レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

ルター寮とマルガレータ寮

2015-12-13 05:00:00 | 日記
さて今回は「日本一小さな大学でのホコホコ」の続きです。その「日本一小さな大学」とは、私が在学していた1986年当時の日本ルーテル神学大学のことで、そこに併設されていた日本ルーテル神学校もまことに小さな学校でした。詳しいことは前回のブログを参照してください。

前回説明しそびれましたが、この「神学校」というのは牧師になるための専門学校なのですが、どこの教会でもいい、というわけではなくて、このルーテル神大で学んで牧師になるのは日本福音ルーテルという教会と、日本ルーテル教団というふたつの教会だけです。

学部の福祉科の学生さんたちの場合はいろいろな教会から集まっていましたし、必ずしもクリスチャンでない人もいました。ですが神学校はこのふたつの教会、教団に属する生徒だけが進むものでした。

一応、念のために。私の描写は二十五年ほど前のことですので、現在とは違う点が多々あります。現在の様子は前回のブログで貼り付けたリンクを参照してください。

もうひとつ念のために。「福音」は「ふくいん」と読みますからね。(^-^;

福音ルーテルの方は略して「ニップク」とかJELC、ルーテル教団の方はNRKと呼部のが内部の人間でした。JELCはJapan Evangelical Lutheran Churchの頭文字ですが、NRKのほうは Nihon Ruteru Kyoudan の頭文字でNHKと同じ類です。

神大、神学校合わせて120—30人くらいのキャンパスだったと思うのですが、きれいなチャペルが付いている本館のすぐ隣りに、中庭を挟んで学生食堂がありました。その学生食堂を含む建物がそのまま男子寮、女子寮となっていました。

男子寮はルター寮といい建物の二、三階を占め、女子寮はマルガレータ寮といい最上階の四階でした。男子三十人、女子二十人くらいだったと思うのですが、ちょっと不確かです。

(日本の)キリスト教の大学ですから、もちろん男子寮と女子寮は分け隔てられており、夜半に男子寮生が酒瓶下げて女子寮へ、などということはできない決まりになっていました。逆もまた然り。

実際私は一度も女子寮には入ったことがありません。年に一二回、オープンハウスがあって、その時だけはお出入り自由だったのですが、別に訪ねる相手もいなかったですから。

で、私はそれまでの生涯を通じて「寮」なるものに入居したことが一度もなかったですし、どうもプライバシーのない生活のイメージが付いてしまっていたので、寮には入りたくありませんでした。

ところが牧師になるつもりで神大に入学してくる生徒(神学生と呼ばれます)は「共同生活の訓練」とかいう大義のために皆入寮するように、とのお達しが出されました。腐ったタマゴは同じカゴ、じゃなくて「大切な雛はみんなで育てる」?ということで。

で、私もめでたくルター寮生となったのでありました。




真ん中の建物、出っ張っている部分が学生食堂、その他は主に学生寮
写真はFacebook同窓会ページより転載


私の部屋は二階の隅っこで、静かな一角。部屋にはツインサイズ(けれども一人で使う)のとシングルがあり、謙虚なワタシはシングルでいい、と言いました。

ちょうど六畳くらいだったでしょうか?作り付けのベッドと本棚プラス机があり、洋服ダンスも。中で動き回るスペースはなかったですが、謙虚なワタシにとっては十分な空間でした。

勝手に安いカーペットを敷き、簡単な食器類を買い込み、ちいちゃな冷蔵庫も備え付けると、そこらのビジネスホテル並みにはなりました。結構、身の回りはきちんと整頓するタイプなんです。

で、注文しておくと例の学生食堂で夕食を食べられるのですが、一食三百五十円だったような?ただメニューは「その日のディナー」一品のみ。それが一定間隔でローテンションしてます。

これを言うのは本当に当時の寮母さんらに申し訳ないのですが、私は「三百五十円では引き合わない」と二週間でギブアップしました。そして「自分の飯は自分で作る!」と自炊を始めたのです。

実はもうひとつ理由があったのですが、その頃の私は「チョー」のつくボクシングファンで、自分でも30キロのサンドバッグ(と釣るための枠)、パンチングボール、グローブなどを持っていました。

ジムに通うほどの根性はなかったので、あくまでもボクサーではなくてファンです。それでも筋トレとかはサラリーマン時代から欠かさずにやってましたし、体重は55キロから58キロの間という、今では信じられない細さでした。

自室のドアのサイドにもトミー·ハーンズやドン·カリーのポスターを掲げてましたが、これは一種のあこがれで「ああいう体格を目指そう」的なニンジンだったわけです。

当然食べるものにも気を使い、何をどれだけ食べればいいのかを真剣に学んだことがあります。

そんなこんなで「自分の食生活は自分でコントロールしたい」という思いがありましたし、またそれとは別に料理そのものにも関心がありました。

私の部屋は廊下を隔てた向かいがトイレ、左手が共有の炊事場になっており、場所的にはとても恵まれていました。炊事場はいかにも男子寮の炊事場、という感じでしたが、きれいに整頓し、電熱器(火気厳禁)やまな板、でっかいフライパンや鍋などを購入し、これは使いたい人が使っていい的にしてあげました。

なにしろ勝手に共有の炊事場のオーナーになりましたので。こうして自炊生活が始まったのですが、これは結構その後の生活に影響しましたね。私はその後、9年間結婚していた時期もありますが、その間も家庭のメインのシェフは私でしたから。それが始まったのがルター寮です。

本当に書きたかったことは、当時の同窓の連中のことなのですが、またまた思い出話しが長くなり過ぎました。持ち越しで〜す。(*^^*)


応援します、若い力。Meet Iceland



藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is


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