令和4年12月26日(月)
伊賀上野城

伊賀上野公園内に在る「芭蕉翁記念館」を出て、上野城へ向かう。

公園入口、

案内図、

上野城跡、
公園南の通りを挟み、上野西小学校の立派な土塀が連なる。


上野西小学校前、
土塀の上には屋根瓦を施し、上部が土塀で中央より下部は板
の格子がはめ込んだ大層立派な塀が続いている。
城下の街並みへタイムスリップしたような感じする。

土塀が切れた所を右折すると城門があり、其処を潜り石段が
続く。
孫達は急ぎ駆けあがって行くが、私はカミさんとゆっくりと
一歩づつ石段を踏みしめ、途中歩を止めて休みながら進む。

登り切った右手の木々の間から天守閣が見えた。
思ったより、立派な大天守閣である。
登り切った高台(広場)の先に「高石垣」があり、孫達は親
に注意されつつ、下の堀を眺めていた。(囲い垣がな)

私達も、恐る恐る石垣に手を添え、下を覗き込む、、、、。
(さすがに日本一を競う高石垣である、、、)
天守閣へ、


天守閣への石段、

石段を上がると、入口に鯱(天守にある物と同じ)、

入場するとふれ太鼓(登城を告げる)、

正面に藤堂高虎の像がある。


藤堂高虎の兜、

藤堂高虎の家系図

父:虎高、母:とら、とある? トラさんもビックリ
荒木又右エ門、鍵屋の辻仇討ちの錦絵(歌舞伎演目)

天守閣上階への階段(勾配が急で降りる際怖い)

伊賀上野城は天正13年(1585年)、羽柴秀吉の命を受け
郡山から上野城主となった、筒井定次が天守・本丸等を築いた。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、城を明け渡す。
慶長16年(1611年)築城の名手とされる藤堂高虎が伊賀
に入国し、上野城の大幅な大改修を行った。 完成を間地かに
した慶長17年(1612年)大嵐のために天守が倒壊した。
慶長19年(1614年)家康が関ヶ原の合戦で勝利した後、
高虎は交通便の良い津城を本城とし、上野城を支城とし天守を
立てなかった。(入口に上野城跡と在るのはそのため)
現存の城は昭和10年(1935年)に「伊賀文化産業城」と
して完成した。白塗の層搭型3層3階、高さ23mの大天守と
2層2階の小天守が建てられた。
高石垣は、大阪城の高石垣とともに、高さ日本一を競う。
慶長16年(1611年)に「打込はき」の技法で築いた。
根込みより天端迄の高さは29,7m、三方に折廻して、
総延長368mに及ぶ。
伊賀上野城の天守閣は、後に立てられたもので在るが、
築城に関わった、藤堂高虎の技術の高さは世に知れ渡る。
日本全国の名城と云われる城の多くは藤堂高虎が関わり、
この天守閣2階にそれらの写真が掲げられていた。


名古屋城、彦根城、犬山城なども、
現在の上野高校グランド、上野西小学校等の在場所は武家屋
敷等が在り、城下町が発展していった名残のある街並みが、、
城を出て城下町をぶらつき、暫し喧噪を忘れて、、、、。
今日の1句
手を取りて高石垣の共白髪 ヤギ爺