宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

失うものがなければ……

2007年07月04日 | Weblog
(写真はクリックされましたら拡大します。)

本日読んだ昭和58年発行の本からです……。
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先年、東京・赤坂のホテルで火災が発生し、施設の不備から
多くの犠牲者を出した。
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage105.htm

そのホテルのオーナーであるY氏は、資産実に一千億は
下らないと言われているにも関わらず、犠牲者遺族への
補償金の出し渋りなどで世間の批判の的となった。
しかしY氏は社会正義と自己の利益を秤にかければ、当然
自己の利益の方が大切という価値観と信念を持っているの
だから、誰が何と言おうとビクともしない。

他人が痛いと言っても「私が痛いわけじゃない。
昔、私だって痛い思いをした。
今あなたが痛いのは運命だから仕方がない」と言い切れる
だろうし、「金は私の努力によって得たものだから、
私の幸福のため以外にはビタ一文だって払わない」と確信
している事だろう。
その自己中心主義の信念は石よりも固いのである。
憎らしいからと石でもぶつけてごらんあれ、その人は
たちまち傷害罪で逮捕されてしまうだろう。

法は「悪人」と呼ばれる人も守っているのである。
それではY氏は人間の心を持たない「鬼」か「蛇」かと言うと、
たぶん基本的にはそうではあるまい、
何しろ自分の一族だけは可愛いのだし、そのためなら涙を
流す用意だってあるのだ。

ただ人生の初期において、あまりにも過酷な場面に境遇し、
また生命よりも金の方が大切だという環境に住み、他人の
心は一切信じないという、一般人には考えられない世界で
彼は生きてきたのだろう。
普通の人なら情に負けて、自分の意思や目標を狂わせて
しまうような場面が何度もあったろうが、Y氏は執念で、
石に噛り付いても彼の信じた「夢に描いた男」になるために
頑張ってきたのだ。

だから、自分のそばで餓死する者が出ても、それを見ながら
平然とビフテキが食べられるのである。
「これはオレのもので、決してオマエのものではない」と
はっきり言えるのである。
これだけの徹底した個人主義は誰もがそうなれるものでは
ない。
だからこそ現在のY氏が存在するのだ。

こういうタイプの人物は初めから、「失うもの」を持っていない。
毎日がお正月なのである。
「失うもの」がないのだから、生きる事は全部プラスばかり。
万歳三唱の連続だ。

警察に逮捕された時の写真だって、そう悪びれた顔なんかして
いない。
それはそうだろう。
当人は悪い事をしたとは思っていないんだから。

Y氏は鉄の信念で「失う事」をやめているし、初めから「失うもの」を
持たないのだから、トクするばっかり。
こんな事がまかり通るようでは善良な市民は泣き寝入りするだけ
なのか、あんまり悔しいではないか、とイライラする方も多いだろう。

でもそれは明らかな心得違いである。
失うものがないというと、いかにも全部トクするばかりかというと、
決してそうではない。
失うものがない人生は本当は何も得る事のない人生なのだ。
Y氏を真似て、鉄の意志で厚いビフテキにかぶりつきたいのなら、
是非おやんなさい。

「失うもの」のない人間は、悲しい事に自分さえも持っていないし、
本当の自分が誰だかも知りえないのである。

私はY氏を例に挙げたが、Y氏だけがそれに当てはまるわけでは
ない。
多くの大型、小型のY氏に「失うもの」がある事に気づいて欲し
かっただけである。
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現在様々な「成功哲学」が巷に溢れていますが、個人的に
この中のY氏と少し重なって見えてしまう場合があります。
「吸収する」という事、もしくは「一見与えるという形での
吸収」に重点が置かれる事、「失うもの」がないといった風体など、
そうした点で殆ど違いはないように思います。

本当の「失うもの」が無ければ、反対に本当は「得るもの」が
ないというのは、事実であると感じますし、またそうした事が
説かれる機会は現在はあまり多くないように感じます。

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