「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「松尾大社」(まつおたいしゃ)

2006年04月16日 22時10分32秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都の西にひときわ威風を誇る神社がある。古くから「松尾さん」として親しまれている松尾大社は酒の神様としても知られている。古来「日本第一醸造祖神」として仰がれ、全国の酒造家より幅広い信仰を集めている。古伝によれば、聖武天皇の天平5年(733)、社殿背後の御手洗谷より霊泉が湧き出た時、松尾の神の託宣があり「諸人この霊泉を飲めば、諸病を癒し、寿命を延ばすことを得べし。またかの水を以て酒醸し、我に祀らば、寿福増長・家門繁栄すべし」と、告げられとか。

 阪急電鉄嵐山駅のすぐ傍にある当社は京都最古の神社で、太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って、守護神としたのが起源と言われている。5世紀の頃、朝鮮から渡来した秦忌寸都理秦氏がこの地に移住し、山城・丹後の両国を開拓し、河川を治めて農産林業を興した。同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、文武天皇の大宝元年(701)には山麓の現在地に社殿を造営した。
 御神像は、男神像2対、女神像1対の3体あり、平安時代の作で一木彫り。わが国神像中最古の秀作として重要文化財に指定されている。特に女神像は正面、右面、左面、下から上面とそれぞれの角度から見ると、まるで異なった顔に見え、ほりの深さはギリシャ風でもある。
 春の桜、初夏の山吹、六月の紫陽花と、花の神社としても賑わう。曲水の庭をはじめとする名庭も見所である。

 交通:阪急電鉄嵐山線「松尾」下車すぐ。
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「寂光院」(じゃっこういん)

2006年04月13日 19時08分39秒 | 古都逍遥「京都篇」
“京都大原三千院 恋に疲れた女が一人 結城に潮瀬の素描の帯が 池の水面に揺れていた 京都大原三千院 恋に疲れた女が一人”(「女ひとり」永六輔作詞・いずみたく作曲)の名曲で知られる大原、その三千院からの道は大原川の向こう、さらに山深いところにひっそりと美しい寂光院が佇む。山門までの苔に沁みた急な石段をゆっくり登ると、本堂の横の書院に出合う。背後にひろがる雪持ちの樹林。すべての音を吸い込み、まさしく静寂の空間がある。初秋の秋海棠、秋の石段をおおう紅葉の秋彩に目を奪われる。

 昔から都人は雪が降り始めると「寂光院さんへ行きましょう」といい、この山里に出向いたものである。深々と積もり来る白雪に「平家物語」のそこはかとなく哀れさを感じるのであろう。
 しかしながら、この由緒ある寂光院は、平成12年(2000)5月9日、未明、放火によると思われる火災発生、一瞬のうちに炎に包まれ本堂が全焼、約八百年の風雪に耐えた本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)も焼失した。本尊の六万躰地蔵菩薩立像をはじめ、建礼門院座像、阿波ノ内侍張り子座像とともに焼損した。幸いなことに焼け焦げた本尊の胎内に収められていた小像3417体、教典5巻、香袋など、貴重な品々が17個の桐箱に入れて納められており、無傷で保護された。

当時の報道によれば「パチパチと火の粉を噴き上げ、火柱のような猛炎が寝静まった大原の里の夜空を赤く染めた。9日未明に出火した京都市左京区大原の寂光院の本堂は、「夢であってくれ」との祈りもむなしく焼け落ちた。寺関係者や地域住民はぼう然と焼け跡を見つめ、山里の古刹(こさつ)拝観を楽しみに訪れた女性観光客は、突然の火事に驚きを隠せなかった。」と報じた。(京都新聞)

 5年の歳月をかけ、平成17年(2005)6月2日、再建された木造こけら葺き平屋建ての本堂の落慶法要が営まれた。法要には同院や地元の関係者ら約500人が参列。
 第32代瀧澤智明住職は「ようやく落慶を迎え、生涯で一番うれしい日。由緒ある寂光院の継承に精進する」と喜びを語った。しかし「平家物語」に登場し、樹齢千年といわれる本堂前の名木「千年の姫小松」が、立ち枯れたままになっている。

 その「平家物語」に縁が深い清香山寂光院は、推古天皇2年(594)に聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために建てたのを開創とするのが定説であるが、承徳年間(1097~99)良忍の創建説もある。平清盛の娘で、高倉帝の皇后・安徳天皇の母である建礼門院徳子が余生を送ったところとしても有名な尼寺である。
 壇の浦の合戦で建礼門院は幼い安徳天皇を抱いて入水したが、敵方の源氏に捕らえられた。都に戻った建礼門院は寂光院の傍らに庵を結び、安徳天皇と平家一門の冥福をひたすら祈ったといわれている。そんな建礼門院を哀れんで後白河法皇が寂光院に訪れたのが平家物語や謡曲で有名な「大原御幸」である。

 旧本堂(焼失前)は飛鳥・藤原・桃山の三時代の様式からなり、内陣および柱は飛鳥・藤原・平家物語当時のもので、外陣は慶長8年に豊臣秀頼が修復した。建礼門院徳子が、円山公園の長楽寺から文治元年(1185)大原の里に移って小庵を結んだくだりについて平家物語には、『「大原山のおく、寂光院と申す所こそ閑にさぶらへ」と申しければ、「山里は物のさびしき事こそあるなれども、世のうきよりは住みよかんなるものを」とて、おぼしめしたせ給ひけり』と記されている。法皇が当院を訪ねたおり、門院が「思ひきや深山の置くに住ひして 雲井の月をよそに見んとは」と詠い、法皇がこれを受けて「池水に汀の桜散りしきて 池の花こそ盛りなりけれ」と詠んだと伝わっている。
 本堂前の庭の池を汀の池、桜を汀の桜という。建礼門院がおぼろ月夜に姿を映したといわれている朧の清水などもある。 本堂は豊臣秀頼の母・淀君の寄進で、本尊は像内に法華経や地蔵菩薩立像3417体を納めた木造地蔵菩薩立像(焼失前:国重文・鎌倉時代)、書院襖絵は近代の巨匠山本春挙・都路華香の筆、また大原御幸絵巻一巻(桃山時代)を所蔵していた。
 裏門北に建礼門院室跡の碑、寺の北東に建礼門院大原西陵、川を渡った山麓に建礼門院の侍女阿波内侍の墓などがある。

 所在地:京都市左京区大は大原草生町。
 交通:市バス、京都バス大原から徒歩20分。
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「熊野若王子神社」(にゃくおうじ)

2006年04月12日 16時45分39秒 | 古都逍遥「京都篇」
 当社は永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請したのが創祀である。祈願所とされた正東山若王子の鎮守であったが、明治初年の神仏分離によって当社のみが残ったという。足利尊氏、義政が、この地に花を愛で宴を開いたと伝えられ、今日でも東方山中に瀑布が有り、熊野三山の那智大社に相当する奇岩老樹も多く、夏は納涼地、秋は紅葉の名所となっている。花見の宴を開いたとされる所は現在「桜の苑」として整備されており、その高台からは洛中、西山が一望できる。

 社殿は度々荒廃し、明治の修築の際本宮、新宮、那智、若宮などがあったが、現在は一社相殿になっている。なお熊野三山の他の二社は、東大路丸太町にある熊野神社が速玉大社、東大路七条の南にある今熊野神社が本宮に相当するという。熊野詣に当たり、この滝で浄めを行ってから出発したと伝わっている。
 若王子神社は祭神として、天照大神、伊佐那岐(いざなぎ)命、伊佐那美(いざなみ)命、国常立(くにとこたち)命が祀られていて、天照大神の異名「若一王子」からとった社名である。
 境内末社の恵比須社で祀られている恵比須大神は、かっては西洞院中御門(椹木町)あたりの蛭子社で祀られていたが、応仁の乱で神だけ残し焼失、その後この若王子で祀ら
れるようになったとか。蛭子社の傍を恵比須川が流れていたが、現在では“夷川通り”の名だけが残っている。同志社大学を創立した新島襄の墓がこの山頂にある。

 なお、この神社の御神木「椰(なぎ)」の葉で作られたお守りは、あらゆる悩みをナギ倒すとして人気だそうだ。

 所在地:京都市左京区若王子町2
 交通:市バス5番で永観堂前下車、または203番で東天王町、32番で宮ノ前下車
徒歩約10分。

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「詩仙堂丈山寺」(しせんどうじょうざんじ)

2006年04月10日 18時24分13秒 | 古都逍遥「京都篇」
 古都の名刹は四季折々の風情を漂わせているところが多い。その中でも詩仙堂は、その随一なるものがある。
 詩仙堂は徳川家康の元家臣で、江戸初期の文人・石川丈山(いしかわじょうざん)が寛永18年(1641)に隠棲して建てた草庵で、現在は閑静な禅宗の寺院として親しまれている。
丈山の渾身の作と言われる庭は、早春にはカタクリが可憐な花をつけ、若竹の葉ずれのささやき、桜の香りにつつまれた春爛漫、中でも皐の頃は素晴らしく、庭内を覆うかのようにかぐわしく咲き誇る。秋は紅葉を愛でながら猪おどしの寂びた音を聞き歌人たちへの思いをはせる。京都を訪ねる人の多くはこの詩仙堂をまずお目当てにくる。
正しくは「凹凸窠」(おうとつか)と称し、詩仙堂はその一室を指している。「凹凸窠」は、でこぼこした土地に建てた住居という意で、詩仙堂の名の由来は、中国の漢・晋・唐・宋の詩家36人の肖像を狩野探幽・尚信に描かせ、図上にそれらの各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた「詩仙の間」を中心としているところから「詩仙堂」呼ばれるようになった。数奇屋造りの瓦茸きで創建当初の姿をほぼそのまま残しているという。庭園とともに往時をそのまま偲ぶことができる。

丈山はここに「凹凸窠」10境を見立て、入口に立つ山茶花の大垣根「小有洞の門」(しょうゆうどうのもん)を通り、竹林に挟まれた石畳の参道をのぼり詰めた所に「老梅関の門」(ろうばいかんのもん)。建物の中に入り「詩仙の間」「至楽巣」(しらくそう)、嘯月楼(しょうげつろう)、「至楽巣」の脇の井戸、「膏肓泉」(こうこうせん)、待童の間、「躍淵軒」(やくえんけん)、庭に下り蒙昧を洗い至る滝という意の「洗蒙瀑」(せんもうばく)、その滝が流れ込む浅い池「りゅうようはく」、庭に百花を配したという「百花塢(ひゃっかのう)、それに閑寂な音を発する「僧都」(そうず・鹿おどし)など10景は、丈山ならずとも、今人たちをも悠久にいざなう。この他、多数の硯、詩集「覆醤集」(ふくしょうしゅう)など多数の品々が残されている。 

 交通:JR京都駅より市バス5系統、一乗寺下り松下車すぐ。
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「志明院」(しみょういん)

2006年04月09日 22時54分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
 初夏の清々しい涼風を浴びながら、緑したたる京都の西北、岩屋山へと向かった。この方面は雲ヶ畑とい、まさしく雲に近い京都の奥山である。
 志明院は「岩屋山」と号し、真言宗単立寺院である。通称岩屋不動と呼ばれ、まさに知る人ぞ知る「石楠花の自生地」でもある。 寺伝によれば、白雉元年に役行者が創建し、後、天長6年(829)弘法大師が淳和天皇の命により再興し、以来皇室の勅願所として崇敬が深く、天下の平和を祈願のため諸堂開扉の詔があり、この時「志明院」の勅願を天皇から下賜以来これを寺号にしたという。
 度々兵火や火災にあい、現在の主要建物は明治以降の再建である。本堂には空海の開眼と伝えられる不動明王を、奥院の根本中院には菅原道真の手彫と伝える眼力不動明王が安置されている。楼門の金剛力士は、右が運慶、左が堪慶の作とされている。多くの像が祭られており、日本最古不動明王顕現の神秘霊峰である。
 また、境内には歌舞伎「鳴神」で有名な鳴神上人が龍神を閉じこめた所と伝承される。

 本堂の奥には岩屋の滝が流れ落ち、飛竜権現の祠がある。如法大師が入山して行法を修した際、神童が飛竜となって滝壷に入ったと伝えられている。背後には弘法大師が護摩を焚いたと伝える護摩洞窟がある。歌舞伎の「鳴神」はこの洞窟あたりを舞台としたもので、鳴神上人は三千世界の龍神をここに閉じ込め、京都市中に一滴の雨も降らせなかった。だが洛中随一の美姫とうたわれた雲の絶間姫の色香に迷ったため、止雨の法力は敗れたと伝えられている。

 山門両脇に樹齢数百年と云う石楠花の大苗が迎え、山門をくぐったすぐ左の山道を入り、10分ほど登りつめたそこには自生群落が広がる。ここは京大の観察林でもあり、岩盤に根を張る特異な生態研究の場となっている。岩盤という特殊な地形での自生を間近に観察出来る場所としては貴重な存在。山門から中へはカメラの持ち込みは禁止されている。
 雲ヶ畑の地にある岩屋山は全山、巨岩怪石からなっていて数多くの洞窟がある。その山腹にある当院は、厳しい修行を積み、霊験あらたかな修験者たちによって人の身体から追い出された物の怪たちが、最後に辿り着いた砦であった。ひんやりと湿り気を帯びた山気が満ちて、龍神の棲処らしい大気に包まれている。先年亡くなった司馬遼太郎は「私が真言密教のことを知りたくて足を運んでいたころは、この寺にはいろんな怪奇があった」と記している。そして、この志明院は今でも静かに鴨川の水源地として川へ水を流してい
る。

 所在地:京都市北区雲ケ畑出谷町、電話075-406-2061。
 交通:京都市営地下鉄北大路駅下車、京都バス雲ケ畑岩屋行きで45分、岩屋橋下車、徒歩30分。

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「三千院」(さんぜんいん)

2006年04月08日 13時06分12秒 | 古都逍遥「京都篇」
 せせらぎの音を心地よく耳にしながら、ひたすら車を走り続けると初夏の頃は紫蘇の香りが漂ってくる。大原は紫蘇の栽培地としても知られ、しば漬けの店が点在する。
 ふた昔、訪れる人も少なく、静かな山間の農村地帯であった大原。デューク
エイセスの歌う「おんな一人」が人々の心をとらえ、全国各地から訪れるようになり、民宿や土産物屋が立ち並ぶようになった。

 「三千院」は、ことさら取りえのある門跡でもないのだが、最近、観音堂(平成10年)や「金色不動堂」(平成元年)が建立され、それに前後して背後の山を切り開き紫陽花、石楠花、都忘れなどを植え込み、花の寺として集客するようになった。
 杉木立と苔の絨毯に佇む「往生極楽院」は、平安時代の寛和2年(986)に建立され当院の源ともなる御堂である。恵心僧都(えしんそうず)の父母の菩提のために姉安養尼(あんように)と共に建立したと伝えられる。当院には国宝の阿弥陀三尊像が安置され、天台宗五箇室門跡(てんだいしゅうごかしつもんぜき)の1つとなっている。

 秋は聚碧園(しゅうへきえん)、有清園一帯の庭園、総門にかけて、燃え立つような紅葉が極楽往生の世界を見る思いである。取材した折は総門は修復工事中であり荘厳な姿をみることができなかった。
 茶店の並ぶ参道を歩けば「花いらんかえー」と、大原女の声が聞こえそうだ。

交通:JR京都駅から京都バス17、18系統で大原バス停下車、徒15分。
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「三十三間堂」(蓮華王院)(さんじゅうさんげんどう)  

2006年04月07日 15時44分58秒 | 古都逍遥「京都篇」
 粉雪舞う蓮華王院、2人の武者のにらみ合う影が凍りつく。武蔵が濡れ縁を走る、吉岡伝七郎も武蔵の眼を離さず走る。勝負は一瞬のうちについた。
兄・吉岡清十郎の仇を討つ吉岡伝七郎と宮本武蔵との決闘場所は京都洛外と伝えられているが、吉川英治の『宮本武蔵』では、通し矢で有名な蓮華王院(三十三間堂)裏の空き地が闘いの舞台となった。

 天台宗蓮華王院は七条通りに面し、智積院や国立京都博物館にほど近い。
ここを有名にしたのは吉川英治の「宮本武蔵」に登場する武蔵と伝七郎の決闘でもあり、そして成人式の日に開催される通し矢の舞台として世に知られている。当院は長寛2年(1164)鳥辺(とりべ)山麓(現・阿弥陀ヶ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」(ほうじゅうじどの)の一画に平清盛が造進したもので、その後焼失したが、文永3年(1266)に再建。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度にわたり大修理が行なわれている。名高い長堂は入母屋め本瓦葺の「総檜造り」で約120㍍もあることから「三十三間堂」と称し親しまれている。

 堂内に入ると、圧倒される1001体の観音像が居並ぶ。その中心に巨像(中尊)があり、大仏師湛慶(たんけい・運慶の長男)八二歳の時の作で鎌倉期(建長6年)の名作。観音像の前にひときわ高い雲座に乗った風神と雷神像は見るものを威圧する。五穀豊穣をもたらす神として信仰がある、鎌倉彫刻の名品と評されている。

毎年1月の成人式には、「楊枝(やなぎ)のお加持(かじ)」縁日が催され「頭痛封」
のご利益があるという。この日、古儀・通し矢にちなむ弓道大会が開催され、正月の風物詩となっている。通し矢の起源は、保元の乱の頃(12世紀中頃)熊野の蕪野源太が崇徳天皇の身方として馳せ参じた時、蓮華王院の軒下を根矢をもって射通したことに始まると伝えられている。その後、応永ごろから天正ごろ(16世紀末)に小川甚平、木村伊兵衛、今熊猪之助らが差し矢を試み、通し矢の趣向を開いたと「武芸小伝」に記されている。
 「年代矢数帳(文久元年・1861)」の最後の記録を見ると、慶長11年(1606)からこの年に至る255年間に延べ823人が通し矢を行なった記録があり、内、天下総一と称された武者は延べ41人(実数26人)で、寛文9年(1669)に徳川尾張藩の星野勘左衛門が、総矢10、542本を射て通した矢は8、000本。さらに、17年後の貞享3年(1688)に、紀伊藩の和佐大八郎が1万53本を射て、通した矢8、132本、これが今日まで伝わる最高記録になっている。平均6・6秒に1本の速さで射続けたというから、怪物的な武者である。ちなみに近年の記録は明治32年の4、457
本だそうだ。

 交通:京阪電鉄京都線七条下車、徒歩6分。
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「清涼寺」(せいりょうじ)

2006年04月06日 17時27分49秒 | 古都逍遥「京都篇」
五台山清涼寺は地元では嵯峨の釈迦堂(しゃかどう)さんで親しまれ、嵯峨狂言・念仏・六斎などの民衆芸能の拠点としての役割を持つ寺である。
 嵯峨源氏の祖・源融は光源氏のモデルになった人として著名であるが、源融が嵯峨天皇から仙洞(嵯峨院)の地所の一部を別荘として下賜され、この山荘棲霞観(せいかかん)がのちに棲霞寺となる。その後、永延元年(989)ちょう然上人が中国の五台山清涼寺を模した寺の創建を志し、その弟子盛算によって完成した。

 清涼寺は1190年以降しばしば火災に見舞われ、応仁の乱では釈迦堂を除く多くの建物が焼失したが、のちに再建されている。江戸時代になると徳川家康は97石の寺領を安堵した。現在の本堂は将軍綱吉の母・桂昌院および大阪の豪商泉屋(住友吉左衛門)らの発起により再建されたものである。
 門を入ると右手に経堂(江戸時代)、左の多宝塔、参道正面には本堂(江戸時代)がある。本堂正面の庇上に隠元筆「栴壇瑞像」の額があり、室内の豪華な伝桂昌院寄進厨子内に本尊木造釈迦如来立像(国宝・北宋)を安置している。これは、ちょう然上人が寛和2年(986)宋より持ち帰ったもので、釈迦37歳の時の姿を刻んだものと言われる。黒水晶をはめた目、縄状の髪などの特異な様式は清涼寺式と呼ばれる。また、霊宝殿(毎年春・秋に特別公開)には、融に似せて作られたという阿弥陀三尊像が安置されている。
本堂左に薬師堂、西門の右手に狂言堂がある。薬師堂は嵯峨天皇勅願所として保護をうけ、本草薬師如来は818年悪疫流行の際に、嵯峨天皇が空海につくらせた霊仏と伝えられる。

 京都3代火祭りの1つである「お松明式」は、毎年3月15日『涅槃会(ねはんえ)』に厳修され、嵯峨野の伝統行事。この行事は、朗々とつづく読経のうち、三基の大松明に火が点けられ、春浅い闇の空に炎が舞いあがる。松明の火は、お釈迦様を荼毘(だび)に付した折の様子を物語り、燃える炎の勢いにより、その年の稲作の豊凶を占い、また、同時に本堂前に並んだ13本の高張り提灯の高低によって江戸時代には、米相場を、近世では株価の趨勢を判じるなど庶民の幸せと諸々の願いを託して点火される。この日は午後より、嵯峨大念佛狂言(だいねんぶつきょうげん)が境内の舞台で催され、ガンデンデンの囃
子が嵯峨野一帯に響きわたる。
 11月14日前後の日曜日、江戸の高尾、京の吉野と並び称された大阪の名妓「夕霧」の墓があることから、追善法要や島原太夫による舞や太夫道中などが行われる。

 嵯峨狂言の由来について紹介しておこう。
 嵯峨狂言の創始については、一般に十万上人が大念仏として始められたもので、大念仏は弘安2年(1279)の始行と伝えられ、応永年頃(1414)にはすでに恒例化していたことが知られている。
 この大念仏に狂言がともなうようになったな時期は不明だが、保存されている女系面 に、「嵯峨大念仏 天文18年(1549)3月6日(花押)念」と刻銘があり、壬生、閻魔堂狂言等との関連からみて、この頃には大念仏に狂言がともなっていたと考えられている。しかし、諸資料によるところでは、嵯峨大念仏狂言が、定例の行事として確立していくのは、近世(1638頃)に入ってからのようだ。

 京都近在の人に耳寄りな情報として付記しておくと、当寺に参拝したら、清涼寺の門を出て東に曲がった所にある嵯峨豆腐森嘉(さがどうふ もりか・嵯峨釈迦堂藤ノ木町42)に立ち寄り、豆腐を買われるとよい。絶品の味と舌ざわりと喉ごしの良い豆腐は、そこらの豆腐とは格段の相違で、是非一度ご賞味あれ。

 所在地:京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46。
 交通:京都駅より京都バス、市バス(28・91)で嵯峨釈迦堂前下車すぐ。JR嵯峨野線、嵯峨嵐山駅下車北へ500m。
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「今熊野観音寺」(いまくまのかんのんじ)

2006年04月05日 22時04分10秒 | 古都逍遥「京都篇」
 四季折々に自然の美しいいとなみが見られる幽寂なる空間、熊野権現示現の伝説の聖地。東山三十六峰今熊野山のふところにいだかれて、今熊野観音寺は荘厳なるたたずまいを見せている。後白河法皇より山号を賜り、「新那智山」と称する。
 泉涌寺参道から左に折れて観音寺に入ると、赤い橋「鳥居橋(とりいばし)」が迎えてくれる。この谷を流れる今熊野川を越えるのが鳥居橋で、古くからこの地には熊野権現社が鎮まっていたことから、橋の名前の由来となった。
 当寺は、西国33ヶ所観音霊場の第15番札所、ぼけ封じ、近畿十楽観音霊場の第1番札所、また、京都七福神のえびす神奉祀として名高く、古くからの霊験記にも記されている「頭の観音さん」として広く人々の信仰を集めている。
 創興は、弘法大師(空海)が唐の国から帰国しほどない頃、東寺で真言密教の秘法を修法していたとき、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引いているのを見た。
不思議に思いその方向へ行って見ると、山中に白髪の一老翁が姿を現した。「この山に一寸八分の観世音がましますが、これは天照大神の御作で、衆生済度のためにこの地に来現されたのである。ここに一宇を構えて観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ」と告げた。そのときに一寸八分の十一面観世音菩薩像と、一夥の宝印を大師に与えられた。
 大師は老翁に何人かをたずねると、「自分は熊野の権現で、永くこの地の守護神になる」と告げられて姿を消されました。 大同2年(807)大師は熊野権現のお告げのままに庵を結び、みずから一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像を体内仏として納め、奉安したのが当山のはじまりと伝えられている。
 この時に大師が、観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぶために錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出し、大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けた。今日もこんこんと湧き出している。
 古くから紀州熊野の地は、南方にあるという観音の補陀落浄土としての信仰の中心であった。京都の今熊野は中世の九州方面の熊野信仰の本山格としての地位にあったようだ。
 三十六歌仙の1人、「枕草子」の作者として知られる清少納言(生没年未詳)は、その父清原元輔の邸宅が現在の観音寺境内地付近に有ったことから、観音寺の近くで生まれ育てられたようだ。
 清少納言は一条天皇の皇后定子に仕えて寵遇を受け、皇后が崩御すると皇后を葬る鳥戸野陵が観音寺近くに造営され、それにともなって清少納言も、自分が生まれ育った観音寺近くの父の邸宅のほとりに住み、皇后の御陵に詣でながら晩年を過ごしたものと思われる。このことは『公任卿集』に、「月輪にかえり住むころ ありつゝも雲間にすめる月の輪を いく夜ながめて行きかえるらむ」(清少納言)と記されていることなどからも、その様子が偲ばれる。
 当寺は、南北朝時代の兵火で焼失したが、北朝の朝廷や足利将軍によって復興した。また応仁・文明の大乱でも伽藍が焼失したが、その後復興されている。江戸時代になると西国霊場巡拝が益々盛んになり、正徳2年(1712)には、宗恕祖元律師によって現在の本堂が建立されている。
 本堂東側の山上にひときわ高くそびえ立つ平安様式の多宝塔が「医聖堂」で、医師学界に貢献した多くの人々が祀られている。本堂の背後に広がる墓地には「藤原3代の墓」とよばれる、石造宝塔3基がある。藤原忠通(ただみち)、九条兼実(かねざね)、慈円(じえん)僧正の3人の墓である。
 当寺は「頭痛封じの観音」としても信仰があるが、その言い伝えにこのような話がある。「後白河法皇は激しい頭痛持ちであった。そこで、頭痛封じの観音として評判の高かった今熊野観音に頭痛平癒の祈願を続けたところ、ある夜、就寝中の法皇の枕元に観音様が現れ、病める頭に向けて光明を差しかけた。すると永年苦しんでこられた頭痛が、不思議にもたちまちに癒えてしった」。爾来、法王は、今熊野観音を頭痛封じの観音として崇めたという。
 交通:JR京都駅から、市バス208系にて泉涌寺道下車、徒歩10分、
京阪電鉄七条駅から市バス208系で泉涌寺道下車、徒歩10分。
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「願徳寺」(がんとくじ)

2006年04月02日 22時31分18秒 | 古都逍遥「京都篇」
 洛西の大原野に心地よい風がそよぐころ、願徳寺を訪ねた。昨年もここに隣接する西行桜で知られた勝持寺、別名「花の寺」を訪れたが、当寺の門をくぐることがなかった。当寺の石段の脇に咲き誇る「秋明菊」を愛用のカメラに収めて、その地を後にした。
 あれから1年、心残りになっていた国宝「如意輪観世音菩薩半跏像」を拝観したくなり再び当地を訪ねた。
 石段に脇の秋明菊、庭内の女郎花が美しく咲き、私を出迎えてくれた。
 拝観受付に品の良いご婦人がいた。「観世音菩薩のことについてお話しをうかがいたいのですが」と話かけると、快く応じてくれて、堂内に案内してくれて説明を始めた。

 平安末期(貞観時代)、およそ1300年ほど前の作で、榧(カヤ)の一木彫り。唐様式の像で、中国から渡来仏あるいは渡来人の作の両説があるという。色彩・金箔などの施しは見られず、木肌の温もりが感じられる名作である。厳しい顔つきながら慈愛に満ちた笑みをも漂わせている。
 当寺は正式には「仏崋林山 宝菩提院 願徳寺」と称する。白鳳8年(679)に持統天皇の願いにより向日市寺戸に創建。平安時代から鎌倉時代にかけては、天台密教の秘法を行い穴太流や西山派を生みだした密教の大寺院であったが、応仁の乱と信長の兵火によりことごとく焼失。徳川家康の加護を受けたものの残存した伽藍も荒廃した。昭和に入り諸堂の荒廃が進み、本尊如意輪観音及び諸仏は昭和37年に向日市寺戸より勝持寺(花の寺)に移動安置され、本堂と庫裏はこの地に再建された。34年を経て本尊如意輪
観音及び諸仏は平成8年12月に勝持寺より願徳寺に帰座された。

 如意輪観世音菩薩半跏像(国宝)は、平安前期貞観時代約1200前の木造素地。顔の相や衣の様子から明らかに唐の様式による座で、中国よりの渡来仏あるいは渡来人の作の両説がある。色彩・金箔を施して無く、木そのままの姿で、1200年の間に自然に木の肌が変わって来たという。座り方は半跏踏み下げの像・遊華座とも呼ばれている。白豪は水晶、瞳は黒曜石。上の手は、生老病死などの恐れを取り除く(施無畏)、下の手は願いを叶える(与願)という印である。
 薬師瑠璃光如来(重要文化財)は、平安後期藤原時代き900年ほど前の作で木造漆箔。聖徳太子2歳像は、京都府文化財に指定されており1290年頃の作。(秋に取材)

 所在地:京都市西京区大原野南春日町1223-2。
 交通:JR向日町、または阪急東向日駅・洛西口駅・桂駅下車、バスで南春日町停下車徒歩約35分。

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