※HP閉鎖予定につき、HPの記事を修正しつついくつかこちらに移動することにしました。この記事はその一つです。
■2000年
思い返すと「物忘れ」はこの頃から(それ以前?)あったと思うが、年齢のせいくらいにしか想っていなかった。
引っ越ししても新しい住所がなかなか覚えられないことに、ある種の不安を監視だ私だけど、「まさか…」という気持のほうが強かったように思う。
■2001年
母方の祖父の葬儀で言動がおかしくなる。
葬儀であることを理解しない、どうしてここにいるのか?と言い、自分の父がなくなったことを忘れてしまう。
十年ぶりくらいで会った姪と甥の顔を覚えられない。
しかし、これはこの時だけ。
日常生活では出なかった
■2002年
近くの神経内科を受診。初期の痴呆だと言われたが、特に治療はなく、生活に支障がないので特に何も…という話だった。
この当時は痴呆といっていた頃であり、神経内科の医師であっても痴呆についてくわしいとはいいがたい感じ。
後になって、この分野を看てくれる医師じゃなくてはいけないと分かった。
この頃の症状は日常的には物忘れ程度しかなく、入院していた祖母の入院費支払いなども母がやっていた。
脳の活性化にヨイということを母に勧めても、本人はやる気がなく続かない。
■2003年
急に、見当識障害が出た
市の保健課に相談。
認知症を扱っている病院の家族相談を受ける。
でも、その先に進めない。受診出来ない。
保健課の保健師は「とにかく受診して」としか言わないし、家族相談のワーカーは「受診しやすくなるまで待つのも方法」などと言った。
こっちは八方ふさがりな気持になり、萎え、もうどうしていいかわからない状態に。
介護認定のことは知っていたが、サービスは受診して認定をうけあ後でなくては受けられないと思いこんでいたので、いわゆる介護事業所に連絡を取るのは認定の後と考えていた。そうではないことを知っていたらもう少し早く介護サービスを受けられたのにと思う。
それから何ヶ月か後、近所の方が「市役所に言ってあげる」と声をかけてくれた。その時の私は「保健課に相談したけどダメだったから」と期待をしていなかったけれども、介護者家族ではなく他人が役所に連絡したことで「苦情」とみなされ、介護福祉課の相談員にたどり着き在宅支援センターに連絡が行くという皮肉な結果に。
介護認定介護度1。
■2000年
思い返すと「物忘れ」はこの頃から(それ以前?)あったと思うが、年齢のせいくらいにしか想っていなかった。
引っ越ししても新しい住所がなかなか覚えられないことに、ある種の不安を監視だ私だけど、「まさか…」という気持のほうが強かったように思う。
■2001年
母方の祖父の葬儀で言動がおかしくなる。
葬儀であることを理解しない、どうしてここにいるのか?と言い、自分の父がなくなったことを忘れてしまう。
十年ぶりくらいで会った姪と甥の顔を覚えられない。
しかし、これはこの時だけ。
日常生活では出なかった
■2002年
近くの神経内科を受診。初期の痴呆だと言われたが、特に治療はなく、生活に支障がないので特に何も…という話だった。
この当時は痴呆といっていた頃であり、神経内科の医師であっても痴呆についてくわしいとはいいがたい感じ。
後になって、この分野を看てくれる医師じゃなくてはいけないと分かった。
この頃の症状は日常的には物忘れ程度しかなく、入院していた祖母の入院費支払いなども母がやっていた。
脳の活性化にヨイということを母に勧めても、本人はやる気がなく続かない。
■2003年
急に、見当識障害が出た
市の保健課に相談。
認知症を扱っている病院の家族相談を受ける。
でも、その先に進めない。受診出来ない。
保健課の保健師は「とにかく受診して」としか言わないし、家族相談のワーカーは「受診しやすくなるまで待つのも方法」などと言った。
こっちは八方ふさがりな気持になり、萎え、もうどうしていいかわからない状態に。
介護認定のことは知っていたが、サービスは受診して認定をうけあ後でなくては受けられないと思いこんでいたので、いわゆる介護事業所に連絡を取るのは認定の後と考えていた。そうではないことを知っていたらもう少し早く介護サービスを受けられたのにと思う。
それから何ヶ月か後、近所の方が「市役所に言ってあげる」と声をかけてくれた。その時の私は「保健課に相談したけどダメだったから」と期待をしていなかったけれども、介護者家族ではなく他人が役所に連絡したことで「苦情」とみなされ、介護福祉課の相談員にたどり着き在宅支援センターに連絡が行くという皮肉な結果に。
介護認定介護度1。
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