質問者:「仏教徒は私が存じ上げております通り、
働きによって知覚を有する生きとし生けるものより
苦しみを取り除こうと、慈悲の行いを為すと
されております。
しかし依然完全という事はなく、しばしば知覚を
有する生けるもののその苦しみは、他の生けるもの
により引き起こされます。
そうして私は、仏教徒が知覚を有する生けるものの大半を
助けるために、多くのもののその苦しみを生じさせている
ものを阻害する事が可能でありましょうか。
言葉を整理致しますと、仏教徒にとりまして、他のもの達を
助けるために、何ものかを阻害する事が許されますでしょうか。」
法王:「それは状況にもよるでしょう…それは審査されるべきです。
熟達した者の許しと、その活動の結果の場合によります。
例えば何者かが罪深い行動をした事によって多くの世人が害され、
他に選ぶべき手段のない、その様なケースにおいては、
慈悲の動機付けによってその行動を止めさせようと試みるべき
でありますが、暴力が唯一の選択であるあるならば、もしその悪しき
行動と犯罪者を止める事に、その為されるものが暴力であるという
場合には、厳しき妨害は許され、また必要であります。(後略)」
以前に動物保護活動家が、毛皮商品を大々的に宣伝している雑誌の
女性編集長の顔面に特製豆腐パイを投げつけたというニュースが
ありました。
またこれはわたくしが体験した事ですが、活動中の環境活動家の
一行が特に許可も受けずに車道の半分を縦断して、通過する車の
迷惑となっていた事がありました。
動物に対する暴力を反対しながらやや暴力的な手段に訴える事は
何かを見逃している様に思われますし、折角環境保護を訴える活動を
しながら、環境問題の事など一顧だにしない自己中心的な人々と
同調する所があっては何かを見失っている様に、正直感じられました。
人間は自身の立場が正当であると見なすほど、誤解に陥り易く、
周囲への配慮が欠けがちですが、こうした活動に携わる場合において
さえも、法王の御言葉の「熟達した者の許しと、その活動の結果の
場合により」という点が熟慮されるべきである様に感じます。
働きによって知覚を有する生きとし生けるものより
苦しみを取り除こうと、慈悲の行いを為すと
されております。
しかし依然完全という事はなく、しばしば知覚を
有する生けるもののその苦しみは、他の生けるもの
により引き起こされます。
そうして私は、仏教徒が知覚を有する生けるものの大半を
助けるために、多くのもののその苦しみを生じさせている
ものを阻害する事が可能でありましょうか。
言葉を整理致しますと、仏教徒にとりまして、他のもの達を
助けるために、何ものかを阻害する事が許されますでしょうか。」
法王:「それは状況にもよるでしょう…それは審査されるべきです。
熟達した者の許しと、その活動の結果の場合によります。
例えば何者かが罪深い行動をした事によって多くの世人が害され、
他に選ぶべき手段のない、その様なケースにおいては、
慈悲の動機付けによってその行動を止めさせようと試みるべき
でありますが、暴力が唯一の選択であるあるならば、もしその悪しき
行動と犯罪者を止める事に、その為されるものが暴力であるという
場合には、厳しき妨害は許され、また必要であります。(後略)」
以前に動物保護活動家が、毛皮商品を大々的に宣伝している雑誌の
女性編集長の顔面に特製豆腐パイを投げつけたというニュースが
ありました。
またこれはわたくしが体験した事ですが、活動中の環境活動家の
一行が特に許可も受けずに車道の半分を縦断して、通過する車の
迷惑となっていた事がありました。
動物に対する暴力を反対しながらやや暴力的な手段に訴える事は
何かを見逃している様に思われますし、折角環境保護を訴える活動を
しながら、環境問題の事など一顧だにしない自己中心的な人々と
同調する所があっては何かを見失っている様に、正直感じられました。
人間は自身の立場が正当であると見なすほど、誤解に陥り易く、
周囲への配慮が欠けがちですが、こうした活動に携わる場合において
さえも、法王の御言葉の「熟達した者の許しと、その活動の結果の
場合により」という点が熟慮されるべきである様に感じます。