「介護録」とユルユル日記

介護終了、ブログタイトルかえました。

ご挨拶

2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。

介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。

今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。

タティング

タティングは↓こちらに 写真をアップしていくことにしました。
お暇が出来たらのぞいてやって下さい。
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介護:介護はだんだん「切なく」なる?

2014-06-30 | ●介護録(~2015.2月)

認知症の進行は人によるし、介護環境も違うので
人それぞれなんだろうけども…

認知症の介護って最後は「切なさ」かな~~と思うこの頃

家族が認知症になると
まず最初にくる思いは「否定とか拒絶」
まさか、そんなことあるはずない。
信じたくない、現実逃避。
心のどこかで、誤診かも…とか、奇跡が起きるかもなんて思ったりして。

やがては「あきらめ」
目の前のすべてを受け入れる

無条件の「受容」
ここから新しい関係が始まる…とよく本に書かれていた。

母の場合、介護度2から3、4の初期くらいが長かった。
よく動くし、口もまだ達者で(でも真実とは違う話をする)大変な時期。
こっちの精神が疲弊する
イライラもする
怒りもある
そして悲しくもある
なんでこんな目に遭うんだ~~という思いで泣けてくる

キツイ

だけど
介護度4後半から5になると進行が早かった。
車椅子になる
言葉がでていても意味不明なので腹も立たない
いわゆる行動障害(問題行動)もなくなる

そこからは、認知症の母は「守るべき人」になっていった

誤嚥性肺炎にならなかったら今もまだ在宅しているかな?
だんだんと体力勝負になってきて(介助場面か増えるしスキルが必要になる)
介護する自信、喪失しているかも?


ほぼ寝たきりになって、みるからに脳が働いてないとわかる状態を見ていると
ただただ
切ない…と思う。

食欲は最後の砦だろうに、ソレさえも禁止。

何か訴えたいことがあるからこそ、泣き顔になったり、声が出たりするんだろうに
その意味がわからない

あんなにも行動障害に打ちのめされていたことも
もう遠い思い出になりつつある


でも

私の知り合いの方は母より一回りくらい上で90才を越えている。
知り合った頃は母と同じくらいの認知症だったのに
それから数年たっても変わらない。あまり進行していない。

そんな認知症の方もいる。

高齢なので身体的にはいろいろあるけれど認知症に関しては今もバリバリとお口が達者である。
そのため介護者は今も「言葉」に疲れている

つい、
問題はありつつもそこそこ会話成立することがうらやましい…と思ってしまう。

もちろん、そんな単純でないのはわかってる。


母がここまで進行する前は
母に対して嫌な思い出ばかりが残される…と思っていた。
徘徊して警察の世話になり、説教され
他人様に迷惑をかけて謝ったり
鍵を隠したのなんのと言われたり
着替えてくれといっても拒否
私のことを他人と言う、産んでないという……etc.

こんなことが近々の思い出になるのか…と。

でも、違った

残される思い出は「切なさ」らしい。




「猫カフェWish」

2014-06-30 | ▼ユルユル日常

猫カフェWishさんに行ってきた。

前々から行きたいと思っていた。

保健所から引き取られた猫ちゃんたちが里親を待っている。
飼いたいけど、今ところ賃貸だから無理。

エイズキャリアの猫ちゃん専用ルーム、四肢欠損などのハンデを持つ猫ちゃん専用ルームもある。

二階が健康な猫たちの部屋であると説明を受けた時
「二階が普通の猫の部屋なんですね」と言ってしまったため
「みんな普通の猫なんですけど」
とグサッと一刺しされてしまいました。

差別とかそんなつもりではなかったけど、健康な…という意味合いで言ったんだけど
「普通」って難しい言葉だな…
「普通の毎日」とか、そんな使い方の時って、イイ意味合いで使うんだれけども……

まあ、それはそれとして

猫ちゃんたちは穏やか

エイズキャリアの松五郎くん、生まれて半年のガリ男くん、なんかひかれた(*^_^*)






 

 

 


終末ケアと胃ろう、あーでもない、こーでもない

2014-06-24 | ●介護録(~2015.2月)

↓こちらは脳外科医のブログ記事です。

終末期の栄養投与

胃ろうについて①

胃ろうについて②

胃ろうについて③

とても読みやすかったのでおすすめします。
この医師は、進行した認知症高齢者に対して胃ロウは余り意味がないという立場。



母の入院時、「胃瘻の選択もあり得る」と医師(一般病棟の)に言われていろいろ考えた

なぜ悩んだのか…
それは「胃瘻が無駄な延命」という声が大きくなってきた時だったからかもしれない
胃に穴を開けて栄養…という行為に抵抗があるというより
無駄な延命を選択するのは「家族のエゴ?」という思いに悩んだような気がする
とはいえ
生きている家族を目の当たりにしたら、簡単に「胃瘻は無駄」とも思えなかった


私は母が痙攣を起こした頃から
脳の機能低下が以前よりスピードアップしていて、先はそう長くないと感じ、看取りに関する本を読んでいた
病院に行かない系の本も売れていた
その中では当然、胃瘻は否定的に書かれていた

こうした本やネットで出てくる「胃瘻否定」は
大抵が(たまたま私が見たモノは)
「食べられなくなったら終わり」
「人としての尊厳云々」
というようなもので
なんとなく漠然としていたし情緒的
結局、もやもやしたものが晴れなかった
医師が書いたものでも、結構、簡単に「これで生きているといえるのか」的な書き方だったりもした

だからやっぱり「第三者は簡単に否定するけど自分の家族がそうなっても同じ態度をとれる?」
という思いになってそこで堂々巡りをしていた。


結果的に母の場合
療養病棟の医師には最初から胃瘻の選択はなかったようで
中心静脈注射が続けられている
脚の付け根から点滴する…とは言われたけど
それが中心~であることを私は最初知らなかった

そして、もう胃ろうはナシなんだとわかった後の私は
「もし療養病棟に移った早々、今より体力があった時に胃ロウにしていたら
多少、体の状態がよくなり、ゼリーくらい最期の時まで食べられたのでは?」
という思いでモヤモヤしていた。

しかし↑の医師のブログ記事によると

進行した認知症の高齢者は、胃ろうにしたところで
栄養状態の改善は期待できないようだ。

脳の機能が低下している体はだんだんと衰えるのが自然の摂理

外からどれほどの栄養を与えてもそもそもそれらを吸収する力が衰えていること
むしろそれが負担になること
そうした理由がわかりやすく書かれていて
医学的視点からの説明が
いくらか気持ちをフラットにしてくれたような気がする

でもね…簡単に晴れ晴れ~~というわけではなくて
(もう母はこのまま中心静脈注射でいくけれども)
やはり今も、胃ロウの選択を迫られたら、簡単に決断できないような気がしている


胃ロウは栄養補給ルートとしては鼻からや中心静脈注射より優れている
本人負担も多分少ない
ケアの観点からみても管理しやすいらしい
さらに口から摂取と併用も出来る
なので、一時的に食べられないなど口から摂取が再開出来るであろう人にとって有効な手段。

母のように進行した認知症では口からの再開はナイないので
胃ロウにより「栄養状態の改善、褥瘡予防、誤嚥性肺炎予防になる」など
と言われていることに根拠がない(2006年、アメリカの報告)のならば
胃ロウにする必要性かない…ということになるようだ。

ただし胃ロウ推進派の方が
アメリカの報告は古く、現在は胃ロウ後のケアが進歩しているからその報告を鵜呑みにすることはない
…と書いているのを見たことがある。
胃ロウ後の正しいケアが大事ということらしい。

在宅介護について書かれたある本の中では
胃ロウ>鼻>中心静脈注射の順で、余命の平均年数が書かれていた
その差は半年から一年未満くらい
ブログの医師は
これらの方法で生命予後に明らかな違いはない…としている

生命予後に半年程度の差があるとして
その差をどう考える?
私は単純に長生きしてほしいと思う気持ちがあるけれど
母を見ると
もう、いいよね…と感じたりする
でもひょっとしたら本人は、少しでも長く生きたいと思うのかもしれないし……
ああ、だから…
だから自然の摂理に任せるんだ…と言ってしまうと
食べられなくなったら終わりでしょ
ということになる
だったら
母の中心静脈注射もはずす?
外からの栄養注入という視点から見れば
胃ロウも鼻からも中心~も同じこと
胃ロウだけが人の尊厳云々というのはどうなんだ?
ただ胃にアナをあけるから否定?
中心静脈注射はずっーーー点滴につながれたままだし
その点胃ロウのほうがいいんじゃないか?

………などと考えると、わけわからなくなる

が、が、が………
ポイントは、進行した認知症ということか?

脳は衰える
体の各機能も衰える
もう過度の栄養はいらない
むしろ負担

でも

実際に家族が胃ロウになった方が
在宅介護をしながら「やってよかった」と語る
胃に栄養を注ぎながら「表情がよくなった」と感じたり
ペットの動きを二人で見ながら笑い合い「生きていてくれてよかった」と思う

その瞬間を否定する権利は誰にもない。

だからやっぱり私はわからない…わからないまま…
賛成も反対も出来ない

ただ

進行した母には胃ロウにしてまでの栄養注入は負担
このままの終末でいいんだ…と…
そういう気持ちをかみしめている

そう思えたのは、脳外科医のプログ記事を読んだから…

ただね…なんだろ、この認知症による終末

とても切ない



今日もカピカピ

2014-06-16 | ●介護録(~2015.2月)

目やにはなかなか手強い。
今日も目のまわりはカピカピだった
髪が顔に張り付いている。

ついでに
サクション後の口まわりの汚れが放置されてるから、乾いた汚れがつきほうだい。

カピカピを拭き取ってくれないわけではないけど、頻繁には出来ないからカピカピ
ついつい気になるのが家族。

でも私もイロイロ油断してた。
脚のムダ毛と耳掃除。

着替えもおパンツ換えもしないから脚のムダ毛なんてしばらく気づかなかった。
耳掃除に関しては完全に忘れてた。

…………………………………

ここのところ、母は起きていることが多く、声が出たり、うなづいたり、ちょっといい感じではある。
もう少し体力があれば…
もう少し痰が少なければ…
まあどちらも無理な話。

痰が少ない日もあれば
短い間隔でサクション使用という時もある。

サクションを使ってる時
母の視線が、看護師さんに向く。
ジロっと……睨むように
サクションしてる看護師さんに、
何でこんなことするのーと言ってるみたい

理屈がわかってるのにこんなことしたら看護師さんに嫌われそうだけど
認知症も進行してる母だと
こんなレベルの意思表示?が好意的に受け取られる。
笑いのネタになる。

全くの他人とか
短い時間向き合うだけとか
施設や病院のように対応する側が複数だったりすると
認知症者の妄想や作り話などの荒唐無稽な?物語も楽しく聞ける場合もある
笑える面白い話も多々あり、その場が和むこともある
実際、施設職員が
「癒やしになる」と言っているのも聞いた
(もちろん、そうでないコトもたくさんあるけれど)

うちの母も、入院前には
笑顔もあったし
たまに「ありがとうございます」とか「すみません」「うれしい」なんてことも言っていた
入院している今、それくらいの言葉がでると
看護師や介護職員にももっと話しかけてもらえるだろうに…と思う

「快」よりも「不快」のほうが表にでるのよね~~
嫌…
痛い…
熱い…
寒い…
言葉がだんだん出なくなっても不快の言葉はパッとでるコトが多かった

こっちとしては
「快」の言葉が聞きたいんだけど………






介護:なにやら混乱…

2014-06-07 | ●介護録(~2015.2月)

昨日の母は調子よかった
車椅子にも乗ったし、朝からタンの量も少なく
面会のときも起きていた

夕方になってタンが絡み出した時
「大丈夫?」と声をかけたら
珍しく、ホントに珍しく
「ウン」とうなづいた。

その後、私と看護師さんが母の枕元で話していたんだけど
会話が聞こえているかのように
なにか、返事のような、相づちのような反応をみせた
私が一人で話しかけるより
誰かとの会話のほうが反応があるように思える。

理解しているかはともかくとして、聞こえている、聞いている……
そういう何かはあるんだろう

 

この看護師さんと話している中で

「胃瘻の希望はないんでしたよね」
と言われ……

えっ……………?????

そんな話はしたことがない。

それってつまり
希望したら胃瘻に出来るということ?

でも
認知症も進んでいる
胃瘻にしたところでいくらかの延命
少しでも長く生きてほしいけど
認知症で介護度5で食べられなくてそれでも母は生きたい?

だから
看護師さんの言葉に
「いえ、希望します」と即答も出来ず
療養病棟に移るときに医師(一般病棟の)から言われた
「食事を止め嚥下訓練をする。その結果によって胃瘻の選択もあり」
を看護師に話し
胃瘻のことを考えながら嚥下訓練を待っていたけど
いっこうに始まらないし、母の様子を見ていても
嚥下訓練自体が無理なんだろう…と思っていたと言った

すると嚥下訓練に関しては
「多分、リハビリの人が見て嚥下は無理と判断したんだと思います」
と看護師。
(まあ、そうなんだろうけど、それがなぜ私に伝わらないの?今になって「多分…思います」って…)

先月初めに療養病棟の医師から
「退院はない」といわれ、
さらにそのときがGW直前で医師が休むらしくその間のシフト体勢と
緊急時にはどうのこうの……という話をされた私は
あれ、なんかもう死ぬの?
という気分になっていて…
もはや母の状態は、今更胃瘻云々というレベルでもないんだな…と…
以後、そういう気持ちでいた。

なのに…今
胃瘻の希望はないんでしたよね…
と言われ……

私は何も一度も選択していないんだけど………

頭の中に「?」が広がる
でも看護師がそこで誰かに呼ばれて話は中断。


入院したばかり頃は当然今より体力があり反応もよかった
笑い顔もあったし言葉もあった(意味不明だけど)
エア食べもしていた
だから
ただ、飲み込みが出来ないだけで体は生きる力があるのだから
胃瘻を選択しよう…と、そう思えた

でも
長い点滴生活でやせてしまって体力も落ちて反応もにぶくなった母を見て
さらに退院はないという医師の言葉に
終末を意識しだして、もう今更…と、そんな思いをもってきた


ある本の中で医師が
点滴のせいでタンがでる(増える?だったかな)
というようなコトを書いていた
そんなことを思い出すと
もしかして胃瘻にしたらタンが減る?
なとど考えてみたり

でも吸引が不要にはならないだろうし
結局入院生活は変わらないのなら
その状態で命伸びても……とも思う
自宅で吸引している人もいるのだけど
訪問医療で在宅介護する覚悟が自分にあるか?

……ああ、混乱
思考停止