キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

二十ン年ぶりに同窓会に行ってきました

2012年07月02日 | ☆記憶
だんだん年齢を重ねてくると、過去を振り返りたくなるようで(笑)、なんと!ずっと避けていた「同窓会」に参加してきました。
なぜ避けていたかというと、お金がかかるから(いや、ホント、マジで)。

でもそれよりも参加したい気持ちのほうが高まってきて、大枚はたいて行って来ましたよ。(同窓会費も払った)


受付の様子。
早めに行ったので、混乱ナシ。
私よりも7~8学年下の人たちが幹事としてがんばっています。

私の学年も幹事をした年があったのですが、そのころ自分の周りもがたがたしていたので、参加しませんでした(ごめんなさい)



名札に趣味やステータスを貼るシールのコーナー。
就活中とか婚活中とかもありました^^


県産品の販売コーナー。
くまモングッズも売ってました^^

驚いたのは、乾杯のとき。
ビールかな~と思ってたんですけど、いつまでたってもビールが運ばれてきません。
ホテルの人が、水の入ったグラスをたくさんお盆に載せて運んでます。

ん?
チェイサー先に配るの?
それとも水で乾杯?
まさかね・・・

と思っていましたら、そのグラスの中身は焼酎でした。
乾杯は有無を言わせず、焼酎で!

オドロイタ。



途中くまモンが登場して、県産品の紹介。
ふるさと納税を呼びかけてました!
結婚式のケーキカットシーンよろしく、最前列に陣取って写真取りまくりました。



初生くまモンです。
大感激。



2ショット写真を撮る時間もしっかりありました^^


新進気鋭のニッポン画家山本太郎氏のサイン会


漢字クイズなどのゲームもあり。



応援団の登場。
なつかしの校歌を歌いました。


最後は伝統の「げんこつ」で締めくくり。
これは卒業してからも懐かしく思い出すものだったので、うれしかった。
くまモンも登場して、一緒にげんこつしてくれたのも嬉しかった~
くまモン、さんくまー。

参加者600人以上いたそうです。
幹事の皆さんお疲れ様でした。
同級生は10人ほど参加してました。
懐かしい顔に会えたのも大満足。

また参加したいと思いました。

2歳の記憶を検証する

2012年06月18日 | ☆記憶
先週3泊4日で熊本に帰ってきました。
今回は航空券が安く取れる時期に合わせての帰省。
何か行事があるわけでもなかったので、のんびり遊べるスケジュールです。

早朝6時台に羽田を出る便にしたら、始発でもぎりぎりだと分かり焦りましたが、たまたま夫が会社のトラックを借りて帰ってきてたので、早朝送ってもらえてラッキーでした。
家からターミナルビルまで20分という近さ!

そんなわけで、熊本空港には朝8時半に到着。
父母に迎えにきてもらって、家に帰る前に行きたいところがあります。

それは、私が2歳の頃の記憶の中にある祖父母の家。
熊本空港の近くの西原村というところにあります。
2歳と9ヶ月のころ、弟が生まれるというので、当時西原村に住んでいた祖父母の家に預けられました。そのときの記憶が少しあって、以前ブログに書いたら、思いがけず叔母からその頃の情報が寄せられました。
当時祖父は「駐在さん」だったのですが、その駐在所は今でもあるという話でした。

以前の記事
2歳の記憶
2歳の記憶 その2


グーグルで調べた、西原村の駐在所のあったあたりまで行き、
酒屋の前で自動販売機に商品を入れてた女性に道を尋ねてみました。

いろいろ聞いてみると、なんと祖父母の在住時代に親しくしてくださってた方でした!!
晩年は交流がなくなっていたようですが、祖母が元気だった頃熊本市内の実家にも遊びにいらしたことがあるそうです。
しょっぱなから、ついてる!


駐在所のあった場所。
新しい道が出来て、村の中心も移転してしまったらしく、この駐在所は今年取り壊しが決まっているそうです。
とは言ってもこの建物も40年以上前の祖父母がいた頃の建物ではないそうですが。



記念に、酒屋さんでくまモン焼酎を買いました。

この酒屋さんの裏に駐在所があり、社交好きな祖母は毎日遊びに来てはおしゃべりして行ったそうです。この方の話によると、祖母の立ち寄り先にはこの酒屋さんと、八百屋さんと、もう一軒、3軒の商店があったそうで、毎日毎日、ぐるぐるまわっていたんだとか。当時50代の祖母がおしゃべりに花を咲かせていた様子が目に浮かぶようです。
私が氷やさんだと思っていた燃料店もそのメンバーだったんだろうと思います。

駐在所が分かったので、次は「ブランコ」探しです。

叔母の証言によると
家に帰りたいとぐずる私を、とりあえずバス停に連れて行き、ブランコに乗せてなだめすかして、駐在所に戻ってた。
そのブランコです。

いなかのことで、公園なども無さそうですし、
小学校かな~?
と当たりをつけて行ってみました。
小学校も駐在所の目と鼻の先にあります。

しかし・・・・その日は平日。
学校は授業中で校門は開いているものの、「関係者以外立ち入り禁止」
今は子供の安全のため、無闇に入れないんですよね。

そこまでしてブランコを見てくる必要もないな~と思い、その辺をぶらぶら。
小学校の前には、保育園と学童保育の建物があり、ちょっとした広場になってました。

なんとなく、見覚えがあるような気がする・・・・。

私の2歳の記憶の中のブランコは、ゆるくカーブした登り坂の途中、カーブがふくらんだ所に道に沿うようにして建ってたような・・・。

保育園の敷地に似た場所がありました。

「今は鉄棒しかないけど、ここにブランコがあったら、なんか記憶のイメージとぴったりなんだけどね~」
と母に話していました。

そこへ、保育園の職員のような方が通りかかったので、ちょっとブランコの事を聞いてみました。


話によると、保育園もいまは移転したそうで、今は村の子育て支援のための場所になってるそうですが、その方がたまたま昔の保育園時代のことをご存知で、

「ブランコは、今はないんですけど、前はここにこんな風に会ったような気がします」

って、話してくださった場所、私の記憶とぴったりなんですけど!
ちょっとぞわっと、鳥肌立ちましたよ。
びっくり。

やっぱりここだったんだ~~!

というわけで、今は何もない場所ですが写真写真。

中央の木の手前あたりにブランコがあったそうです。
向きも同じでした!
この写真ではフェンスがありますが、そのフェンスに沿うように建っていたそうです。

私の記憶ではフェンスなどはないのです。
昔はなかったのだと思います。


こうなったら氷やさんも見つけてみたかったですが、候補のお店も皆閉まっていて(廃業かな?)うかがうことは出来ませんでした。

でもすごい収穫でしたね。
びっくりびっくり。


くちなしの香り

2012年06月17日 | ☆記憶
今の時期はクチナシの花が咲いていますね。
梅雨の晴れ間、自転車で会社へ行った帰りの道で、ふわっとクチナシの香りが漂ってきました。
宵の口に嗅ぐクチナシの香りは、なぜか17歳の頃に連れて行ってくれます。

17歳、高校3年の今頃のことです。
高校総体も終わって、そろそろ受験勉強に本腰をいれなくちゃというころ、
丁度、住んでいたアパートの隣の空き部屋を借りることができて、家の広さが倍になりました。
受験生ということで、自分の勉強部屋をあてがってもらえました。
今思うとちょっと不思議ですが自分の部屋ではなく、純粋に勉強部屋でした。
寝る時は、元の部屋に戻って家族で川の字になって寝ていました。

その勉強部屋は真ん中にどーんと机を置いて、あとはちょっとした棚があるだけ。
殺風景な部屋だったような記憶です。
学校の道具は制服もそこにおいていました。
壁に簡単に取り付けた昔ながらの金属の棚があり、
ーーああいうたなはもういまではみかけませんがーーー
そこに、校章のピンや腕時計などをちょんと載せて、
その横に鏡をかけ、朝から髪をポニーテールにしたり、制服のネクタイを締めたりして、
弟たちと争わなくても朝の支度が自分のペースでできるのが嬉しかったものです。


ある日、その棚の上にクチナシの花が飾られることになりました。
父が持って帰ってきて、私にくれたのです。
多分、落ちていたのをひろったかなにかでしょう、枝もついてなくて花だけの白い八重のクチナシでした。
父から花をもらうというのは、滅多にないことです。
そしてそれが、私にとって初めてのクチナシという花とのの出会いでした。

一輪挿しとかそんな気の利いたものはないので、
当時我が家でちょっと人気だった、はごろも缶詰の蜜豆の小振りの空き缶にいけることにしました。

それからしばらくの間、部屋中にあの独特の芳香がたちこめていました。
私は受験勉強をしながら、クチナシの香りを覚えました。



ふしぎですね。
クチナシの香りなんて、毎年かいでいるはずなのに。
夜に香りが漂ってくると、あの蜜豆の空き缶にいけられていたあの時の情景が真っ先に思いうかびます。




将来庭を持つことができたら植えたい木が何種類かあります。

まず、沈丁花、そして梅、クチナシ、キンモクセイ。
季節ごとに香りを楽しめる花を咲かせる木です。
香りは記憶と直結するんですよね。
金木犀の香りは、トイレとかいう人もいますが、私にとっては運動会。
でも、その香りを実際今かいでないから、ディテールは、クチナシほど思い出せない。

金木犀の話はまた10月にでも。


2歳の記憶 その3

2012年02月27日 | ☆記憶
さて、先日「2歳の記憶」についての記事を書きましたが、
いきなり当時のことを知る人物(叔母)から連絡がありびっくりしました。

どうも、熊本に帰省していた叔母が私の両親から、このブログのことを聞き、コメントを寄せてくれたようなんです。
嬉しいサプライズでした。


それで分かったのは、
私の記憶の中にある「氷やさん」と言うのがガソリンスタンドで、今もそこで食料品店を営んでいること。
氷も売ってたのかもしれないが、私の記憶に印象深いのは、その店で「かき氷」を食べさせてもらったかららしいこと。
しかもそのかき氷は、売り物でなくお店の人の家庭用だったらしいこと。
多分、子供がきたからお店の人がご馳走してくれたのでしょう。
そして、そのかき氷が気に入った私は、毎日「食べたい」と祖母を困らせていたらしいこと。(そりゃぁ、売り物ならともかく、自宅用のものを毎日たべたいって言っても無理な話ですネ)
バス停の近くのブランコは小学校のものらしいこと。

お父母の家に犬がいた?らしいこと。
全く記憶にないです。
私、小さい頃は犬が恐くて仕方なかったんです。というのも幼稚園ころだったか、友達の家に飼ってる犬に追いかけられて(犬はじゃれてるだけだったのかも)それがトラウマになってました。
2歳の頃ならその前だから平気だったのかな?

叔母は熊本市内で仕事をしていたため、祖父母の家には同居してなかったそうですが、週末になるとバスに乗って、祖父母の家に帰っていってたらしいです。
それで、その頃の私の様子も覚えていたそうです。

当時私の両親は弟の出産で大変だったでしょうから、このおばの話は貴重な証言となりました。

ありがとうございます~。
その村は阿蘇の方なので、今度帰省の折にはちょっとたずねて行ってみようかな。



2歳の記憶 その2

2012年02月24日 | ☆記憶
先日一番古い記憶として、弟が生まれた2歳の頃に祖父母の家に預けられた話を記事にしました。

さて、昨日の夕食時、
「今度、うちの工場にある会社が見学に来るんだけど、調べてみたら熊本の会社なんだね。」と夫の話。
ipadでその会社のホームページを見せてもらう。

へ~、あれ、この本社ってけっこう田舎にあるのね。
ホームページ上の「地図を見る」ボタンをクリックしてみる。
(三度の飯より地図が好きなもので・・・^^;)

うわっ!
この会社、ワタシが2歳のときに預けられたところにあるっ。
○○小学校の目の前だ。

なんて話を夫にする。

「おじいさんの家はドコにあったの?」

それは記憶にないけど、駐在所にいたはずだから。
まてよ、今でも駐在所ってあるのかな?

「そういうのは、そうそうなくならないんじゃないの?」

そっか、と思って調べてみると、その会社から徒歩1分もかからない所に、駐在所の表示を発見。
めちゃくちゃ近所ダ。

工場見学に来る人が本社からの人なら、お話聞いてみてもらおうかな?

今もバス停はあるのかな?
バス停の近くのブランコとか。
40年前にあった氷屋さんとか。
そんなうまくは進まないか・・・。

2歳の記憶

2012年01月25日 | ☆記憶
私の一番古い記憶は2歳9ヶ月ごろ、弟が生まれたときのものです。
そういうイベントがあったので、いつの記憶だとちゃんと分かるわけです。

父方の祖父母の家に預けられ、何となく寂しかった日々の風景です。

一人で預けられていたので、両親も知らないし、写真も残ってないので、まさに子供の記憶だと思います。


●街の中心にあったバス停の近くのブランコ。

●氷屋さん

その景色が古い映画のように頭の中に蘇ります。
でもきっと、実際の景色は私に頭にあるものと違ってるんでしょうけど。



どの位の期間預けられていたのかな?

氷やさんって何だろう?

田舎に住んでいたこともあり、その記憶の他は氷屋さんなんて知らない。
もしかして氷屋さんジャナイノカナ?




皆さんの一番古い記憶ってどんなものですか?


高校の同窓会

2011年11月06日 | ☆記憶
私は熊本の高校を卒業したのですが、同級生の多くが上京しこちらに住んでいるようです。
昨日、同期会があり、実に卒業以来初めてというくらい久しぶりに参加して来ました。

正式な同窓会ではなく、数人規模で集まろうというような話から広まった会だったので、連絡の取れる人だけに声をかけたようですが、それでも36人集まりました。全学年で450人いたのだから多くはないかもしれませんが、それでも参加者のほとんどが私にとっては卒業以来初めて会う人ばかりで懐かしかった!それと、仲がよかったのに連絡先がわからなくなって何年も音信不通だった友達にも再会できてとてもうれしかった!(つねちゃんですよ~)

みんな各界で活躍中という感じで立派になってましたが、それぞれ精神的にも大人になっていて、とても気持ちのよい会でした。30年近くたってるんだから無理もないですね。


またこういう機会があったらどんどん参加したいと思いました。

子供の遊び 紫カタバミのすもう

2011年10月28日 | ☆記憶
三つ葉の葉っぱで、小さなかわいいピンクの花を咲かせる雑草。
調べてみたら「ムラサキカタバミ」というのだそうです。
幼稚園や学校の帰り道、よく道端に生えていて、
それをとっては、草相撲をしました。

これが「ムラサキカタバミ」です。



ぴーっと。




これも調べたら、まとめているサイトがありました。

   ↓↓↓↓


http://www.kobe-c.ed.jp/shimin/shiraiwa/katabami/ktbm5.html

子供の遊び マサキの刀

2011年10月27日 | ☆記憶
子供の頃にものすごく田舎に住んでいました。
山に囲まれた場所だったし、周りに子供も少なかったので、
よく植物を相手に遊んでいました。

時々、散歩中などになつかしい草を見つけて
「これ子供の頃に遊んだよね~?」
などと、夫に言ってみるのですが、
町場で育った夫は、まず知りません。
私より年上なのに。
育った環境で遊びって違うものなんですね。
少しずつそんな遊びを思い出したら書いていこうと思います。



「マサキの刀」

生垣などでよく見かけるまさきの枝を使って刀を作るあそびです。
うまくできるかどうかは、微妙な加減にコツがありかなり熱中した遊びでした。
今じゃ、マサキを見かけても他人様の生垣ではちぎることもできませんね。

同じようなことをブログに書いてる人がいました。

   ↓↓↓↓


http://plaza.rakuten.co.jp/DrakesGalley2/diary/200805120000/

中学時代

2009年12月19日 | ☆記憶
今にして思うと、これまでの人生でいちばん「徹底的」だった時期。
新しい情報がいっぱいで、とっても新鮮で。
でも、田舎だったし、インターネットもないし、情報には限りがあったから、手に入るだけどんどん吸収したいと思ったんだろうな~と思います。
知らないことを知るのが面白くてしょうがなかった。


●クラシック音楽を聴きまくった。
●洋楽も聴きまくった。
~~お金ないからぜんぶラジオでね。
  平日8時のNHKクラシックアワーは欠かさずエアチェックして。
  音楽の時間の曲目あてテストに燃えてた。
  洋楽も聴き始めたばかりで、自分の好みなどはなく、ひたすら何でも聴いた時期。

●漫画読みまくった。
~~休日のたびに立ち読みOKの本屋のはしごで1日何冊も読んだ。
  友達と貸し借りもよくしたなぁ~。
  当時有名だった少女マンガは粗方読んだと思います。
  LALAが愛読誌でした

●国の名前を覚えて、友達と二人休み時間にどっちがたくさん言えるか競い合った。
この友達とは、クラシック音楽のテープの貸し借り、漫画の貸し借り、いろいろしたな~。夏休みの自由研究も一緒にやった。
卒業以来会ってない。
どこでどうしてるのだろう?

●シャーロックホームズを読み漁り、シャーロッキアンの書いた研究本も手に入るだけかたっぱしから読んだ。
これは、高校~大学まで延々続きました。
大学生のときに、シャーロックホームズ誕生100周年とかでやたら関連図書が発売になったので、なが~く夢中になった。

●部活もがんばってたよ。
 テニス部でキャプテンだった。
 でも下手だったけどね~。

中学校の卒業式の日

2009年12月18日 | ☆記憶
中学のことを書いたので、ひとつ思い出したことを。

中学の卒業式の日。
あのころは「第2ボタンがどうだこうだ」と盛り上がっていたので、そういう浮かれた気持ちもあったような気もしますが、今でも鮮明に覚えていることがあります。

それは、お世話になった先生に贈呈するための花束を買いに行った、学校の近くの花屋さんでのこと。
確か20代くらいの店員さんが対応してくれました。

「中学生?今日が卒業式なの?
 そうなの~。
 いい時期だよねぇ~。
 おねーさんもね中学のときが一番楽しかったのよ。
 今思い出してもね。」

なんて話をしながら、花束をこしらえてくれました。


そのときの私は、中学生活が終わることにたいして感慨はなく、
中学生活ってそんなに楽しかったっけ?そうでもないなぁ~。
などと思っていました。

学校生活を楽しいと味わいながら過ごすことができるようになるのは高校からで、中学のときは、勉強も部活動も友達関係も、とにかく目の前のことにただ振り回される!という状況だったのだと思います。
生活を味わう精神的な余裕がまだ育ってなかったのかもしれませんね。


今この歳になって振り返るなら、確かにいい時代だったと思えるんですけどね。


中学のクラスメイト

2009年12月18日 | ☆記憶
今年は大学の同期会があり、ずいぶん懐かしい人々との再会があった。
で、今度は中学のクラス会の話が持ち上がっている。

これこそ、卒業以来ほとんど会ってない。
判別不可能かも。
発起人になってがんばってくれてる人がいて、話が具体的になってきた。
まだ、10人分のリストもできていないけど、一人つながり、二人つながり、だんだんメンバーが増えてる。

私自身は、中学からずーっと今まで連絡を取り合っているのは(年賀状だけとかも含めて)2人だけ。
地元に帰って友達に会うことも全くない。

同級生たちもいろいろで、地元にずっといる人たちもいるし、ちりじりになってる人もいる。
みんなどこでどうしているのか。

再会が楽しみ。
担任の先生が既に亡くなられているのが残念だけど。

20年前の恩師に再会

2009年10月12日 | ☆記憶
20年前の3学期のこと、私は就職も何とか決まり、後は卒業をするばかりとなっておりました。
が!
あまりに不真面目な学生だったため、卒業単位が足りない!
特に、4年まで履修しなくてはならなかった「体育」は出席日数が明らかに足りない!

どうしよう~。

でも就職も決まってるし、なんとしてでも卒業したい・・。

というわけで、決行しました。
体育の先生の研究室へ行き、拝み倒す戦法。

「せんせ~い、出席日数が足りないのはわかってるんですが・・・。
 もう就職も決まってるんです。
 なんとか卒業させて下さいっ!!」

優しい先生(陸上の先生でした)は、じゃあ、レポートを書いてきなさい。
と温情をかけてくれました。
体育専攻の友人に本を借りて何とかレポートを仕上げ、
単位をもらいました。

おかげで、めでたく卒業することができました。


じつは、これと同様のことをあと1科目でもやってます。
(これも一般科目の他学の先生の授業)

こんな調子だったので、卒業から20年もたつ今でも、
何かプレッシャーがあると、きまって「単位が足りない夢」を見てしまいます。



さて、昨日の母校でのホームカミングデー。
なんと会の司会をしていたのが、その先生でした!

わ!わ!わ!わ!

先生は覚えていないだろうけど、やっぱりご挨拶してこなくちゃ!
と思って、先生に話しかけました。
20年ぶり。

私の顔を見るなり「あっ!」とおっしゃるではありませんか!

「先生に20年前救って頂いた者です」とご挨拶すると・・・

「おぼえてるよ~」との事。

きゃー!
覚えていらっしゃるのですか?!
それはマズイ・・。
大体、ろくに授業に出てなかった学生なのに・・・。

話を聞けば、私のように「何とか単位下さい」と頼みに来る学生が2年に1人くらいいたとの事。
20年で10人・・・
それじゃぁ覚えていると言う話も無理ないですね。

この話で、自分のダメダメさを再確認。
「それでも、先生に卒業させていただいたおかげで、なんとか社会の片隅でまじめに生きております」とご報告いたしました。

ホームカミングデーでは、副学長や講演会の理事の方、サークルが同じだった友人など、いろいろな方とお話をして、再会を喜びました(みんな私を覚えていてくれた!)。
自分の専攻のところばかりでなく、多方面に知り合いがいると言うのは、不真面目な学生だったとはいっても、学生生活が多彩に充実していたということかなと思います。

学生生活に感謝。
こういう学校へ出してくれた両親に感謝です。

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(順不同)地図、河岸段丘、保存樹木、宮本常一、縄文時代と日本の古代、文明開化と江戸時代、地方語、水曜どうでしょう、シャーロック・ホームズ、SHERLOCK(BBC)、陳昇、John Mellencamp、Kate Bush、イ・スンファン、カンサネ、1997年以前の香港映画、B級コメディー映画、SNL、The Blues Brothers、台湾、旅行の計画、イタリア、エステ、宮部みゆき、ショスタコーヴィチの交響曲5番、森川久美、のだめカンタービレ、くまモン
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