所司一門将棋センター (津田沼店)

日本将棋連盟
津田沼支部道場
津田沼子供将棋教室 スタッフブログ

1月17日の大人教室とコラム

2022年01月18日 | 大人教室

1月17日の大人教室は4人でした。

下記は第6回のコラムです。

第6回 23歳で晴れて棋士四段に

初段になって二年ほどで、ようやく二段に昇段出来ました。

足踏みをしましたが、初段での後半は充実した勉強ができて、自信もついてきました。

二段から三段は約1年で昇段できました。

21歳で三段なので、ほぼ棋士になれると確信はありましたし、ここまで来たら何としても四段にならなければの想いも強くなりました。

ただそれでも四段のカベが厚いのは承知していました。

当時の四段の条件は今の三段リーグと較べれば甘く、9連勝か13勝4敗です。

初段から三段までは8連勝か12勝4敗です。

星1つ違うだけですが、ギリギリの勝負を争っている中での1勝は倍昇段の厳しさがあります。

ですので三段には1年、三段から四段が2年は順調なペースです。

実際に四段になるチャンス(上がり目とよく言われます)はなかなかめぐってきませんでした。

7連勝はありましたが、昇段の1局というのは訪れませんでした。

当時は「枻 人間賛歌」という将棋の季刊誌があり、奨励会での特集で全員にアンケートがありました。

その中で10年後の将来どうなっているかの質問があり、多くの方がA級やタイトルホルダーと書き、他の職業の方もいました。

晩学だった私は、大きな欲はなく「立派な四段」と答えました。

実際の10年後はC級1組の五段でした。

前に私は連勝タイプと話しましたが、四段のチャンスも連勝でした。

そのきっかけは、前に7連勝まではしましたが、その後はパッとせず少し焦りも感じたころ、研究会仲間でもある実力者の後輩との対局で、難しい局面でちょっと悪いのかもと思っていた局面でトイレに立ち、戻るときに廊下でばったり会い、相手の方は頭を掻いて様子がちょっと変でした。

盤面に戻るとうまい歩を打たれていました。

困ったなと思いよく見ると、なんと二歩でした。

ちょうど相手が戻り負けましたと投了を告げ勝ちました。

盤にいないときに勝利した珍しい出来事でした。

相手の方は実力がありながら結局四段になれず、もしかしたら運命を分ける対局だったかもしれません。

私の方はこの1局で運を呼んだのかまた連勝を続けることになり、今度は9連勝で四段になることができました。

四段昇段の1局は震えやプレッシャーがかかりますが、初めてのチャンスで緊張より勢いが勝ったでしょうか。

研究会仲間で勝率の悪い相手でしたが、研究手順がうまく行き快勝でした。

四段は23歳でなれたので、社会人になる時期としては大学に1年浪人または留年で卒業という年なので、平均的な年齢で1人前になれました。

奨励会に入って6年半で四段は現在で見ると早い方ですが、三段リーグがなかった当時ではむしろ遅い方でした。

もちろん当時でも6年半以上在籍している奨励会員は多かったですが、長くいる方は四段になれなかったケースが多かったです。

私と奨励会同期では塚田泰明九段が2年4か月のスピードで四段がすごかったですが、森下卓九段や富岡英作八段はじめ私より早く四段になった方は多かったです。

当時も四段は年に4~5人だったと思いますので、三段リーグが始まってからの率とそれほど変わりませんが、全体の人数で言えばその後は厳しい競争です。

三段リーグがない時期に上がれたのは良かったです。

また私のあとに四段になっていった方々は羽生善治九段(永世七冠)はじめ、羽生世代の優秀な方々が四段昇段のしのぎを削る厳しい戦いで勝ち残れたかどうかです。

先の研究会仲間で四段昇段の足掛かりや昇段の1番の相手は強い方でしたが、三段リーグと羽生世代とのしのぎが厳しかったのでしょうか。

強い方々だったのに、四段にはなれませんでした。

私は羽生さんの世代とは香落ち上手で羽生さんに1勝、佐藤康光九段に1敗のみの2局だけでした。

私は運良く四段になれましたが、先に活躍している島朗九段、塚田泰明九段はじめ55年組と呼ばれる優秀な世代と比べると、自分にはまだまだ力が足りないのは大いに感じていました。

 

 

 


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1月11日大人教室とコラム

2022年01月11日 | 大人教室

1月11日の大人教室は3人でした。

下記は第5回のコラムです。

第5回 プロ的な将棋を身に着ける充電期間

17歳5級で奨励会に入会した時は二十歳までに初段という年齢制限の重しがありましたが、1年4か月で初段になれたことでホッとしました。

次は30歳までに四段(当時)ですので、だいぶ期間があります。

この安心がいけなかったのか、高校を卒業して時間はたっぷりあるのに、のんびりしてしまいました。

初段で1年ぐらい経つと、同期のみんなや、後輩にも追いつき追い越されるようになりこれではいけないと思うようになりました。

研究会を行っている奨励会員は多く、自分も研究会に入らなくてはと探しました。

当時中野サンプラザで研究会を行っていることが多く、中野まで定期を買いなるべく多く研究会に参加するようになりました。

また定期を買ったことで多く活用しないともったいないので、プロ棋士の対局の記録係もたくさん取るようになりました。

記録係と研究会で平日ほとんど東京まで行き、土曜日は師匠の教室の手伝い、日曜日は船橋将棋道場と、たくさん将棋に触れる生活になりました。

研究会や記録係では朝から帰りは夜ですが充実した毎日でした。

私は教わる先生にはあまり恵まれていませんでした。

はじめの先生としては、将棋道場の席主の先生になりますが、一度も対局がなかったです。

師匠の平野先生にも教わる機会がありませんでした。

奨励会に受かってから師匠の教室に行きましたので手伝い役です。

でも教室の中で良い吸収は出来ました。

私の弟弟子の岡崎洋七段や川上猛七段は師匠から指導対局を多く受けています。

また私が珍しいのはプロ棋士の指導対局を受ける機会がなかったことで、初めて棋士の先生に教わったのは故河口俊彦八段に記録係のあと10秒将棋のお誘いをいただいたのが、奨励会初段で19歳のときです。

ちょうどすぐあとに研究会で初代竜王の島朗九段が新四段のときに教わる機会がありました。

内容は完敗で、新四段の強さに憧れました。

プロ棋士になった方で19歳初段まで、棋士との対局が一度もなかった方というのは私の世代よりあとではたぶんいないのではないでしょうか。

そのように指導に恵まれなかった分、若いころから教室で教え弟子を取るようになりました。

先生に教わる機会が少なかった私の勉強方法は本が中心でした。

たくさんの本を読みましたが、当時は今と較べるといい本は少なかったです。

そのようなことが、本を90冊以上書くことになった理由の1つです。

研究会の中で香落ち研究会というのもありましたが、私が幹事になったときは指すだけではなく、レポートを書いていきましょうとしました。

しかし皆さん書くのは苦手で、結局私がまとめていった経緯などがありました。

本をたくさん読んで、自分でまとめることが後年著作を書いていく上で役に立ちました。

奨励会時代に故米長邦雄永世棋聖が将棋無双や将棋図巧を解けば四段になれるということをおっしゃっていました。

非常に難解な詰め将棋ですので、おっしゃる通りと思いましたが、発表してからはどうかなです。

周りの仲間では、無双や図巧を解く方は増えましたが、私はひたすら序盤などの研究でした。

終盤力が足りず勝負弱い面がありますが、定跡本を書いていくには役立ちました。

後年は『定跡伝道師』というニックネームをいただきました。

奨励会初段には結局2年ちょっといることになりましたが、初段での後半はプロ的な将棋を身に着ける良い充電期間になりました。

あとから聞いた話ですが、当時奨励会の先輩から私の将棋の組み立ては狙いがわかりやすくアマチュア的という評価がありました。

おっしゃる通りで、ようやく記録係でたくさんプロ棋士の対局をまじかで見て、含みのある手、力をためる手など、プロ的感覚が身に付くようになりました。


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1月4日大人教室とコラム

2022年01月04日 | 大人教室

1月4日の大人教室4人でした。

下記は第4回のコラムです。

第4回 高校卒業と同時に奨励会初段

関東奨励会の新入会員では17歳の私が最年長で、あとの方は15歳以下でした。

20歳までに初段にならなければ奨励会を退会となるので、相当がんばらなければなりません。

それからの高校生活は授業が終われば真っ先に家に帰って将棋の研究、土日は将棋道場という生活に変わりました。

当時の将棋道場はたばこの煙がすごかったです。

学校では授業中も将棋のことを考えていることが増えて、成績は下降しました。

同期で高校1年の方では高校をやめた方もいました。

私はあと1年なのでやめる勇気はなく、なんとか卒業しました。

学業との両立が課題でしたが、その気持ちが強いうちはうまく将棋の勉強ができていました。

高校2年のとき担任だった先生は、将棋の世界を知っていて理解がありました。

学校の勉強より将棋をがんばりなさいと、励ましてもらえたのがありがたかったです。

その先生とは6年後、私が五段になってすぐのとき将棋まつりに来て久しぶりに会えました。

このとき先生との会話で、生徒の中では君が一番の出世頭だと喜んでいました。

奨励会5級から1級まで、9か月で上がることができました。

さかのぼってアマ1級から奨励会1級が2年ぐらいで、この時期は私にとって驚異的な昇級ペースでした。

アマ1級と奨励会1級はものすごく実力差が違います。

初段昇段の1局も1級に昇級してから比較的すぐにチャンスが来ました。

しかしこのときは同期の達正光さんに負けて昇級ならずでしたが、ちょうど高校卒業と同時に奨励会初段になることができました。

私は勝率がそれほど高くないですが連勝するタイプで、奨励会では効率よく勝ち星を上げました。

ただ急速に上がったので、本当の力が付いていなかった面はあとで感じました。

それはあとでも述べますが、将棋の組み立てがアマチュア的でした。

これで二十歳までに初段という年齢制限がクリアできました。

高校を卒業したことでこれから将棋の勉強のみしていればよいで、前途洋々の気持ちになれました。

ただし気持ちの油断もあり、ここからが大変でした。

 


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12月28日大人教室とコラム

2021年12月28日 | 大人教室

12月28日の大人教室は7人で普段より多かったです。

前回から大人教室のブログも作りまして、こちらでは下記のようにコラムを載せていきます。

今回は第3回です。

第1回はまいぷれのニュースに載せました。

第1回、第2回は前回の大人教室のブログです。

 

第3回 17歳で奨励会入会

将棋道場で常連のやさしいおじさんが、今度プロの養成機関である奨励会の試験があるので受けてみないかと誘われました。

私は雑誌などを読んで将棋界は詳しく知っていたので「全国でも有名な小、中学生が受けるところですよ」と断りました。

でもおじさんは落ちて元々、試験料を出してあげるからと言われました。

それでも断ってるうちに席主の先生が、道場の師範で当時六段の平野広吉先生に電話をかけ、すぐにOKとなりました。

普通は師匠が弟子を取るとき、年齢やアマでの実績、指して見込みがあるかなど、入門を許されるには厳しい基準があります。

平野先生を道場でお見かけしたのは1~2回ぐらいでした。

ただ赤旗名人戦の船橋地区大会は審判長で来られて、このときの優勝決定戦は見ていただいたので、私のことを少しは知っていたと思います。

奨励会の試験を受けることが決まり、落ちて元々ではありますが、気持ちはなんとしても受かりたい思いでした。

奨励会を受けたときの年齢は試験の初日が16歳だったので5級受験でした。

合格した日は17歳になっていたので、4級受験でなかったのは助かりました。

4級では当然対戦相手が厳しくなりますし、奨励会同期では中学生でアマ準名人になった現塚田泰明九段が4級受験でしたので対戦することになり大変でした。

5級受験でも中学生名人になった故達正光七段がいましたが勝利できました。

奨励会試験は初日に受験者同士で3局、2日目に現役の奨励会と3局指して、トータル3勝3敗以上で、今よりは合格しやすいです。

私は初日2連勝し、次の3局目を勝てばいきなり合格となります。

翌日の現役奨励会は相当強いはずで、この3局目で何としても合格を決めたかったです。

将棋は私が先手で横歩取り△3三角型の戦型になりました。

序盤から優位に立ち、終盤は勝勢といえる形勢でした。

その局面で持ち時間もまだたっぷりとあり、怖いが自玉に詰みはなく、必至をかけても勝ちです。

しかし相手玉が詰んでいるように感じました。

あとで思ったのは、一手受けていれば相手に指す手なしで、必勝といえる形勢でした。

私は詰んでいる読みでしたが、うまい受けの応手を見落として、ギリギリ打ち歩詰めで詰まずでした。

それから長考して粘りましたが結局負けとなりました。

この敗戦は悔いが残りましたが、2日目は1局目で勝利し、合格を決めました。

次も勝ち、3局目は負けでした。

4勝2敗で合格は自信もつきましたし、1日目の最後の対局は二度とこのような負け方はしないようにといい反省もできました。

こうして17歳5級で入会しましたが、奨励会には年齢制限があり、まずは20歳までに初段にならなければ退会です。

承知してはしていたものの、20歳までに初段は5級からは遠いです。

年齢制限のプレッシャーを感じ、急なきっかけで大変な世界に入ったと思いました。


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大人教室コラム

2021年12月21日 | 大人教室

毎週火曜日の大人教室の日もブログを書いていきます。

当面火曜日のブログでは下記のようにコラムを載せていきます。

第1回はまいぷれのニュースにも載せました。

所司和晴 第1回コラム  
将棋をはじめたころ
私は東京都江東区出身で将棋6年生のとき、船橋市に引っ越しました。
将棋を覚えたのは小学1年生のころです。
私が小学生のころはもう縁台将棋は見かけない時代でした。
将棋は百科事典で覚えたのですが、周りで本将棋を指す方がいなくて、中学2年生までほとんど指す機会がなかったです。
このころようやく学校の友達で4~5人好きな方ができて、将棋にのめり込みます。
友達と指すだけでなく、公民館の将棋サークルにも行くようになりました。
友達の中では2年生のうちに行き道場の話を聞いていましたが、私はやや遅れて中学3年生の6月に将棋道場に行きました。
自分や友達以外は将棋サークル同様大人の方ばかりでしたが、当時の将棋道場はお客さんが多く大盛況でした。
私はアマチュア6級に認定されました。
中学2年生のとき本を読んでたくさん指してきたので、もう少し上の級があるかなと思いましたが、当時のレベルは高かったです。
将棋道場に通いだしたころ奨励会というプロの卵の6級(その後に兄弟子となる)方と二枚落ち(飛車と角を落とす)で対局しましたが負けで、プロを目指す方はすごく強いんだなと感じました。
私はこんなに遅いスタートでしたので、とてもプロを目指す位置になく、小さいころから将棋を学べる環境があればと思いました。
またそれが棋士になってから多くの指導をしてきた理由でもあります。
この点はまだ他にも理由がありますので、次回以降のコラムでも述べていきます。

第2回 晩学スタート

中学生3年生、将棋道場のアマチュア6級でスタートした私は将棋の魅力にのめり込んでいきました。

それでも特別早い昇級ペースではありませんでした。

当時の道場初段はレベルが高く、アマ有段者にあこがれました。

高校入学のときはアマ1級でした。

受験では親から学費が安い県立に受かれば良いとのことで、家から距離を測って一番近い船橋旭高校に入学しました。

それでも自転車で脚力はありますが、20分かかりました。

受験勉強は3年生の冬休みあたりからで遅いです。

県立に受かれば彫り駒と、足つき将棋盤のセットを買ってもらえるというのががんばった理由の1つです。

普段学校の成績は小学生のころからずっと中か、中の上ぐらいで平凡でした。

得意な科目は図画工作から美術と、体育といいますか、運動能力ぐらいでした。

百科事典で将棋を覚えましたのでインドアタイプのようですが、自転車でどこでも遊びに行く方でした。

普通プロ棋士は数学が得意ですが、私は平凡な成績でした。

局面を考えるときに深く読むより、感覚や感性を重視する方です。

つまり局面を見てきれいな形なので、うまくいくだろうという感じです。

このあたりは得意科目が美術だったことが影響しているかもしれません。

ただ将棋はやはり数学が得意なタイプが有利に感じます。

高校での友達もできましたが、中学のときの将棋仲間と一緒の方が多かったです。

土曜日、日曜日は将棋道場に行き、高校2年のときはアマ四、五段になりました。

ただアマとしての実績は赤旗名人戦の県大会の前、船橋地区大会で2位というのが最高ぐらいです。

高校選手権ではライバルの友達に勝てば県代表になれると思い込んでいましたが、一回戦で敗退でした。

将棋の世界を知るようになればなるほど、小さいころから将棋を専門に学んでプロ棋士の道を目指したかったという思いが膨らみました。

このように晩学だったのが、のちに若い方に夢を託したいと、教える側になることを望んだのかもしれません。

高校2年の夏休みは大工の父の仕事を手伝ったりして、将来父のあとを継ぐのだろうか。

あるいは美術の関係の学校に行くのだろうかと、まだ将来のことは漠然と考えるぐらいでした。

しかしその後、急に転機が訪れました。


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