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「ペトロ岐部と187殉教者」、そして天正遣欧少年使節の
一員であった中浦ジュリアン神父がカトリック教会で聖人の
一段下である「福者」に上げられるというニュースが広がったのは、
確か今年の3月頃の事でした。
そしてバチカンでの承認手続きなどが済み、6月1日に正式に
承認されたのですが、このニュースが広まり、また長崎で11月に
この列福式が挙行されるという知らせが広まるや否や、長崎の
ホテルや宿泊施設には11月の予約が殺到し、5月の時点で全ての
宿泊施設の予約は既に一杯になってしまいました。
わたくし自身も3月のニュースを聞いた時、丁度長崎を訪れる
良い機会かと感じましたが、そのための準備もなく、病気も
治癒の見通しが立たず、更に長崎の宿泊施設の予約も
無理となってしまい、行く事が出来なくなってしまいました。
画像の方は、昔児童用の本についていた付録です。
キリストの心は正式に「キリストの聖心(中国語では耶蘇聖心)」
と表記されますが、しばしば教会以外の場所で、直訳として
「キリストの神聖なハート」と表記される事があります。
その児童書でもそのように表記され、しかも「幸運を招く」と
説明されていたのには少し驚いてしまいました。
またこの付録の図は正式な図像を簡略化したもので、正式
なものではありません。
切支丹ものの歴史小説というと、坂口安吾の『わが血を追ふ人々』
というものがあります。
これには天草(ヒエロニモ)四郎が登場したりしますが、乱とその
開始については書かれていません。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「いゝえ、神父(パードレ)さま、私はお金の事ばかり考へて
ゐるわけではありません。
霊(アニマ)のたすかりの事を第一に忘れてはをりませぬ。
また、慈善の心も忘れてはをりませぬ。
幸ひ多少の富ができたなら、父母と同じやうに、他の人々をも幸せに
する事が出来るでせう」
「その考へは誰でも、当然さうでなければならない事だ。
ヒエロニモよ。
お前はこの世をどう考へてゐるか。
切支丹の尊い教は邪教の人々によつて禁制せられてゐる。
清い正しい奉教人がその清さ正しさのために捕へられて、見よ、
あの殉教の丘で何人の人々がその血を流し、又、生きながら
焼かれて死んだか。
私達が生きながらへて奉教人の道を失ふまいと思ふなら、
私のやうに野に伏し山に寝て人目をくゞるか、さもなければ
聖像を足にふみ不信を天主様に詫びながら悔恨の多い一生を
辿らなければなるまい。このまゝで良いとお前は思ふか。
このやうな汚れた世に、あくせくとお金をもうけ、そのお金で
身の小さな安穏をはかり、それを孝養だの慈善だのと呼ぶ事が
怖しいとは思はぬか。
それが天主様のお心にかなう事だとお前は考へてゐるのかね。」
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
今年の列福の盛大な式が強調される一方で、現在のモダン主義の
空気が多分に流れている教会では、中々こうした命がけの
真剣さを備えた言葉や説教は聞く事が出来ません。
式を行い祝う一方で、こうした考えに戻る必要がある事を
個人的に感じています。
「あゝレシイナ、お前だけは私のそばから離れてくれるな。
彼は気違ひになりさうだつた。」
「ペトロ岐部と187殉教者」、そして天正遣欧少年使節の
一員であった中浦ジュリアン神父がカトリック教会で聖人の
一段下である「福者」に上げられるというニュースが広がったのは、
確か今年の3月頃の事でした。
そしてバチカンでの承認手続きなどが済み、6月1日に正式に
承認されたのですが、このニュースが広まり、また長崎で11月に
この列福式が挙行されるという知らせが広まるや否や、長崎の
ホテルや宿泊施設には11月の予約が殺到し、5月の時点で全ての
宿泊施設の予約は既に一杯になってしまいました。
わたくし自身も3月のニュースを聞いた時、丁度長崎を訪れる
良い機会かと感じましたが、そのための準備もなく、病気も
治癒の見通しが立たず、更に長崎の宿泊施設の予約も
無理となってしまい、行く事が出来なくなってしまいました。
画像の方は、昔児童用の本についていた付録です。
キリストの心は正式に「キリストの聖心(中国語では耶蘇聖心)」
と表記されますが、しばしば教会以外の場所で、直訳として
「キリストの神聖なハート」と表記される事があります。
その児童書でもそのように表記され、しかも「幸運を招く」と
説明されていたのには少し驚いてしまいました。
またこの付録の図は正式な図像を簡略化したもので、正式
なものではありません。
切支丹ものの歴史小説というと、坂口安吾の『わが血を追ふ人々』
というものがあります。
これには天草(ヒエロニモ)四郎が登場したりしますが、乱とその
開始については書かれていません。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「いゝえ、神父(パードレ)さま、私はお金の事ばかり考へて
ゐるわけではありません。
霊(アニマ)のたすかりの事を第一に忘れてはをりませぬ。
また、慈善の心も忘れてはをりませぬ。
幸ひ多少の富ができたなら、父母と同じやうに、他の人々をも幸せに
する事が出来るでせう」
「その考へは誰でも、当然さうでなければならない事だ。
ヒエロニモよ。
お前はこの世をどう考へてゐるか。
切支丹の尊い教は邪教の人々によつて禁制せられてゐる。
清い正しい奉教人がその清さ正しさのために捕へられて、見よ、
あの殉教の丘で何人の人々がその血を流し、又、生きながら
焼かれて死んだか。
私達が生きながらへて奉教人の道を失ふまいと思ふなら、
私のやうに野に伏し山に寝て人目をくゞるか、さもなければ
聖像を足にふみ不信を天主様に詫びながら悔恨の多い一生を
辿らなければなるまい。このまゝで良いとお前は思ふか。
このやうな汚れた世に、あくせくとお金をもうけ、そのお金で
身の小さな安穏をはかり、それを孝養だの慈善だのと呼ぶ事が
怖しいとは思はぬか。
それが天主様のお心にかなう事だとお前は考へてゐるのかね。」
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
今年の列福の盛大な式が強調される一方で、現在のモダン主義の
空気が多分に流れている教会では、中々こうした命がけの
真剣さを備えた言葉や説教は聞く事が出来ません。
式を行い祝う一方で、こうした考えに戻る必要がある事を
個人的に感じています。
「あゝレシイナ、お前だけは私のそばから離れてくれるな。
彼は気違ひになりさうだつた。」