ご挨拶
2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。
介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。
今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。
2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。
介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。
今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。
めちゃめちゃ暑かった昨日…
夕方に雷と大雨
病院行こうとしていたときだったから、ちょっと様子をみることに。
………するとなんか急にお腹が~~~~痛い…痛い……
いろいろ?!済まして落ち着いたけど、すぐに完全回復とはならなかったので
胃が~~
お腹が~~と思いながらベッドに
気づいたら六時
寝てたらしい
今日も曇ってるのにドヨンと暑い……(-_-;)
………………………………………
母がお世話になっている病院は看護師、介護職、事務その他…
すれ違うと「こんにちは」と声かけしてくれる。
顔見知りだろうとなかろうと、ほぼみんなといっていいくらい。
母が骨折して初めてここにお世話になったんだけど
一階ロビーでボッーと座っていたら
廊下からこっちに向かって歩いてきた事務職らしき男性が
「こんにちは」と私に声かけながら通り過ぎていき
えっ?知り合い?と、驚いたのを今も覚えている。
そして、そのときの主治医
とにかく人当たりが柔らかく、優しく、なんでも聞ける、そんな先生。
当時の母は介護度3程度だったので何かと大変で
退院後の定期検診に連れて行くのは大仕事
その頃は小規模多機能ではなかったので通院のヘルプはしてもらえない
もう毎月、イライラしながら通院していたのだけど
診察が始まって主治医に接すると
自分のトゲトゲな心がマシュマロになるくらい。
自分はこの先生に救われているな~~と感じていた。
先日、デイルームでボッとしいたら、廊下の先で
その主治医が知り合いらしい患者さんに声を掛けているところを目にした
変わらない優しい言葉、声でした。
人によっては
マイナスイメージを持っている人もいるんだろうけど
私はよいイメージ
小規模多機能も同じ法人だから
何をするにしても連絡がスムーズだったし介護者としては楽…というのもある。
それでも…
療養病棟で長くお世話になるってのは………やっぱり……タメイキ
出来きることなら、やはり「病院」ではなく「介護施設」がよいな…と思ったりする。
少しでも普通の家に近い方が…と。
といっても本人がどう感じているかは不明なんだけど。
母は四人部屋
先週だったか「これ、ビゴさんちのですか?」と介護職の方に聞かれた
花柄のタオル。
うちのではなかったから「違います」と答えた
名前が書いてないので誰のかわからないという
その数日後
そのタオルがうちのロッカーの洗濯物入れの中に入っていたので
帰り際に、そのことを伝えたら
「すみません」といいながら点検していた介護職が
「○○(うちの名字)って書いてあります」という
えっ………………
見たらサインペンで○○って書いてある。
でも、うちのではない!
うちの名字はよくある名前なので
「ほかの○○さんじゃないですか?」と言ったけども
この病棟に○○さんはうちだけだという
なにかの行き違いで
「ビゴさんちのではない」が「ビゴさんちのタオル」に化けて
「名前、かいておきましょ」ってことになったんだろけど
うーーーーん、こういうのはなんかややこしい。
だって、その二日後
またそのタオル、うちのロッカーに入ってたんだもの
この日は帰るまで看護師も介護職にも会わなかったので
タオルは病室の窓際の椅子に掛けて帰ってきたんだけど
またうちのロッカーに入ってるような予感
名前書くのはやめてほしいわ~~
迷子のタオルはいったい誰の?
『今まで長い間
長し(「流し」のこと)の要事(この場合は「用事」)
どうもありがとう
これからも宜しくね
どうもありがとう
これからも あきないで遊びに来てね(「来」は旧漢字で書かれていた)
待っているよ
釧路(「路」は「足」しか書いてない)から来る(旧漢字)のを待っているよ
首を長くして待っているよ
家方(意味不明)首を長くして待っているよ』
↑は、骨折で入院中の母が書いたもの
まだまだ元気だったので
手術前、一般病棟にいる時
夕方の、看護師が最も手薄になる時間に
いわば、「見張り」のため毎日面会していた
(折れているにも関わらず歩く母。
折れた大腿骨骨頭が骨盤にカポンとはまり?歩けてしまうのでした)
時間をもてあますので、手紙でも書いたら?
と、ミニ便せんを母に渡したら
書き出したのが↑の手紙
母が字を書くことはほとんどなくなっていたので保管していた。
解説すると
「流しの用事」をやっているのは「私」
そして「私」は母と同居
だけど「遊びに来てね」となっている
「釧路から来る」のは母のすぐ下の妹夫婦
その妹がやってきて家事などやってくれている
…という認識らしい
母は介護認定を受けた最初のころから
私を
「妹」だったり「他人」だったり
あるいは、「私」であっても「子供のまま」であることが多かった。
果たして一日24時間、どのくらい「娘」を「娘」として見ていたのか?
少なくともこの手紙を書いている時は
いつもいろいろやってくれる人は娘ではなく妹という認識だったわけで
…ということは
このとき母の隣にいた「私」は何者?
「娘である私」?
それとも全くの他人?病院の人?
この手紙を見たときの思いは記憶している
まだ漢字もかけるし文章も書けるんだ…という思い
ああ、でも私のことやはりわかってないんだな…という思い
悔しいような悲しいような…
なぜ、叔母(妹)なの?
叔母の名前は母の口からよく出ていた
逆に、私は名前を呼ばれることが少なくなるばかり……
まあ、そんなことも今は昔…
他人様でもコミュニケーションをとれた頃がなつかしい
………そんな風に思うほどになってしまったデス(T_T)