ナンキンハゼにムクドリがいる。
その先にメタセコイアが並んでいる。
ベンチまで置かれていた。
落ち葉も観賞しよう。
週刊朝日“木の声花の歌”の一ページ。(20年ぐらい前のもの)
この記事から、以下のことを学んだ。
1 300万年前には繁茂していたが、絶滅したと思われていた。
2 昭和16年三木茂博士が日本の植物化石の中に今までにないものを見つけメタセコイアと命名。
3 昭和20年中国四川省の奥地でメタセコイアの巨木を発見。
4 昭和24年、カルフォニア大学教授チィエネー博士が天皇陛下に献上したが、これが、日本最初の木。
5 その後北米ルートで輸入。挿し木が容易なことから、各地でたくさん植えられた。
耐寒性、耐暑性もあり生長は非常に早い。原産地では、高さ35mにもなるそうだ。
亀戸3丁目にある倉持珈琲店。
北十間川境橋を墨田区側から渡ってまっすぐ進んで左側です。
ここで、都立江戸川高校写真部OBの作品展が行われています。
江戸川高校14期生で、この店のオーナー倉持さんも会員です。
今回の作品は“春の彩”です。
18期生の秋山さんは、水元公園での“アオサギ”“メジロ”それに、自宅マンションからの富士です。
「第2回はいつですか」と伺ったら、
「数年後」とのこと。
この喫茶店ギャラリーは、すでに2年先まで予約があって、割り込み不可能なのだそうです。
笠間は割烹旅館“城山”で一泊し、できれば、朝食前に“つつじ山”に登るというのは、前からの計画でした。
それは、以前、つつじ祭りに来たことがあって、この山頂からの眺望が気に入っていたからです。
平成25年12月4日(水)念願かなって、6時20分ごろ宿を出ました。前日、宿の親切な板長さんに書いていただいた地図を頼りに三所神社から登りました。
神社を抜けると立派な道が通じています。
山頂は広場になっていて、樅の木が一本あります。落雷にでもあったらしく、上部が欠けています。
笠間盆地の展望と同じぐらい、この樅の木もすばらしいと思いました。
もしかしたら、座頭市の勝新太郎さんもこの樅の木に感動したのではないでしょうか。
子母澤寛「ふところ手帳」中央公論社に「座頭市物語」があって、そこからあの何作かの映画が生まれたそうですが、勿論実在の人物ではなく、笠間で生まれたとも書かれていないのですが、ここに碑を建てたというのは、座頭市になりきった勝新太郎さんの思い込みだろうと想像しました。
「天保の頃、下総飯岡の石渡助五郎のところに座頭市という盲目の子分がいた。何処からか流れ込んで来て盃をもらった男だが、もういい年配で、でっぷりとした大きな男、それが頭を剃って、柄の長い長脇差をさして歩いているところは、何う見ても盲目などとは思えなかった。
それだけに、物凄い程の勘で、ばくち場へ行っても、じっとしていてにやりと笑った時は、もう壺の内の賽の目をよんでいて、百遍に一度もそれが違ったことがなかったという。・・・」(座頭市物語の書き出し)
句碑は、山頂から少し下った見晴らしのよいところにありました。師である熊本人吉の俳人上村占魚と地元のお弟子さんの句碑です。
私は、笠間稲荷神社にあった天孫降臨の絵馬を思い出しました。
土浦を過ぎ常磐線の車窓から筑波山を望むころ、夕闇が迫ってきました。
笠間駅着 17:26。
笠間稲荷裏手の割烹旅館“城山”に着き、一風呂浴びて夕食です。
いろいろ運ばれてくるうちに、写真のことはすっかり忘れ、気づいた時はデザートになっていました。
新鮮で、大ぶりの刺身、鮟鱇鍋などおいしかったなあ。
そして、翌朝。近くのツツジ山に出かけました。6:30ごろだったと思います。
旅館に戻って朝食です。
コーヒーはロビーで。
笠間稲荷神社の見学に出かけました。
地元の方に伺うと、総門は、平成になって正面から移されたのだそうです。
観光バスからの客が三々五々姿を見せ始める頃、私たちは帰路につきました。
これで、2泊3日の下総常陸“寺社めぐりの旅”は無事終了、同行して下さったSさんどうもありがとう。
銚子から成田に行く列車は本数が少なく、10:27の後は12:10です。
駅の売店で鯖寿司の弁当を求め10:27の列車に乗り込みました。(この弁当はうまかった。鯖の身が分厚くジューシー)
車窓から風力発電の風車が見えます。(何かいい風景だなあ)
“下総豊住”“下総橘”“下総神崎”下総のつく駅名が多い。(下総の国は広いぞ)
成田に着いて、S君を最初に案内したのは、“なごみの米屋資料館”。創業者時代の雰囲気と成長の過程を見せたくて。
次は、成田の生んだ俳人“三橋鷹女”像。“嫌いなものは嫌いです”とはっきりものをおっしゃる方。
参道の菊屋さんは、特に案内したのではなく、過日私が利用したので通りすがりに撮ったまでのこと。(好きな店です)
望楼を持つ大野屋さんと、平成19年竣工の成田山総門は見落とせません。
この店のミツマメは素通りできません。Sくんは左党ですが、おいしいといってくれました。
大本堂(1968・昭43)と前本堂である釈迦堂(1858・安政5)です。
同じような建物ですみませんが、額堂(1861・文久元)に続いて前々本堂の光明堂(1701・元禄14)です。
そして、昭和大塔(1984・昭和59)です。
ここからは成田山自慢の庭園。平成の大改修で完成しました。でも、発展し続ける成田山のことですから、将来はまた違った風景となるかも知れません。
枯葉が絶えずハラハラと散り続けていました。
12月 3日(火)9時を少し過ぎたころ、魚市場に来ました。
第一から第三まで、3つの市場があり、どれもが立派な埠頭を備えているので、出入りする漁船が月に千隻を越すというのも頷けます。
こちらは、北海道の漁船でした。
広いスペースの構内です。
こちらは、鳥海さん、通信士を長く務め、今は、船を下りて市場で働いておられます。
「今年のサンマは少し小ぶりのようだ」と言っておられました。
市場見物のあと、坂東三十三観音霊場27番札所である飯沼観音 円福寺にも立ち寄りました。
そして、銚子駅。
南国の雰囲気を漂わせた落ち着いたたたずまいが魅力的でした。
(車止めが船を繋留する杭の形をしていました)
ほととぎす銚子は国のとっぱずれ 古帳庵
千葉駅から東へ“特急しおさい号”で一時間、銚子駅に着きました。(千葉県は北から、下総、上総、安房となっています)
ユーラシア大陸の西端を、ポルトガルの都市ポルトとして、東端は銚子。
銚子は“ユーラシア大陸とっぱずれ”です。
飽くことなく、太平洋を眺めていると、“今日はもうおしまい”とばかり夕闇が迫り、あたりは夜の帳に包まれていきました。
明ければ12月3日(火)6時30分ごろでしたか、“ぎょうけい館”の窓越しに海の彼方から陽が昇り始めました。
すっかり陽が昇ったので、朝食会場に行きました。
昨夜の部屋食は、こんな感じでした。
夕食も朝食もおいしくいただきましたよ。
チェックアウトをすませ、ホテルを出ました。
灯台に別れを告げ、漁港へと向かいました。
12月 2日(月)旅の集合地を、JR総武線“下総中山駅”北口にしました。
ところで、“下総”をひらがなでどう表記するか。
広辞苑も、JR東日本も、“しもうさ”です。
ついでに、上総(かずさ)は、南総で、下総は、北総です。
足取りも軽く友来て冬の旅 雨曇子
「これが、総門です。額に描いてあるのは、“お釈迦様没後日蓮上人が初めて法華経の教えを説いた法華道場”と言う意味で、江戸時代の終わりごろ、遠州掛川城主太田資順(すけより)の筆です」
「日蓮上人の像は、平成25年4月に建てられました」
「“正中山”“祖師堂”“妙法花経寺”の扁額は、本阿弥光悦筆です」
などと、いい気になって知ったかぶりを披露していたら、
「祖師堂の天水桶は、川口の鋳物だよ」とSさんに教えられた。
国宝「立正安国論」などを収蔵している聖教殿(しょうぎょうでん)の前に立つと、「南無妙法蓮華経」と、百日修行の僧たちが唱える大合唱が、地鳴りのように聞こえてきました。
荒行の知らるる寺の冬木立 雨曇子
同行のSさんは、俳人で、研究熱心。荒行のスケジュールをメモしました。
そして、参道の茶屋で休憩しました。
法華経寺の後は、“しおさい7号”で、一路“銚子”に向かいました。
次回は“銚子”のレポートです。