キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

母校から招待された『ホームカミング・デー』

2009年10月11日 | ☆記憶
秋晴れのなか、同窓生数人と誘い合わせ母校主催の『ホームカミングデー』なるものに参加してきました。
卒業から20年たつ卒業生を招待して、大学のPRを行い、母校とのつながりを深めてもらうと言うのが趣旨のようです。
最近は就職も大変な時代ですしね。

天気もよく、ちょうど学園祭も開催されていました。

私たちが在学していたころに比べ、どこもかしこも木が大きくなっていることにびっくり。年月を感じました。
また、学生の垢抜けていること!
東京の若者たちと変わらない。時代か・・・交通も便利になったし。
それに学園祭に人が多い。これも周辺の宅地開発で人口が増加しているせいなのでしょうね。



大学も法人になったり、組織が大きく変わったりしているようですが、土地の持つ空気は変わってませんでした。
20年もたつと、辛かったことや嫌だったことは忘れてしまうものですね。
良い思い出だけがどんどん頭に浮かび上がり、とても楽しい一日でした。




ホームカミングデー参加(2時間くらい)
学園祭見物(2時間くらい)
24年前にクラスで撮影して学園祭で上映した映画の再上映(なんと私が主演女優をしています)
学校周辺の居酒屋で打ち上げ



家に帰ってきたのは終電でした。

同級生たちと久しぶりに一日ゆっく一緒に過ごす中で、自分の性格や人からどう見られているかとか、そんなことが確認できました。

衝撃的だったのは、夏休みの宿題の話。
飲み会で最後まで残った6人のうち、『夏休みの宿題を最後の日まで残し、結局全部できない」と言うタイプは2人で、私は少数派なのだとわかりました。
ほとんどの人が残すと思ってた...。


ホームカミングデーでは恩師にも再会できました。
その話も衝撃的だったのですが、その話はまた後で・・。

同窓会へいってきました。

2009年09月23日 | ☆記憶
昨夜は卒業20年を記念する(?)同窓会でした。
全国に散らばっている同級生が九州や北海道からも駆けつけてくれ、
一学年86名の中で半数を超える出席があり、恩師もお見えになり、盛会でした。

こんなに集まれるのは、「あのころ」を大事に思っている人たちがこれだけ多いってことなのでしょう。
同じ思いを共有できてる!その実感が幸福感をもたらしてくれました。



前回の同窓会は15年前だったので、ほとんどの人が15年ぶり。

でもみんなほとんど変わってなかった。
オドロキ。


男性はおなかも出て髪も薄くなって・・・
と思っていたのですが、やたらスマートな人が多かった。
髪もあるし・・!

女性はほとんど変わってなかった。
変化は、これから来るのかもしれません(恐)



それと、二次会まで参加しても、たばこを吸う人がほとんどいなかったのもオドロキ。
学生時代には吸ってた人もやめたのかな。
宴会に参加して、タバコ臭くならずに帰宅できるのは気分のよいものです。



先生のお話。先生も79歳なのだそう。
いつまでもお元気でご活躍をお祈りしております。


みなが個性的。
まとまりがなさそうでまとまりのある人たち。


一番上の写真は、学生時代の懐かしいものを展示するコーナー。
入学案内から、入試問題、学生証などなど、25年ほど前の貴重な(笑)資料です。





私は、みなから「変わってないね~」とは言われたのですが、
なぜか「背が高くなった?」と何人もから聞かれました。
確かに20代以降もちょっと伸びたんだけど、わかるものでしょうか?


今年は、古い友人との再会が続いています。
来た道を振り返って、しっかり足元を見つめなおし、未来の進むべき道を見極める時期なのかもしれません。


4年ぶり~★同級生に会いました。

2009年08月09日 | ☆記憶
小中高と一緒だった友達に4年ぶりくらいに会いました。
(上の写真は期間限定でアップ中)

彼女は今海外で仕事をしているので、めったに会えないのだけど、久しぶりに時間が合って、食事できて楽しかった。

日本と海外と仕事を交互にしてきた彼女、10年位前に独立して地元でオフィスを構えていたのだけど、4年前に、「やっぱり日本を出て仕事をしていきたい」と、旅立っていきました。
その時点では、仕事が決まっているわけでもなく、向こうに渡ってから就職活動するという話で、行動力があるな~。
感心しきりの私でした。


その後、あまり詳しく話を聞いていなかったので、今回は根掘り葉掘り。


とはいっても、「朝ごはんどうしてるの?」「昼ごはんは?」「何時まで仕事してるの?」とか、実にプリミティブな質問ばかりを浴びせかけてしまった(笑)


仕事も軌道に乗っているみたいで、このまま行くとあっちに永住ってことになるようです。
パワーあるな~。



昔なじみに会うと、元気になれる。
会えばすぐに、会わなかった時間の空白が埋まる。
やっぱり友達っていいな。

これからも、彼女の活躍を信じ、また、応援したいと思います。



こんなものまで食べてしまった~。
ダイエットも忘れさせてしまう。
再会のパワー(って、こじつけですね)

プールの思い出

2009年08月03日 | ☆記憶
今朝のヤフーニュースにこんな記事がありました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090803-00000507-san-soci

学校の授業だけでは泳げない子供たちが増えているんだそうです。
ちょっとびっくりしました。

女子の半数が「カナヅチ」の中学もあるとか。
東京都内らしいですが、プールのない学校なのかな?


運動は体力づくりやチームワークを学ぶなど、いろいろな意味があるでしょうが、水泳は、命にかかわる技能なので、できればみんなに泳げるようになってほしいですね。



さて、その昔、私の入学した小学校には、プールがありませんでした。

それでも水泳の授業はありました。

洗面器を家から持参し、水を張って顔をつけ、「ぶくぶくぶくぶく」する練習。
(かわいいでしょ?)

それと、年に一度だけ、バスを仕立てて町のプールのある小学校まで行っての実地練習。

上級生になると、川で泳ぐ授業があったそうですが、低学年はさすがに危ないからか、川での授業はありませんでした。


この授業内容では、泳げるようになるのは難しそうですが、夏休みに川に遊びに行って、友達と遊んでいるうちに少しは泳げるようになったようです。
川で泳ぐとはいっても、ちゃんと地域ごとに遊泳区域が決まっており、竹で囲ってありました。
父兄の人たちが交代で監視に出てくれていて、こどもたちは、かまぼこ板の「命札」(というそうです。ネットで知りました)を持って泳ぎに行ってました。


10歳の夏、プールのある町の学校に転校しました。
同級生は1年生からプールの授業を受けているので、泳げない子はほとんどいませんでした。
私は息継ぎなどがヘタで、25メートル泳げなかったので、恥ずかしかった記憶があります。

友達に追いつくため、夏休みのプール開放で友達に教えてもらったり、テレビで研究したりして自主トレしてました。


余談ですが、村の学校と町の学校の違いを痛切に感じたのが、このプールの授業と音楽の授業でした。
町の学校にはいっぱい楽器があって、同級生たちが器用に弾くのがまぶしかったものです。(負けたくないので、自主トレしました~)



そんなわけで、水泳には少なからずコンプレックスを持っていた私ですが、中学を出て高校へ入る頃には、なんとか人並みに泳げるようになっていました。


私の通った高校には50mプールがあり、卒業するまでに生徒を全員泳げるようにするという校風でした。
県下のいろいろな中学から生徒が集まるので、かつての私のように、学校にプールなかった、という同級生もいました。

夏休みの前になると、水泳の授業でテストがあります。
クロール、平泳ぎそれぞれ50メートルを制限タイム以内に泳ぐというものです。

これに合格しないと、夏休み前の短縮授業中に毎日水泳の特訓を受けなくてはならなくなります。
今から思うと、親切な制度だったと思いますが、泳げない人にとっては地獄の特訓です。

これが、毎年夏になると繰り返されます。


そのため、1年の時には泳げなかった人も、だんだんと泳げるようになったのではないかと思います。




プールがあれば、みんな泳げるようになるのにな~と思っていました。
私の入学した小学校も、私の転校後数年したら立派なプールができました。

こうやって、教育環境は整ってきているし、昔と違ってスイミングスクールも増えていて、通わせてる人も多い印象だったのですが、むしろ泳げない子供が増えているのですね。

せっかく学校にプールがあるのに、もったいないですね。
ちゃんと使えばいいのに。
夏休みのプールの開放もないのかしら??



ところで、大学の水泳の授業では、フォームのビデオ撮影や、素もぐり、フィンを使う練習、高飛び込み、水球などいろいろなユニークなものがありましたが、一番役に立ってるのは、立ち泳ぎの習得です。

立ち泳ぎができるようになったおかげで、海でもおぼれない自信がつきました。
立ち泳ぎこそ、子供のうちに教えといたほうがいいかもしれませんね。

中学の同級生にウン十年ぶりに再会

2009年03月04日 | ☆記憶
中学卒業以来一度も会っていなかった同級生に再会しました。

私は、中学時代の同級生(ほとんどの小学校の同級生もかぶってる)と
卒業以来ほとんど連絡を取っていなくて、今も会うのは一人だけ。
というちょっと寂しい状況になってるのですが、
「ゆびとま!」のおかげで再会することができました。


卒業写真を持ってきてくれたので、久しぶりに見ました。
(私の卒業アルバムは実家に置きっぱなし)
半分くらいは顔と名前が一致しなくなってました。
ほんとに遠い昔です。
でも鮮明に覚えていることもあって、それはまるで昨日のことのような感じ。


期待していた以上にすばらしい再会でした。
20数年ぶりに(おっといけない年がばれる・・・笑)会うクラスメートが、いきなり今の自分と同じ年齢になって登場するって、ドラマチックです。

いい人生を歩いてきたんだな~
しっかり生きてるな~
と、とても刺激を受けました。

ほかのクラスメイトにも会ってみたい。
次回の帰省時にでも実現したら楽しいだろうな~。

羽魚 ~魚の話~

2008年08月01日 | ☆記憶
みなさんは「ハイオ(羽魚)」という魚をご存知でしょうか?

お刺身なんかになってて、木の年輪みたいな筋が大きく入ってて、
ちょっとバサバサしてる。
白身の魚です。

思えば、「ハイオ」って東京で見ないな~。
もう何年も口にしていない。


熊本にいたころ、よく晩御飯に出てきた「太刀魚」も、こっちではちょっと高級な扱いだったり、
「きびなご」も、売ってないことはないけど、めったに見ないし。

熊本では完全なる大衆魚だった「このしろ」(小骨が多くて子供心に苦手な魚だった)にいたっては、東京には全く売ってない。
(東京の「コハダ」が「このしろ」に当たるらしいけど、大きさが違う。)


地方で魚の流通ってこんなに違うのね~。


と思っていましたが、

「忘れられた日本人」を読んでいて、あっ!と思いました。

対馬の漁師さんの話の中で、

「ハイオ(カジキマグロ)」 という言葉が登場したのです。

え?
ハイオ(羽魚)って、カジキマグロのことだったの??
知らなかった~。




ネットで検索したら、熊本の話題ばかり出てきた。
「ハイオ」というのは、熊本限定の言葉なのかしら?

熊本の魚屋さんのブログの記事です。
これによると、おいしい「トロ」みたいなハイオもあるそうです。
     ↓
http://tasaki484.otemo-yan.net/e62845.html


●メモ●
このしろは出世魚だそう。
コハダが、このしろになるそうです。
だから、このしろのほうが大きくて当然なのですね。

西日本でよくとれるらしいですが、有明海の有数の漁場で20年位前までは、ばんばん捕れてたそうです。
傷みが早いので、遠くの地方にまで流通することが少なかったらしい。
だから、子供のころ、熊本であんなに食べた、このしろが、東京にはないのですね。
納得。
学名:Konosirus punctatus
このしろですね。

笠戸丸から100年

2008年04月14日 | ☆記憶
第1回目のブラジル移民から100年なのだそうです。
私がブラジル移民の勉強していたときは、80周年っていってたのに・・・・。
時のたつのはおそろしいですね~笑。

この写真展、横浜のJICA海外移住資料館で6/29まで開催中だそうです。

ぜひ行って来たいです。




ところで、引越しは5月6日に決定しました。
5月9日は会社の飲み会。
11~12日は両親と温泉旅行。
おそらく、引越し後1ヶ月くらいはダンボールに埋もれて生活してることでしょう。
6月になったら遊びに来てください。


荒瀬ダム

2008年01月27日 | ☆記憶
一番小さい頃の記憶。
わたしの場合は、2歳の記憶です。
弟が生まれる頃に、父の実家へ預けられていて、そこの風景が思い出されるのです。
だとすると、それは2歳8ヶ月か9ヶ月の頃の事になります。

父の実家に行ったのがそのときだけって事もないでしょうから、
他の記憶が混じってるのかもしれません。

その後の3歳の記憶などは、テンコもりです。
はじめて幼稚園に行った日の事とか。(三年保育でした)

さて、それはさておき、この写真、私が1歳5ヶ月の頃のものだそうです。
近所にあった公園で、後ろに見えるのはダムです。
生まれてから小学3年のときまで10年ほど住みました。
とても愛着があり、そこで起こったいろいろな事を覚えておきたいと思っています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E7%80%AC%E3%83%80%E3%83%A0

田舎にあったので、いろいろ不自由で、今住めといわれたら絶対無理なんですが。


歩いていけるところに店が無い。(その頃家に車無かった)
買い物どうしていたのかな?
私の記憶では、軽トラックに食料品をつんで売りに来る「マーケット」(と呼んでいた)が来てました。軽トラの荷台に上手に棚が作ってあって、肉や魚、野菜、納豆や豆腐なんかも売ってた覚えが・・。

駅の売店に売ってる雑誌「小学1年生」とかを父がバイク(単車と呼んでた)で取りに行ってくれていました。
この雑誌もしかして注文していたのかもしれませんね。
(駅のキオスクに「小学一年生」とか売ってるのは変ですね)




テレビが写らない。
NHKは写ってましたが、そのほかの民放の写りが悪く、砂嵐の中、マグマ大使とかをみていたような(これは後年、どこかの山にアンテナが立って解消されました)

電話が無い
これも今は解消されているでしょう。
(あのころ過渡期だったんですよね)

住民が少なくて、友達がいない。
近所に子供が少なかった。
でも全然いないと言う事ではないので、まぁ何とかなりました。


これに対していいところは、
自然が一杯。
おかげで、蛇もいっぱいで、これには閉口しますが。
(いまあそこに住めない一番の理由はこれかも)

よく山で遊んでいました。
春の蕨とりは親と一緒に。そのほかの季節は、子供だけで。
わらびとりはとても楽しいものでした。
何しろ、取ったら食べられるんですもんね。
ただの遊びとは訳が違います。

春は、裏山、もっと奥の山、川向こうの山・・と場所を変えて蕨とりをしました。
でも蛇が出ると、その日の蕨とりは終了です。
「ぎゃーっ!」と一目散に駆け下りて、もうその日はその場所には近寄れません。

子供の頃は蛇が出るまでは、平気で蕨探しができましたが、
いまは、「へびがでるかも」と思うだけで、山に入れない気がします。
それにしても何であんなに蛇がいたんでしょうかね?

あと、これは、季節を覚えていないのですが、父となにかの用事でなのか、単に遊びだったのか、いつもは行かない遠くの山まで上った事がありました。
父が「猪が出る」と脅かすので、怖がりながら山道を歩いて・・・

途中でスモモみたいな木の実がなっていて、
ん?
スモモのなる季節は夏ですね。
ということは、この山登りは夏の出来事か。


で、とにかくそのスモモを見つけた父は
「三太郎だ。持って帰ろう」と、もぎ始め、家に持って帰った・・・はず。
わたしはそこで「三太郎」と言う果物を知ったのでした。


そのすももが三太郎と言う品種だったかは、定かではありません。
「サンタローザ」とも言うようですね。
大石プラムやソルダムとならび好きな果物です。
沢山食べるとおなか、壊しそうですが。


今は東京と言う大都会の暮らしがすっかり気に入っているのですが、
子供の頃にあの体験が出来た事は、とてもよかったと思っています。

http://blog.goo.ne.jp/travel_diary/e/906eed119513dda0a2a2f07770217d35

SLの思い出

2005年12月04日 | ☆記憶


美容にも関係ないし、どうでもいい話なのですが・・・

子供の頃、家の近くにはSLが走っていました。

今、同年代の友人たちにこの話をすると、ほとんどの人が
「ありえない。子供の頃にSLなんてもう走っていなかった」といいます。

おそらく、地域によるのでしょうね。
(今だって、復刻のSL走ってるところもあるわけですし。)
子供の頃は、九州の山奥に住んでいたので、まだSLが現役ったのだと思います。


その頃住んでいた家は、山の斜面にあり、目の前は大きな川が流れていました。
川向こうに線路があり、もくもくと煙を吐きながら真っ黒な機関車が走っていたと思います。
ちょうど、家の正面にトンネルがありました。
機関車はトンネルにさしかかるとき「ぷおぉ~っ」と大きな汽笛を鳴らしていきます。
子供だった私は、その音がなぜかとっても怖くて、機関車が見えると音がしないうちに家の裏に逃げ込んだものでした。
その記憶がとても鮮明なので、蒸気機関車が走っていたと確信してるのです。



気になってきましたので、いろいろ検索して調べてみました。
で、わかりました。
私の家の前の線路を走っていた蒸気機関車は「D51」
そして、その路線から蒸気機関車が姿を消したのは、私が6歳のときでした。

おそらく、その以前からディーゼル機関車とD51の両方が走っていたと思われます。
そしてどんどん、ディーゼル車の割合が増えて行ったのではないでしょうか?

ディーゼル機関車が登場したときのことも何となく覚えています。
オレンジ色で、変な形で、「カニみたいだ」と思いました。
そのディーゼル機関車も、ほとんど見ることが無くなりましたね。

YOKOの好きなもの羅列

(順不同)地図、河岸段丘、保存樹木、宮本常一、縄文時代と日本の古代、文明開化と江戸時代、地方語、水曜どうでしょう、シャーロック・ホームズ、SHERLOCK(BBC)、陳昇、John Mellencamp、Kate Bush、イ・スンファン、カンサネ、1997年以前の香港映画、B級コメディー映画、SNL、The Blues Brothers、台湾、旅行の計画、イタリア、エステ、宮部みゆき、ショスタコーヴィチの交響曲5番、森川久美、のだめカンタービレ、くまモン
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