レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

快適で「安全」な空の旅

2013-07-11 05:00:00 | 日記
先日のサンフランシスコでのアシアナ航空機の着陸失敗事故のニュースを見てぞっとしました。事故で亡くなられた方の遺族の方や事故に遭われた皆さんには心よりお見舞い申し上げます。

「飛行機は最初と最後の五分間が危険」ということはよく耳にしますが、私自身は能天気で離陸はともかく、着陸時には「もう着いた」とたかをくくっていることが多いのですが、実際にはやはり着陸時の事故というのはあるんですよね。

パッと思い出すだけでも、1994年の名古屋空港での中華航空機事故や四年前の成田でのFedex機が強風にあおられて着陸に失敗した事故があります。

今回の事故のアシアナ航空は質の高いサービスを提供するとして毎年上位にランクされている航空会社です。なんでも機内でマジックショーがあるとか。そういう会社の機が事故を起こしてしまうのですから、サービスの質と運行の安全と別の尺度で測らなければならないと感じます。

これはあくまでも私個人の勝手な「印象」なのですが、良いサービスで人気のある、要するにはぶりの良い会社になるにつれて事故も増えるように思われます。正確に統計を取っているわけではないので、あくまでも印象ですよ。

1980年前後はJALが五つ星を満喫していた時期だと思います。が、そのようなハイな業績が会社の管理体質にゆるみをもたらしていたのではないでしょうか?詳しくは覚えていませんが、やたらと小さな不備や事故があり、私自身(その頃はそんなに空の旅をする機会はなかったのですが)JALを避けて全日空(ANA)を撰んでいたのを覚えています。

で、その「ゆるみ」が端的に現れたのが1982年の羽田沖墜落事故(事件)であったように解釈しています。(事故のことをことさらに書きたくないので、関心のある方はご自身でグーグルしてみてください)

現在では状況が変わりANAが日本の航空会社のトップのようですね。そうなるにつれて最近ANAの飛行機に関しての小さな事故や不具合などのニュースがやたらに目につくようなのですが、気のせいでしょうか?私個人では「好業績=管理のゆるみの法則」ではないかと疑いを持っているのですが。

私自身、帰国する度に成田(もしくは羽田)-新千歳間のフライトがあります。正直言って毎回JALを現在では選ばさせていただいています。今のJALは必死なので事故に繫がるような気のゆるみもないのではなかろうかと。

今日書いていることは、別にANAをけなしてJALを持ち上げようということでは全くないのですよ。ただ、乗客の身としては飛行機は安全に飛び立って、安全に飛んで行って、安全に着陸してもらわないと困るのです。やっかいなことは、私たちは機内食がおいしいかまずいか、フライトアテンダントの方が優しいか無愛想かなどという(安全に関しての)重要度の低い点は目に見えても、機体の点検装備や乗務員の勤務条件などの重要な点については全くの「おまかせ」にせざるを得ない点です。

この点をカバーして身を守るため?の算段が「小さな事故や不具合」のニュースをある意味での安全/危険指標として用いることだと思います。ちょっと裏付けに乏しいですけどね。それでもある程度当たっていると自分では思い込んでいます。

「そんなシンパイ、馬鹿馬鹿しい」と言われるのを待っていますから、航空会社関連の皆さん、フライトの100%の安全を是非とも確保してくださいませ。
お願いします。



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ブログ当事者へのコンタクトは:nishimachihitori アット gmail.com
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天に届く?SNS

2013-07-08 05:00:00 | 日記
二週間ほど前の読売新聞のネット版に「 死後もネットを漂う故人情報 …トラブルも」という記事が出ていました。簡単に言ってしまうと、例えばブログやFacebookをやっていたある方が急逝された場合、それでもその方のブログやFacebookアカウントは自動的に閉じられることはありません。

そこで様々な問題が生じてくるようです。例えばブログだと関係のない広告や猥褻メイルが書き込まれ続けていったりして、故人の尊厳に関わることもあるようです。

遺族がきちんと要求すればアカウントは閉鎖されることもあるようですが、遺族に知らせずに故人がブログやその他のSNSに参加していることもあるようで、結果放置されてしまうものが多いとか。

また、故人のアカウントの中に一般には公開されていない写真や故人の書き込みなどがあるかもしれない、と遺族がアカウントの管理権を要求することもあるようです。

読売の記事によると、一般にSNSの提供者は利用者の死亡を想定していないことが多いらしく、規格化された対応はまだ出来上がっていないようです。読売によると: - パスワードを再発行してアカウント(利用登録)の継続利用を認める運営会社も一部あるが、「電気通信事業法の『通信の秘密』に抵触する」(ヤフー)、「家族に知られたくない可能性もある」(ミクシィ)として応じないのが大半だ- 。

さて、この亡くなった方のブログやFacebookですが、ブログはともかくFacebookは私にとってもトラブルになることがあります。私もFacebookをやっていますし、アイスランドの人が中心なのですが千の単位でのFBフレンドがいます。

正直いって直接に見知っている人の数より、Facebookでのみコンタクトがある人の方がずっと多いです。Facebookは「友だちを繫ぐ」の基本のルールなどと言っていますが、実際には「友だち」と「知人」、「全く知らないわけではない人」の区別などは曖昧ですよね。

さらにアイスランドのような「村」では「みんな知り合い」的な土壌がありますので、「友だちの友だちは友だち」の論理を使うとFBフレンドもねずみ講的に増えていき得ます。

もちろん私もFBフレンドを悪用?するようなことはしませんが、ネット上だけの関わりの人が多いので、限られた接点しかないわけです。でもせっかくのフレンドですから、毎日誕生日の人には「おめでとう」を送るようにしています。毎日10人くらいいて、結構大変ですよ、これ。

ところがです。ここで本題に戻るのですが、「誕生日おめでとう」を送った後で別のフレンドが私にメッセージを送ってよこして「トシキはXXさんにバースデイグリーティング送ってるけど、XXさんは先月亡くなったよ」。

これは本当にきまり悪くて、あわててグリーティング撤回です。教えてくれた人にも丁寧にお礼と言い訳をします。「実は直接の面識がない人で、気がつきませんでした...」でも教えてくれた人も大抵は直の面識のない人です。

これは年に二三回は起るでしょうか?最近ではお歳のいっている方の場合は、きちんとその方のウォ-ルを開けてご存命を確認するようにしていますが、六十代前後の人を確認していたらキリがなくなりますしね。困ったといえば困った点です。

でも稀にですが、亡くなった方のウォ-ルに「今日、こういうことがあったよ」的にメッセージを入れているのを見ることがあります。それはそれで胸をキュンとさせてくれるものがあります。

亡くなった方のアカウントを一律で閉じる、あるいは触れてはいけない、という対処ではなくて、一番ふさわしいと近親者が思うような形で対処できればいいのではないかな、と考えます。

人事のように書いてきましたが、気がつけばワタシも候補生でした。どうしたらいいか、今のうちに考えなきゃ...



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サッポロ北街ひとり日誌(8)- 故郷、母国、Heima

2013-07-05 05:00:00 | 日記
二週間ほどの滞在を終えて札幌からレイキャビクは西街の古アパートに戻ってきました。札幌滞在中は「夏日」とはとてもいえない天候で、楽をしたような残念なような。代わり映えしない天気がアイスランドで待っていてくれました。

日本へ里帰りする度にそうなのですが、もちろん成田に着いた時には「帰ってきたぞー...」という思いに駆られます。当分は文法と発音に気を遣う必要のない日々の始まり! なんとさわやかなことか! v(^_^)

ところが面白いことに、成田からアイスランドへの帰路、乗り換え地のコペンハーゲンの空港に着くと、そこでも必ず「あー、帰ってきた」という想いが湧き上がってくるのです。

こうなるとどちらへ行くにも「往路」はなく「帰路」のみです。日本への路は「故郷」「母国」への路、レイキャビクへの路は「Home」「Heima」への路、とでも言えるでしょうか?「Heima」はアイスランド語での「ホーム」「自宅」「自分のところ」といった意味の言葉です。

「故郷」は自分の生まれ育った土地のことと言っていいでしょう。「母国」は自分の出自の国ですね。これらは事実として歴史の一部になっている、と言っても差し支えない事項ですから、その意味では変わることのない事柄でしょう。

それに対して「Heima」あるいは「自分のところ」という概念は客観的な事実というよりも主観的な感情、思い入れというものが主たる要因になり得るのではないかと考えます。

例えばある日本人が事実として東京に住んでいるとしても、その当人が「仕方ないからここにいるけど、そのうち必ず出て行ってやる」と考えているとしたら、そこは「Home」にも「自分のところ」にもなり得ないでしょう。

逆に私のように、言葉で苦労するわ、生活習慣でも相変わらず不慣れなものはあるわ、にもかかわらず「ここはオレのところ」という意識で今いるところを「Heima」として生きることもできるようです。

もっとも「母国」と「Home」の違いはデリケートなものにもなり得るようで、欧州各地の移民の状況を考察する際にいつも指摘されるのが「母国less」移民の問題です。

これは特に若い移民なのですが、幼くしてホスト国に移住し、あるいはホスト国で生まれ、言葉も学び国籍も取り、自分はそこが自身の「母国」と思い始めているのに、周囲は相変わらず「お前は外国人」として同胞として受け入れてくれない。帰るべき「母国」は既に他になく「どこにも属せない」という虚無感に捕われてしまう若者が少なくないというのです。これは当人たちの問題だけではなく、むしろ周囲の社会の問題であると言えるでしょう。

「故郷」「母国」という概念は「客観的で不変のもの」と先に述べましたが、ある意味ではノスタルジックな感傷を伴うものでもありますね。この感傷は必ずしも論理的なものではないので、あまりにも感傷が強過ぎたり、現実からの逃避の方向に向いてしまうと困ったものになるかもしれません。




懐かしい「故郷」の香りをいただいただきました
福音ルーテル札幌教会北札幌礼拝所


札幌滞在中に一度教会へ出席しました。もともと私が所属していた同じ教派の教会でしたが、ちょうど私が青年の時初めて出席した教会と同じような造りのところで、何というか、独特の同じ「雰囲気」があるのですよ。これはアイスランドの教会では味わえないもので、私にとってはノスタルジックな「故郷」の一部だと感じました。

でもそれはそれ。こちらに帰ってくれば、ここには現実の仕事と責任が待っていますし、アイスランドの教会に日本の教会の面影を求めてもかないません。

二年前の震災の時とそれに続く日々では自分が日本人であることを改めて思い知りました。これは変えられるものではないなあ。それでも私の「Heima」は今はこのレイキャビクの西街ですし、こちらの教会です。ここが「オレんとこ」なのです。「オレんとこ」万歳!



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サッポロ北街ひとり日誌(7)- 栞子さんと櫻子さん

2013-07-03 05:00:00 | 日記
インターネットの発達した今では、アイスランドに住んでいながら日本の事情に付いていくことに関して、たった十年前に比べても月とスッポンの違いがあります。主要なニュースに付いていくことに関してはほとんど問題はないのではないでしょうか?

しかしそれでも限界はあります。帰省してみるとやはり「その場の空気」というのでしょうか?活字では伝わらない出来事の一面というものはあるなあ、と感じさせられます。ただ、日本に住んでいても東京の人は例えば九州の空気というものは分からなかったりするのではないか、と想像します。「空気」が伝わる半径というものはどのくらいなのでしょうか?

さて、空気だけではなく話題にも乗り遅れているということももちろんあります。帰省する度にそのような何かを見つけることになります。今回のサッポロ帰りでの「発見」は本に関してでした。

本はよく読む方なので、帰省の際の書店巡りは楽しみのひとつです。昨夏に帰国した際には桂木圭一郎さんの「美食カメラマン 星井裕」シリーズにはまり相当册数を買い込むはめになりました。京都舞台のこのミステリーシリーズ、アイスランドに戻ってからも京都のガイドブックを横において夏の楽しみになりました。

今回のおはまりシリーズは「ビブリオ古書堂の事件手帳」でした。作者は三上延さん。これは新春から月9のドラマにもなっていたそうですが、全く知りませんでした。やけに少女マンガっぽい表紙のイラストだったので、普段なら素通りしたはずなのですが、手に取ってしまった最新巻が江戸川乱歩に関わるものだったので、小学生の頃少年探偵団キッドだったワタシのスイッチが入ってしまいました。

これは相当面白いなあ、と思いました。若くてシャイな古本屋店主栞子(しおりこ)さん主人公の物語り。人の死なないライトミステリーですね。謎は魅力的だし、人情味もあります。ただ、すぐ読めてしまうのでもったいない気がしてしまいます。今のところ全4巻なのですが、今現在2冊を読んで、後半の2冊はまだ読まずに残してあります。




「ビブリオ古書堂の事件手帳」 おじさんにも心地良いストーリー


で、その代わりに読むものを捜し始めまして、似た作風というか、はやりのタッチというかで、岡崎琢磨さんの「珈琲店タレーランの事件簿」や太田紫織さんの「櫻子(さくらこ)さんの足下には死体が埋まっている」とかを買って読みました。いずれも「ビブリオ古書堂」と同様にメルヘンチックなイラストが表紙になっています。

買う時もそうでしたが、ワタシは地下鉄の中で読む時などもカバーをつけていないので周りから丸見え。多少恥ずかしい気がしなくもないですね。五十半ばのおじさんが読むような雰囲気ではないかも。

実際内容を見てみると「ビブリオ古書堂」「櫻子さん」のふたつでは高校生の男の子(「ビブリオ」では正確には新大卒かな。始まり時は高校生ですが)がお話しの語り手。その高校生男子が少し年上のお姉様である栞子さんと櫻子さんに憧れとときめきを抱きながら事件に巻き込まれていくわけですから、その年代が読者のターゲットなのでしょう。

そうは言ってもです。面白いのです、話しが。しかも、ワタシは読んでいく中で完璧に語り手の高校生男子に感情移入し一体化しているのです。人の記憶のフラッシュバックとは面白いものですね。五十半ばになって「最近の若いもんはわからん」などとぼやいているにもかかわらず、あるポイントではいともすみやかに17歳の少年に戻ってしまい、その頃の男の子にとっての二十歳半ばの「お姉さん」がどんなにときめく存在であるかを共時的に追体験できてしまうのですから。

これらの作品、結構笑わせてくれる場面もあり、吹き出してしまいます。地下鉄の中でおじさんがこのイラスト表紙の文庫を読みながらニタニタしていたら、周りの女子はぞっとするでしょうね。

気をつけよ。


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サッポロ北街ひとり日誌(6)- 勝手に日本食を広める ためには...?

2013-07-01 05:00:00 | 日記
「日本人が集まると食べ物の話しを始めるが、アイスランド人が集まると家の話しを始める」と言われます。これはかなり本当のことです。

アイスランド人の住居(建造物としての家と家具などのインテリアなども含む)に対するこだわりは相当なものがありますし、日本人が集まるとごくごく自然に食べ物の話題で盛り上がっています。

この時期には多くのアイスランド在住の邦人の方が夏休みで日本へ帰省されます。その中でFacebookなどをしている方々はまず例外なく日本での食卓や料理のアップの写真をアップしています。それを見ながらアイスランド残留組も喜んでいるのですから、日本人の食べ物好きは終わりがないようです。

アイスランドに限らず、北欧の文化というのは非常に粗雑に言ってしまうと「食に関心がない文化」だと私は思っています。それでも最近は他文化圏の影響を受けてか、アイスランドでは食に対する関心が高まってきているように感じます。例えば「マルチカルチュラルイベント」などで日本やタイ、フィリピンなどの国の「味見屋台」が並ぶと、間違いなくお客さんが殺到します。

アイスランドではここ十年くらい、お寿司が人気で「ニホン」といば「スシ」の感がありました。在留邦人の間では多少食傷してきている面がありまして、「日本には寿司以外にも、美味しいものはいっぱいあるぜよ~!」と言いたくなってきています。

そこで私自身もよくFacebookにカツ丼やうどんなどの日本風の手料理の写真などを載せて視野を広げてもらおうと努めています。多くのアイスランド人の(Facebook)友達が「いいネ」を付けてきますしポジティブなコメントを残してくれますので、食べてもらえる機会さえあればもっと日本食についてのバランスの取れた像を持ってもらえると思うのです。

また必ず「レシピーは?」と尋ねてくる人がいます。「日本食を勝手に広めよう運動」に加担しているワタシとしては無下にすることもできず、なるべくYoutubeとかで英語版のレシピービデオを捜して教えてあげようと努めています。

余談ですがなぜ自分でレシピーを書いてあげないのか?というと、言い訳になりますがアイスランド語でレシピーを書くというのはとてつもなく面倒くさい作業なのです。分量の単位や食材の勘定の仕方など、名詞に性があり、単数複数でも語形変化するアイスランド語では、それだけでもレシピーは複雑極まるものにります。

加えて私たちにはお馴染みの「みじん切り」「短冊切り」「ひたひたにして」「全体に油を回す」「大きく混ぜる」等々、日本語でならフィーリングフィットでよーく分かるこれらの表現、どう言えばいいのか~?

というわけで、レシピーをきちんと伝えるということは「勝手に日本食を広める運動」の壁のひとつです。

もうひとつ、壁があります。それは食材です。食材と言っても魚や肉のことではありません。昨今ではありがたいかな、スーパーでもうどん、そば、キッコーマンの醤油やみりんも売っています。しかし、悲しいかな「だし」を売っていないのです。ということは、めんつゆを作る術がないのです。

じゃあ、どうやって食べるの、そばとうどん?

かつおだし、いりこだし、こぶだしなどはどのような日本料理を作るにも不可欠なイロハだと思います。ところがこのイロハの部分がスポンと抜け落ちてしまっているのです。日本食の伝わり方に始めからボタンの掛け違いのような部分があったということでしょうね。

試行錯誤してカツ丼などを作る際にはKnorrのフィッシュブイヨンでも代用できそうなことを発見しましたが、全てに通用するわけではありません。だしがなくては日本食、先へ進めません。顆粒で十分ですから、かつおだし、いりこだし(ワタシは多用します)そしてこぶだしは入荷して欲しい!と切に願います。



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