ちていますので、ここでは私の実体験バージョンに限らさせていただきます。
始めの数年は、東京の両親が月に一二度送ってくれる新聞と「ニュースステーション」などのビデオが、日本からの唯一の情報源となりました。ちなみに「ニュースステーション」は久米宏と小宮の悦ちゃんのコンビでしたから。
こういう環境では得られる情報は限られています。結果、私は90年代に日本で何があったか、誰の歌が流行ったか、どの野球選手が活躍したか、等々の知識がまったく欠如しています。ZARD坂井泉水さんさえ、亡くなって初めて知ったほどですから。(亡くなってから大ファンになりました)
もちろん私だけそのような状況にいたわけではなく、「庶民の国際コミュニケーション」一般というものはそのようなものだったのです。
No borders
Myndin er ur heimasidu No Borders Iceland
1997,8年頃から、仕事で難民申請者の人々とのコンタクトするようになってきました。その頃サポートしていた人で、クルドから来た兄弟を覚えています。クルドはイランからイラク、トルコにまで及ぶ広範なクルド人居住の土地なのですが、独立国となっていないのはご承知の通りです。
しばらくしてお兄さんの方の婚約者(この人もクルド難民)も加わったのですが、何年も家族と会えていないとのこと。ちょうどクリスマス前の時期だったので、多少のクリスマスプレゼントになるようにと、教会のビショップのオフィスの許しをもらって、クルドまで国際電話をかけさせてもらいました。
ロンドンの電話局経由だったと記憶していますが、通話できたのは十五分くらいだったと覚えています。それでも、それなりに喜んでもらえて、多少のサンタさん気分に浸りました。私が電話代を払ったんでもないのに。
その頃は難民申請者の間では、「家族と何年も連絡できていない」というのが当たり前のような定番でした。
しかし、時を経て、ネット交信が高度に発達した2016,7年ともなりますと事情は違っています。今では難民申請者といえども、相当数がスマートフォンを持っていますし、フリーWiFiを使ってスカイプだの何だので、かなり頻繁に故国の家族と連絡が取れていたりします。ただもちろん、シリアのような激戦地ではそうはいかないようですが。
さて、そのようなコミュニケーション手段の発達の中で、私自身の難民の人たちとの仕事の仕方、というよりはポリシーのようなものも再考を余儀なくされています。
昔も今も変わらないのは「強制送還」デポテーションです。これには失望感、怒り、不安、無力感というようなネガティブな感情がまつわりつきます。別に私が送還されるわけではないのですが、やはり心に重くのしかかってくる出来事です。
で、以前は、それでも一度誰かが送還されてしまったら「それでおしまい」という区切りの付け方がありました。実際に連絡が取れなくなってはどうしようもないですし、こちらもすべての問題を際限なく抱えていくことはできないので「国外へ出てしまった人に関しては、その国の人に頑張ってもらう」ということに決めていました。
ところが気がついてみると、今はFacebookなどで送還されてしまった人たちの「その後」をフォローすることが可能です。実際、私のFacebookフレンドの中には、送還された難民申請者の人が大勢いるんです。実際にいまだに連絡を取っている人も何人もいます。
十日ほど前に、私の担当している祈りの会のメンバーふたりがイタリアへ送還されました。イタリアというのは、その国がいい国かどうかという問題ではなく、難民の生活状況が著しく悪いところなのです。中東、アフリカからの玄関口になってしまっていますからね、これは仕方ないでしょう。
で、そのメンバーふたりもイタリアの路上へ放り出されることとなってしまいました。
Refugees are human beings
ふたりのうち一人は、今はミラノに滞在しているのですが、アイスランドの支援者たちが連絡を取りつつ、彼のために家を探したり、カンパを募って送金したりしています。最終的にはこちらへ呼び戻そうとしているのです。
これは「繋がっていること」がポジティブに作用している場合で、良い結果をもたらすかもしれないものです。ですが、そうではない場合もあり得ます。
昨夏に、アイスランドからやはり強制送還されたイラクの少年がありました。実際は十六歳だったのに十八だと偽っていました。彼は入国したノルウェーに送還され、そこで難民申請への拒否を受け、イラクへと本国送還になりました。
いろいろな理由があるのですが、彼がアイスランドでキリスト教に改宗したこともあり、彼は現在バグダッドの近郊に住みながら、家族から勘当されたような状態に置かれています。
この少年も時折メッセージを送ってきます。彼は英語ができないので翻訳アプリを使っていることもあり、なかなか会話を実のあるものにすることができません。結局「Please,help.Help」というような言葉の繰り返しに終わってしまうのがオチなのです。
正直言ってこれは私にとってはしんどいものがあります。私は国連職員ではありませんし、事実問題は手の届く範疇にはありません。その状況で泣きつかれても辛いのですが、それでも交信を切ってしまうと、彼にはさらに追い討ちをかけるような仕打ちになってしまいます。
というわけで、こういう場合にどのように対処すべきかを考えている最中なのです。
以前なら自然に「終了」の区切りを付けられたものが、今ではその区切りの付け方が難しくなったといいううか、ズルズルと引きずっていってしまうことができるようになってしまったわけです。
牧師というのは、医者や弁護士とも違い、相手を「クライアント」としてみることをしません(少なくとも私はしません)。ですから人間関係上で区切りをつける、というのは本当に難しくなることがあります。
とは言いながら、私は「無礼な奴」「自分の都合でしかものを考えない奴」に関してはかなり冷たく切り捨てますが... (^-^;
コミュニケーションの手段と度合いは驚くほど発展しても、根本にある「人と人との関係」のあり方には、まだまだ考える余地があるようです。
応援します、若い力。Meet Iceland
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