先日のパリでの同時多発テロ事件は、ヨーロッパ中に大きなショックを与えたようです。もちろんアイスランドにもです。テロの余波はいろいろな形で現れています。
そうした余波の中には「確かにもっとも」という納得できるものもありますし「それは違うんじゃないのか?」と疑念を抱かざるを得ないものもあります。
いくつかをご紹介してみましょう。
まず第一に、これは日本の皆さんの中にも指摘されていた方がいたようですが、パリのテロ事件の扱い方がニュースとしても市民感情的にも、他の同類の事件と比して随分大きかったのではないか?という指摘です。
これは正確には、パリの事件への反応が大きかった、というよりはヨーロッパ外で起きている事件への関心が少なすぎるのではないか?という指摘です。私はこれは「事実そうだった」と思います。
ただ、ヨーロッパ、特に西欧ではEUだのシェンゲン協定だので、ボーダーレス政策が進められてきましたので、ある意味では「ひとつの庭」という感覚がありますので、その分は人間的に考慮しなければいけないでしょう。
しかし、それにしても、です。パリ事件の前日に起きたベイルートでの二件の爆弾テロは四十人以上の犠牲者がでているにもかかわらず、ほとんど報道されませんでした。
昨年末のパキスタンのペシャーワル学校でのテロ事件では百四十人以上の、しかも子供が大半の犠牲者がでたにもかかわらず、こちらでのニュースの扱いは「これだけ?」という感じでした。これは私が本当にそう感じたのでよく覚えています。
加えて、イラクでの自爆テロやナイジェリアのボコハラン関係の事件もおざなりにしか扱われていませんが、これは日本のネット新聞などでも同様の感がしますね。
自分の生活圏との日常の関係が薄くなるにつれて、関心が薄れるのはいたしかたないことだと思います。私自身「では、なぜパキスタンの事件を覚えているのか?」と問われたら、やはり「アジアの国の出来事でアフリカよりは近いから」と答えざるを得ない気がします。
ペシャーワルの事件以外でも、例えば去年春の韓国のフェリーの沈没事故などがあまり大きく扱われなかった時には、「蚊帳の外かよ?」と嫌な気分にさせられました。
ですから、私の関心の度合いをアフリカの人が見たら「蚊帳の外かよ?」を突きつけられるでしょうね。関心がないわけではないし、どうでもいいわけでもないのですが、やはり近いところと遠いところでは、反応に差ができてしまいます。これは人間の持つ弱さとして受け止めるしかないように思えます。
さて、パリ事件の余波ですが、もうひとつの顕著な反応はイスラム教への嫌悪です。これは今に始まったことではありませんが、ヨーロッパ中で加速したようです。アイスランドでも例外ではありません。
敢えてタイトルは載せませんが、ある反イスラムのFacebookのページは事件後急にLikeが増えましたし、反イスラムの声の大音響がありました。
イスラム教には多くの問題(人権思想や民主主義とのコンフリクト)があることは確かですが、反テロがそのまま反イスラムになってしまうことには賛成できません。
十億いる世界のイスラム教徒の中で、テロを支援する思想を持っている人の割合は非常に少ないものと推定されます。問題は国家権力や武器をあやつれる階層にテロ思想がくっついている場合です。
建築予定のレイキャビクのモスク これはデザインコンクールの中の作品のひとつ
Myndin er ur RUV.is
先週、グリムスソン·アイスランド大統領が国営放送とのインタビューの中で、近年建築予定のレイキャビクのモスクについて触れ、「サウジアラビアがモスクの建築資金の援助を申し出ている。なぜ、サウジはアイスランドの一宗教団体に関心があるのか。よくよく考える必要がある。
そのような形で、国外からテロ拠点作りを目論む勢力が入って来る可能性は現実的だ」というようなことを述べました。
大統領としては、テロが他国の出来事ではなく、ここでも起き得る可能性を十分認識して現実的になる必要がある、ということを言いたかったようです。
しかし、建築予定のモスクがテロ活動の拠点になり得る、と述べた時点で彼は現在ここに滞在するムスレムの人たちすべてが、そのテロの目論見に加担しているかのような印象を国民に与えてしまいました。
当然、あちこちで発言を疑問視する声が上がりましたし、私もネットのニュースで尋ねられましたので批判しました。大統領という立場を考慮すれば、「今、ここにいるムスレムの市民がそのようなテロ思想に加担しているわけではないが」という注釈が絶対不可欠だったことは明らかだと考えました。
パリのテロ事件の余波は、このほかにも国境警備の見直しを求める声、「ボーダーレス」の基礎となっているシェンゲン協定からの離脱を求める声、難民受け入れの拒否の声(テロリストが偽装難民になっているかもしれないから)等々となって拡がっています。
混乱する状況であることは確かですし、テロという暴力をなめてかからないことも重要でしょう。ただ、自分が立っている原則を確認し、そこから何が「悪」であり何がその「原因」であるのかを問う必要があると思います。
さもなければ、テロ事件の無実の二次被害者、三次被害者を出すことになってしまうかもしれません。そうすると、そこからまた「憎悪」がうまれてきてしまいます。めったやたらに裁きまくるのは「馬鹿」である以上に「危険」なことであることを覚えておきたいと思います。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
そうした余波の中には「確かにもっとも」という納得できるものもありますし「それは違うんじゃないのか?」と疑念を抱かざるを得ないものもあります。
いくつかをご紹介してみましょう。
まず第一に、これは日本の皆さんの中にも指摘されていた方がいたようですが、パリのテロ事件の扱い方がニュースとしても市民感情的にも、他の同類の事件と比して随分大きかったのではないか?という指摘です。
これは正確には、パリの事件への反応が大きかった、というよりはヨーロッパ外で起きている事件への関心が少なすぎるのではないか?という指摘です。私はこれは「事実そうだった」と思います。
ただ、ヨーロッパ、特に西欧ではEUだのシェンゲン協定だので、ボーダーレス政策が進められてきましたので、ある意味では「ひとつの庭」という感覚がありますので、その分は人間的に考慮しなければいけないでしょう。
しかし、それにしても、です。パリ事件の前日に起きたベイルートでの二件の爆弾テロは四十人以上の犠牲者がでているにもかかわらず、ほとんど報道されませんでした。
昨年末のパキスタンのペシャーワル学校でのテロ事件では百四十人以上の、しかも子供が大半の犠牲者がでたにもかかわらず、こちらでのニュースの扱いは「これだけ?」という感じでした。これは私が本当にそう感じたのでよく覚えています。
加えて、イラクでの自爆テロやナイジェリアのボコハラン関係の事件もおざなりにしか扱われていませんが、これは日本のネット新聞などでも同様の感がしますね。
自分の生活圏との日常の関係が薄くなるにつれて、関心が薄れるのはいたしかたないことだと思います。私自身「では、なぜパキスタンの事件を覚えているのか?」と問われたら、やはり「アジアの国の出来事でアフリカよりは近いから」と答えざるを得ない気がします。
ペシャーワルの事件以外でも、例えば去年春の韓国のフェリーの沈没事故などがあまり大きく扱われなかった時には、「蚊帳の外かよ?」と嫌な気分にさせられました。
ですから、私の関心の度合いをアフリカの人が見たら「蚊帳の外かよ?」を突きつけられるでしょうね。関心がないわけではないし、どうでもいいわけでもないのですが、やはり近いところと遠いところでは、反応に差ができてしまいます。これは人間の持つ弱さとして受け止めるしかないように思えます。
さて、パリ事件の余波ですが、もうひとつの顕著な反応はイスラム教への嫌悪です。これは今に始まったことではありませんが、ヨーロッパ中で加速したようです。アイスランドでも例外ではありません。
敢えてタイトルは載せませんが、ある反イスラムのFacebookのページは事件後急にLikeが増えましたし、反イスラムの声の大音響がありました。
イスラム教には多くの問題(人権思想や民主主義とのコンフリクト)があることは確かですが、反テロがそのまま反イスラムになってしまうことには賛成できません。
十億いる世界のイスラム教徒の中で、テロを支援する思想を持っている人の割合は非常に少ないものと推定されます。問題は国家権力や武器をあやつれる階層にテロ思想がくっついている場合です。
建築予定のレイキャビクのモスク これはデザインコンクールの中の作品のひとつ
Myndin er ur RUV.is
先週、グリムスソン·アイスランド大統領が国営放送とのインタビューの中で、近年建築予定のレイキャビクのモスクについて触れ、「サウジアラビアがモスクの建築資金の援助を申し出ている。なぜ、サウジはアイスランドの一宗教団体に関心があるのか。よくよく考える必要がある。
そのような形で、国外からテロ拠点作りを目論む勢力が入って来る可能性は現実的だ」というようなことを述べました。
大統領としては、テロが他国の出来事ではなく、ここでも起き得る可能性を十分認識して現実的になる必要がある、ということを言いたかったようです。
しかし、建築予定のモスクがテロ活動の拠点になり得る、と述べた時点で彼は現在ここに滞在するムスレムの人たちすべてが、そのテロの目論見に加担しているかのような印象を国民に与えてしまいました。
当然、あちこちで発言を疑問視する声が上がりましたし、私もネットのニュースで尋ねられましたので批判しました。大統領という立場を考慮すれば、「今、ここにいるムスレムの市民がそのようなテロ思想に加担しているわけではないが」という注釈が絶対不可欠だったことは明らかだと考えました。
パリのテロ事件の余波は、このほかにも国境警備の見直しを求める声、「ボーダーレス」の基礎となっているシェンゲン協定からの離脱を求める声、難民受け入れの拒否の声(テロリストが偽装難民になっているかもしれないから)等々となって拡がっています。
混乱する状況であることは確かですし、テロという暴力をなめてかからないことも重要でしょう。ただ、自分が立っている原則を確認し、そこから何が「悪」であり何がその「原因」であるのかを問う必要があると思います。
さもなければ、テロ事件の無実の二次被害者、三次被害者を出すことになってしまうかもしれません。そうすると、そこからまた「憎悪」がうまれてきてしまいます。めったやたらに裁きまくるのは「馬鹿」である以上に「危険」なことであることを覚えておきたいと思います。
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