宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

貝殻の中の紙片

2007年09月11日 | Weblog
(画像はクリックされましたら拡大します。)


「ペトロ岐部と187殉教者」、そして天正遣欧少年使節の
一員であった中浦ジュリアン神父がカトリック教会で聖人の
一段下である「福者」に上げられるというニュースが広がったのは、
確か今年の3月頃の事でした。

そしてバチカンでの承認手続きなどが済み、6月1日に正式に
承認されたのですが、このニュースが広まり、また長崎で11月に
この列福式が挙行されるという知らせが広まるや否や、長崎の
ホテルや宿泊施設には11月の予約が殺到し、5月の時点で全ての
宿泊施設の予約は既に一杯になってしまいました。

わたくし自身も3月のニュースを聞いた時、丁度長崎を訪れる
良い機会かと感じましたが、そのための準備もなく、病気も
治癒の見通しが立たず、更に長崎の宿泊施設の予約も
無理となってしまい、行く事が出来なくなってしまいました。

画像の方は、昔児童用の本についていた付録です。
キリストの心は正式に「キリストの聖心(中国語では耶蘇聖心)」
と表記されますが、しばしば教会以外の場所で、直訳として
「キリストの神聖なハート」と表記される事があります。
その児童書でもそのように表記され、しかも「幸運を招く」と
説明されていたのには少し驚いてしまいました。
またこの付録の図は正式な図像を簡略化したもので、正式
なものではありません。

切支丹ものの歴史小説というと、坂口安吾の『わが血を追ふ人々』
というものがあります。
これには天草(ヒエロニモ)四郎が登場したりしますが、乱とその
開始については書かれていません。

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「いゝえ、神父(パードレ)さま、私はお金の事ばかり考へて
ゐるわけではありません。
霊(アニマ)のたすかりの事を第一に忘れてはをりませぬ。
また、慈善の心も忘れてはをりませぬ。
幸ひ多少の富ができたなら、父母と同じやうに、他の人々をも幸せに
する事が出来るでせう」

「その考へは誰でも、当然さうでなければならない事だ。
ヒエロニモよ。
お前はこの世をどう考へてゐるか。
切支丹の尊い教は邪教の人々によつて禁制せられてゐる。
清い正しい奉教人がその清さ正しさのために捕へられて、見よ、
あの殉教の丘で何人の人々がその血を流し、又、生きながら
焼かれて死んだか。

私達が生きながらへて奉教人の道を失ふまいと思ふなら、
私のやうに野に伏し山に寝て人目をくゞるか、さもなければ
聖像を足にふみ不信を天主様に詫びながら悔恨の多い一生を
辿らなければなるまい。このまゝで良いとお前は思ふか。

このやうな汚れた世に、あくせくとお金をもうけ、そのお金で
身の小さな安穏をはかり、それを孝養だの慈善だのと呼ぶ事が
怖しいとは思はぬか。
それが天主様のお心にかなう事だとお前は考へてゐるのかね。」

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今年の列福の盛大な式が強調される一方で、現在のモダン主義の
空気が多分に流れている教会では、中々こうした命がけの
真剣さを備えた言葉や説教は聞く事が出来ません。
式を行い祝う一方で、こうした考えに戻る必要がある事を
個人的に感じています。


「あゝレシイナ、お前だけは私のそばから離れてくれるな。
彼は気違ひになりさうだつた。」


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