「介護録」とユルユル日記

介護終了、ブログタイトルかえました。

ご挨拶

2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。

介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。

今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。

タティング

タティングは↓こちらに 写真をアップしていくことにしました。
お暇が出来たらのぞいてやって下さい。
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【介護】ビゴの母の現在の状況

2010-01-16 | ●母の状態と経緯

※HP閉鎖(TOPページのみ残し)のため、HP内記事を整理。これはその一つです

ビゴ母の現在の状況

■診断…アルツハイマー型認知症。一年前からアリセプト服用をやめた。

■介護度…3

■利用介護サービス…認知症対応型デイサービスとショートステイ。2010年4月より使用規模多機能に移行予定

■身体…手足、腰など、身体的には元気。

■排泄…紙パンツ、パット使用

■入浴…デイのみ

行動障害

■徘徊…発症してから数年間続いたが、ここ二年余りで完全になくなった。
■物取られ妄想…初期の一時期に見られた。
■作り話、妄想話…ありもしないこと、起きていないことをよく話した。現在も誰かいるのか?と思うような一人会話をする。亡くなった人物と話している。
■拒否…この二年くらいで、拒否がかなりなくなった。そう言う意味では介護しやすいともいえる。現在は、トイレでパンツを下げることを拒否することがある程度。
■コミュニケーション…全般的に明るくよくしゃべり人当たりはいいが、意思疎通能力が低下。質問してもまったく違う話が返るコトが多い。
例えば、文字は漢字、カタカナとも完全ではないけど読むことがある(TVの字幕や、商品パッケージなどを読む)が、「これ、読んで」といっても読んではくれない。

こちらからの誘いは伝わりにくく、母のペースに合わせることになる
■もの壊し、部屋荒らし…気になったモノは、どこかに移動、片づけて行方不明、あるいは固執、集中して触りまくった結果、壊したり、破いたり…ということになる。


自我がしっかりしていて、説明や説得が必要だったり、拒否が激しかったりしていた時に比べると、手は掛かるが介護はしやすい…とも言える。


【介護】認定後~2007年まで

2009-10-01 | ●母の状態と経緯
※HP閉鎖予定につき、HPの記事を修正しつついくつかこちらに移動することにしました。この記事はその一つです。

■2004年夏 
介護度1

■2005年 
認定が半年、介護度2 
デイに対する拒否が続く。入浴拒否。徘徊。着替え拒否。

4月 シヨートステイデビュー
7月 病院のデイケアをやめる。保健師が勧めたので利用したが、拒否がある母はプログラムの運行に支障をきたすようで、5分以内に迎えのバスに乗るように植われ、安定剤を使うことにもなり、何度も途中で帰るように言われ……だんだんと肩たたき?……で、こちらから「止めます」という電話を掛けた。
相手はとても嬉しそうに「そうですか~~!またご縁があっらたら……」などと言っていた。二度と行くもんか!

8月 デイの回数を増やすために変更「うららか」少人数制、認知症対応型に。

■2006年
介護度3
徘徊頻度やや減少傾向。トイレの場所を忘れる。夜中に起きるということがたまにおきる。
出来ない事が増える。
能動性、自我の強さが減少傾向。徘徊の時にこちらのコントロールが効きやすくなってきた。 進行しているが、対応しやすくなるという複雑な気持ち

■2007年 
介護度変わりなく、進行程度も大きな変化はない

10月ショートステイ中に骨折。本人に記憶はない
ステイ先のスタッフは「朝起きたら足を引きずっていたが転倒はしていない」と言い切って電話報告してきた。
私はそれを信用したので(立ったり座ったりしているときに足を痛めたのか?くらいに考えて)「日曜だし病院へ行けないので様子を見るということでいいか」という問いに「いいです」と答えた。
その日の夕方帰宅したときも足は引きずっていた。
その引きずり方はちよっと気になるものだったけど、本人にほとんど痛みがないこともあり、まさか骨折しているとは私も思わなかった。
翌日、デイサービスで入浴してアザが見つかり、転倒の可能性が大きくなった。

整形外科受診で骨折が判明したが、ステイ先は、家に帰ってから骨折したのではないかと言い出したり、家族が病院に行かなくていいと言ったから落ち度はないと言い出したり……。

いろいろあって、でもなんとか入院費用は施設がもつことになった。

骨折は家にいてもしたかもしれないのでそのことにアレコレ言う気はないし、あちらも簡単に謝るわけにはいかない組織の問題もあると思う。
でも、骨折していたと分かった後の対応には問題があると思う。

改めて謝罪をします…と言うだけで実際にはなかったし。

また、24時間完璧に目を離していないわけではないのに「転倒していない」と言い切ったことにも問題があると思う。

11月 入院、手術。
入院中は、すぐに環境になじみ、昔からそこにいる人のようだったか、退院後しばらくの間、めまいや吐き気があり、自律神経失調症と言われたので、表面に出ない(出せない)ストレスがあったのだと思う。
12月18日に退院。
翌年、一月からデイを再開した。

【介護】介護認定を受けるまで

2009-09-28 | ●母の状態と経緯
※HP閉鎖予定につき、HPの記事を修正しつついくつかこちらに移動することにしました。この記事はその一つです。
■2000年
思い返すと「物忘れ」はこの頃から(それ以前?)あったと思うが、年齢のせいくらいにしか想っていなかった。
引っ越ししても新しい住所がなかなか覚えられないことに、ある種の不安を監視だ私だけど、「まさか…」という気持のほうが強かったように思う。

■2001年
母方の祖父の葬儀で言動がおかしくなる。
葬儀であることを理解しない、どうしてここにいるのか?と言い、自分の父がなくなったことを忘れてしまう。
十年ぶりくらいで会った姪と甥の顔を覚えられない。
しかし、これはこの時だけ。
日常生活では出なかった

■2002年
近くの神経内科を受診。初期の痴呆だと言われたが、特に治療はなく、生活に支障がないので特に何も…という話だった。
この当時は痴呆といっていた頃であり、神経内科の医師であっても痴呆についてくわしいとはいいがたい感じ。
後になって、この分野を看てくれる医師じゃなくてはいけないと分かった。

この頃の症状は日常的には物忘れ程度しかなく、入院していた祖母の入院費支払いなども母がやっていた。
脳の活性化にヨイということを母に勧めても、本人はやる気がなく続かない。

■2003年
急に、見当識障害が出た

市の保健課に相談。
認知症を扱っている病院の家族相談を受ける。
でも、その先に進めない。受診出来ない。

保健課の保健師は「とにかく受診して」としか言わないし、家族相談のワーカーは「受診しやすくなるまで待つのも方法」などと言った。
こっちは八方ふさがりな気持になり、萎え、もうどうしていいかわからない状態に。

介護認定のことは知っていたが、サービスは受診して認定をうけあ後でなくては受けられないと思いこんでいたので、いわゆる介護事業所に連絡を取るのは認定の後と考えていた。そうではないことを知っていたらもう少し早く介護サービスを受けられたのにと思う。

それから何ヶ月か後、近所の方が「市役所に言ってあげる」と声をかけてくれた。その時の私は「保健課に相談したけどダメだったから」と期待をしていなかったけれども、介護者家族ではなく他人が役所に連絡したことで「苦情」とみなされ、介護福祉課の相談員にたどり着き在宅支援センターに連絡が行くという皮肉な結果に。

介護認定介護度1。

2007年のビゴ母

2009-02-12 | ●母の状態と経緯
HPには、介護認定から2006年までの母の様子をまとめてあるけれど、2007年からは「プログ記事を読んでくだされ」的に手を付けず状態。
ここはやはり簡単にでもまとめておこうと思いたち、HPからこの記事にリンクを貼ることにした。
単純に「覚え書き」のようなもんです。

まず、2007年から。

■2006年末に大腿骨骨頭骨折手術を負えて退院。1月5日からデイ再開。

―1月
元旦から意識レベル低下のイメージ。昼夜逆転気味で四日にめまい。
入院、退院といった環境の変化のせいだったのかと今は思うが、この時は、入院中のビゴ母がまるで何年もそこにいるようになじんでいたのでストレスがあったとは考えられなかった。
5日、デイ再開初日、強い拒否。30分の格闘(?)の末いったん中止。一時間後にもう一度迎えに来てもらいデイへ行った。
この日の前後、夜中に何度も起きる。めまい。嘔吐等か出ている。
12日、中耳炎を患ったことがあり左耳が聞こえにくいというのもあるので耳のせい?などと思いまず耳鼻科へ行ってみた。自律神経失調症と診断。
16日、睡眠薬服用
18日、AM四時に徘徊
妄想も強く、夜中に起きることが続く……。

―2月
夜中に起きる、めまい、嘔吐続く。さらに失禁が出始めた。
脳外科を受診するべきとだと助言され(デイの看護師)しぶしぶ受診。
結果異常なし。だって自律神経失調症って言われたんだからさ~~と内心思う。
その後いつもの内科の先生にも聞いてみたが、脳に以上がある時のめまいはあきらかにもっと違う…うまく言葉にかけないけど、とにかくそんなもんではないからと言われた。しかしデイとしては何かあってはコワイだろうし過敏になるのも仕方ないか?

―3月
めまい、嘔吐は止まる。
妄想が激しい。何度かの失禁と徘徊

―4月
5日、朝、冷蔵庫の梅干しが……タネだけになっていた。夜中に食べたらしい。
徘徊まで行かないが、玄関の出入りが激しく続く。
失禁も増えている。デイから帰るなり間に合わず…ということが多い。
帰りの車に乗る前にトイレをお願いしているけど、おそらく「出ない」というのだろう。
21日、ショートから帰ってた夜、3時、四時、六時の3回、トイレに行くといって外に出た。
ショートから帰るとプチ興奮状態で、失禁もある。

―5月
今度は梅干しではなく夜中にバナナ。
玄関の出入り、夜中に起きる、徘徊……と、落ち着きナシ
19日、デイで嘔吐
失禁は3回。

―6月
玄関出入りが続く。
11日、デイから帰るとスカートを脱ぎ、そのまま外へ行ってしまった。下半身はパンスト姿……(^◇^;)
慌てて追いかけ、外にいた近所の方に「スカートナシのヘンな人みませんでしたか」と聞く。
二人の方に情報を得て短時間にて身柄確保。私が探しに行った方向から戻るまでお二人とも外で待っていた。
12日、ついにベンの汚れが……。紙パンツ購入。
17日、午後から8回も徘徊に出る。夜中も起きる。元気だ。
24日、徘徊。見失い警察に連絡。
25日、徘徊。
26日、夜間失禁。2日前にも失禁していたので、紙Pを使用してみる。
28日、紙P脱ぐ。

―七月
失禁は二度。徘徊が多い。

―八月
前半は比較的穏やか。
19~22日、ショートで失禁対応布パンツを紛失(高いのに……(T_T)謝ってもくれない)ショート帰宅後失禁。
23から26まで連続失禁。ベン失禁もあり。
28日、PM8時迷子になる。10時45分保護される。
29日、ベン失禁。
31日、失禁。

―9月
完全紙Pにする。が………パットむしり、紙P脱ぎがしばしば起こるため、落ち着いているかな…と言うときには布パンツに戻すことに。

―10月
やはり、パットむしり(ライフリーのものはマジックテープでパンツにしっかりはりつくので簡単にとれない)、さらには「紙Pちぎり」が続く。
28日、徘徊40分程度。

―11月
相変わらず、「むしり」や「紙P脱ぎ」がある。一度脱ぐとなかなかはいてくれないのが悩み。
夕食の仕度からその後始末までの間、落ちつきがないので、こちらの仕事も進まない。
主婦感覚が残り、片づけなくては…と思うようだが実際には出来ないのでこちらの負担ばかりが大きくなる。
私のイライラ度がひどくなり、母の血圧の薬を貰いに行った内科で泣き崩れるという事態に……。

―12月
夕食時がツライのは変わらず。
「ムシリ」と「紙P脱ぎ」は時々出ている。
薬拒否もまだある。
16日、足が痛いらしいのだが、どこが痛いのか……効いてもワカラナイ。
19日、整形外科の定期検診時に足を痛がることを告げ診察して貰う。「変形膝関節症」と診断されるが、まだ大したことはなく痛いときだけ飲むように薬を貰う。
数日服用で痛みはなくなったようで、2008年12月の今も、特に症状の進行はない。

この年の秋以降から徘徊が減り、排泄問題が浮上。
この時はまだパットを取ったり、紙パンツを脱いだりという困ったコトが頻繁だったんだな~~とおもいを巡らす。
現在は、取ったり脱いだりはほとんどない。(ベンで汚した時くらい)
2007年はまだ少なかった妄想や幻覚が今はかなりの頻度。

介護度はずっと変わらず3のまま。

覚え書き・2008年のビゴ母

2009-01-24 | ●母の状態と経緯
これはHPからのリンク用。2008年の母の記録です。

一月
便失禁数回。
紙Pを脱ぐことがあるのでイライラする
話の内容がワカラナイ
多弁
23日、介護認定更新の調査日

二月
前半、紙P脱ぎが続く
自宅入浴がかなかな難しい
13日、介護認定通知来る…介護度は変わらず3。医師の決定により更新期間は二年になる。 「多幸的」という診断。
後半、デイから帰ると落ち着きがない状態がやや続く。
新しいヘルパーに問題あり。
(本人に「いくつなの?」と聞き、答えられない母が「いくつだったかしら?」とごまかしているのに執拗に聞き続ける。本人がいる前で私に「いつからこうなったのか?」とか「どんなきっかけで気付いたのか?」など無遠慮に質問する。果ては「子供のことはすぐ忘れるんですよね」などと無神経なことを言う)
「困った」ということが増える。何に困っているかは不明。テンションがさがりっぱなし。29日、帯状疱疹であることが判明
ヘルパーについてはケアマネに相談。担当をはずして貰う。

3月
帯状疱疹はそれほどひどくなることなく、薬の服用で治癒の方向へ
エレクトーンを使って「ミュージックセラピーもどき」をしてみた。
12日くらいから、足を痛がる。 結果として帯状疱疹の後遺症だったが、分からず、手術した足の問題か?などと思い整形外科を受診。
月一の内科受診で後遺症の可能性大となり薬を貰う→完治

4月
落ち着きなし。よくシャベルが意味がよくワカラナイ。
多幸的な反面、逆スイッチが入ると、悲観的、困った、その他半泣き状態で、寂しい、不安…な感じを表出する。(おかーさん、行っちゃイヤ…など子供のような時がある。)
朝、起きるのが遅くデイの迎えをズラして貰う事が増える

5月
軟便傾向。便失禁も増える。
末に徘徊一度あり。

6月
軟便だったり、出なかったりする。軽めの下剤、下痢止め、両方出して貰うが、使うタイミングは難しいので、あまり使っていない。
何日も出なくても出るときは軟便だったりする。
24日、まりさん&まり母サマとで帯広動物園に行った。最初からお友達状態の母(^◇^;)。

七月
野球観戦のため、久しぶりにショートステイを使う(いつもはデイでの保険外事業一泊を利用)。帰ってから落ちつきなく、ハイテンションのまま。
多弁、落ち着きなし状態。
便も軟便で、失禁するので始末にイライラする。まだ慣れない。気持ち悪くなる。

八月
多弁な母。子供みたいな母。この両方が出る。
相変わらず、便失禁…軟便。紙P脱ぎやバットはずしがあるので始末に困る。
大きめのパットは×
一月おきの整形外科検査では、手術したほうの大腿骨骨頭はイビツなまま推移。

9月
朝早くから起きてウロウロする日と、起こしてもなかなか起きない日がある。
多弁。失禁。
少し前からぬいぐるみと人形を母の寝室に飾っていた。最近、人形に話しかける。

10月
人形に対する愛情?。目が合うと挨拶。幼い子と思っている。生きている?
スイッチが入ると、一時間くらいはずっーーと話しかけている。そして疲れてウトウト。
初旬、風邪ひく。私も移り母より重症… ( ̄◇ ̄;)
17日、デイの閉鎖に伴い主任が説明に来る。仕方ないことだがそ閉鎖理由は納得出来ず。
22日、整形外科検査。イビツなまま変化ないので「このまま大丈夫か?」ということになり次の検診は来年3月となる。
23日、デイで嘔吐。11時半にデイから病院へ行くことに。診断の結果問題なし。病院に着いた頃には元気になっていた。半日損した感じ。
24日、閉鎖になるデイと同じ法人が経営する別のデイを見学したが、昔の老人ホームの大部屋を区切って使っている感じで落ち着きがない場所だった。

11月
1日、ネットを通しで情報をいただいた「Fの家」見学。少人数制で家庭的。
幻覚増える。
「多弁、ハイテンション」と「悲観的状態」の二つが出た消えたり。
紙Pを脱ぐことがなくなってきた。
便についても、こっちが慣れてきた。
起きたら出ていることが多くなり大抵が軟便だ。

12月
時々、自分でトイレに行き排便することがある。
便失禁したときにトイレ誘導するのが難しい。拒否する。
18日、Fの家、一日体験。以前からいる人みたい。
多幸的と悲観的が出たり消えたり、多弁、幻覚、尿失禁と便失禁、夜はよく寝る……という状態で、とりあえずの落ち着き。
徘徊はほぼないが、玄関を出ようとはする。ただ、以前のように固い決意で「帰る」というのではないので、「暗いよ」とか「寒いよ」などの声かけで簡単に戻ってくる。
「Fの家」と契約。一ヶ月の間に事情が変わり希望の曜日が取れなかったのがショック。
30日、最後のデイ終了。スタッフと挨拶。母も意味など分からずに丁寧な挨拶をくり返した。

■この一年で変化したこと

話が通じにくくなっている。日本語だけど意味が不明。
尿失禁、便失禁が増えるが、紙Pやパットを取る頻度は減少しているのでかえって以前より失敗は少ない。
子供みたいな言動が出る
多幸的状態と悲観的状態が出たり引っ込んだりする
拒否の頻度は減る
落ち着きのない状態がよくある。(なにか不安なのか?)

■あまり変わらないこと

文字を読むこと。ローマ字も読む。
愛想の良さ、コミュニケーション力。丁寧な挨拶。
食事、着替えなどの自立度
多弁、幻覚