最近耳にする識字率とは?の問題が話題になっていますが、日本では100%の割合で子どもたちが義務教育を受けているため、文字の読み書きについても問題なくできる人がほとんどです。
此れが江戸時代でも文字の読み書きは士分で85%程で一般人でもなんと約50%の江戸庶民は識字率があり、埋め立て地区が多く塩水が多く水も使えず、幕府は上水道を作り周りの川に堀を作り其れを利用して下水完備も行い、糞尿は大切な肥料にし、年間四百円程で上下水道を解放した。当時の江戸は世界的にも清潔で安全な暮らしやすい都市であったと言われているが、基本はこの識字率の高さが物語る、基本は識字率が高い事であるように江戸の庶民の文化は高いと思う。
最近学校の教科書から士農工商と言われた制度のような文字が無くなり、全ては同じ日本人と言った時代で職業別に分けた、天皇の元に幕臣以下士農工商と言う職業分類の文字であった、ご存知渋沢栄一も農家の長男だったのです。勿論社会に役立てば政殿(まつりごと)は相談し国をも動かした。
当時新生明治時代は長州、薩摩で政府を固めた時代にも関わらず、幕臣の渋沢にも政府立ち上げを依頼した。
日本は一丸となったその後、大久保不在の時に西郷は「征韓論」を支持する様になったと語られるが、「征韓論」とは文字通りに読めば「韓国を征伐する」であり、武力で朝鮮を支配しようとする主張のことである。この論を唱えた主役は、西郷隆盛とされている。しかし、このころの文献、史料のどこにも、西郷がこれほどはっきり「征韓」を唱えたという記録はない。一度その辺りの真実を深掘りしてみたいと思う、お隣さんの当時は両班(りょうはん)の時代である。
両班は、高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の2つの班からなる官僚制度を採用した国である。
しかし、世界では文字の読み書きができない人が多く、2017年時点で約7億5000万人(世界の15歳以上の6人に1人)いることがわかっています。
この記事では日本や世界の識字率を見ながらいがい識字率が未だ低いことに驚いてしまう。勿論隣国は日本併合以前は識字率も俄然低く基本を教わったことも知らない程度だ。
しかし近代はPC普及等で、漢字変換で漢字を忘れる傾向があり、高齢化が進み記憶が曖昧になり漢字を書かなくその傾向は強くなる一方である、また一番悪い事に、問題は大手新聞社報道陣が間違った報道(新聞社利益中心の記事)が多く、益々新聞離れに拍車がかかる。
筆者が言いたいことは簡単で、昔と比べ手紙、葉書等の便りの文章は少なくなっている。これはメール等に代用され益々簡略化された文章になっていく、このままで良いのだろうか疑問です。文字の読み書きや理解する能力を「識字」と呼び、識字率は文字の読み書きができる人の割合を指します。
日本にいれば字の読み書き、文章の理解をできる人がほとんどですが、これは義務教育により学習することができるからです。
日本では初等教育の純就学率は男女ともに100%、そのため識字率についても世界でも上位の水準ですが、世界では識字率が80%に満たない国や地域も多くあります。
現に2017年時点で文字の読み書きができない人は約7億5000万人(世界の15歳以上の6人に1人)いることがわかっています。この問題に対して世界では大きな課題として認識されており、解決すべき問題として取り上げられています。持続可能な開発目標として定められたSDGsでもこの教育分野について取り上げており、目標4に掲げられています。世界では学校に行けない人、文字が書けない人が今もたくさん存在します。
これは子どもたちを取り巻く環境などが大きく影響しているのですが、就学できない、できても途中でやめざるを得なくなる状況を改善することから始める必要があります。識字率が低い国や貧困が深刻な国では、親が教育の大切さをわかっていないために子どもに労働や家事をさせ、学校へ通わせないケースも多くあります。そうした国では学校で給食を配布したり水汲みの必要がなくなるよう水道を設置するなど、子どもが学校へ来る理由を作り改善に向けた支援活動を行っているそうです。
やはり基本は大切であり、母国語だけでなく、識字率が高くなれば基本が養われ数学、音楽、運動まで良い影響するようである、昔から文武両道と言われた天才的と称されることもあるが、スポーツこの反射対応しなければ上手くはならない、ゲームの組み立ては頭の回転が良い程好結果が出るようである。
筆者も後期高齢者の入り口に突入するが、ある程度の文章を手がける事でボケにならないように努力しようと思う。せいぜいブログアップ回数を増やしボケ防止を行いたいと思う次第である。
年賀はがき程度は唯一肉筆で宛先を書くように心がけていますが、年とともに漢字も下手になり今年からは丁寧にと心がけるように思う。
音楽の基本中の基本のバッハの2声のインヴェンション BWV.772-786を聴きながらピアノ演奏を「ピアノの哲学者」と言われたディナ・ウゴルスカヤから学んでみるが、此の演奏が優しく心に響くようです。
ディナ・ウゴルスカヤ(Dina Ugorskaja)は1973年8月26日-レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、ロシア(旧ソ連)で生まれ2019年9月17日、がんで亡くなった。46歳だった。父親はピアニストのアナトール・ウゴルスキ。母親のマヤ・エリクはシェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》のソビエト初演で朗読を担当した音楽学者。ウゴルスカヤは1973年、父親が活動していたソビエト時代のレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)で生まれた。ウゴルスキは1982年から1990年までレニングラード音楽院の教授を務めた。
父親からピアノの手ほどきを受けた後、1980年からレニングラード音楽院に所属する特別音楽学校で学んだ。7歳でレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団フィルと共演して注目を集める。しかし、1980年後半からの体制改革運動「ペレストロイカ」の流れの中でソビエトでは反ユダヤ主義的な動きが表面化。脅威がウゴルスキと家族に及んできたことから、1990年に一家でドイツ・ベルリンに亡命した。
亡命後、ウゴルスカヤはハンス・アイスラー音楽大学に進み、その後、デトモルト音楽大学へ。そのまま大学に残り、2002年から2007年まで講師を務めた。その後、ソロ活動のかたわら、2016/17シーズンからウィーン国立音楽演劇大学(University of Music and Performing Arts Vienna)に就任、亡くなるまでピアノ科の教授を務めていた。
ディーナ・ウゴルスカヤの名盤復刻! バッハ&ショパン! ロシアの名ピアニスト、アナトール・ウゴルスキの娘であり、自身も国際的なコンサート・ピアニストとして活動したディーナ・ウゴルスカヤ。2016年からはウィーン国立音楽演劇大学のピアノ科教授を務めながらも、癌との闘病の末、2019年9月に46歳の若さでこの世を去りました。
この「バッハ&ショパン」アルバムは、2008年に「Venus Music」からリリースされ、しばらく廃盤となっていた稀少盤。バッハのインヴェンションは、残念ながら未だ単なる練習曲と見なされていますが、特に2声のインヴェンションは信じられないほど洗練された豊富なアイディアのおかげで、ウゴルスカヤのことを子どものころからずっと魅了していたといいます。そして対照的に、音楽性と技術の両面で、ピアノ音楽でもっとも挑戦的な曲集の1つであるショパンのプレリュード。その深い感受性と冷静なパフォーマンスから、「ピアノの哲学者(philosopher at the piano)」と呼ばれたウゴルスカヤが、バッハの率直さとショパンの複雑さを見事に対比させた名盤の1つです。
J.S.バッハ:2声のインヴェンション BWV.772-786 ● ショパン:24の前奏曲 Op.28
《曲目》
J.S.バッハ:2声のインヴェンション BWV.772-786
J.S.バッハ:2声のインヴェンション BWV.772-786
15 Inventiones, BWV 772-786: No. 1 in C Major, BWV 772
ショパン:24の前奏曲 Op.28
24 Préludes, Op. 28: No. 20 in C Minor. Largo
24 Préludes, Op. 28: No. 24 in D Minor. Allegro appassionata
《演奏》
ディーナ・ウゴルスカヤ(ピアノ)
使用楽器:ベヒシュタイン D-280
《録音》
2004年3月
デトモルト(ドイツ)
ディーナ・ウゴルスカヤ(ピアノ)
使用楽器:ベヒシュタイン D-280
《録音》
2004年3月
デトモルト(ドイツ)
Bach & Chopin
Dina Ugorskaja
Dina Ugorskaja
この「バッハ&ショパン」アルバムは、2008年にVenus Musicからリリースされ、しばらく廃盤となっていた稀少盤。
バッハのインヴェンションは、残念ながら未だ単なる練習曲と見なされていますが、特に2声のインヴェンションは信じられないほど洗練された豊富なアイディアのおかげで、ウゴルスカヤのことを子どものころからずっと魅了していたといいます。そして対照的に、音楽性と技術の両面で、ピアノ音楽でもっとも挑戦的な曲集の1つであるショパンのプレリュード。
その深い感受性と冷静なパフォーマンスから、「ピアノの哲学者(philosopher at the piano)」と呼ばれたウゴルスカヤが、バッハの率直さとショパンの複雑さを見事に対比させた名盤の1つです。
上記の写真はバッハの時代に存在した鍵盤楽器で家庭での練習用の楽器であろう。
バッハは完成した曲集の扉に自らこのようにしたためた。《インヴェンション》と《シンフォニア》は、長男フリーデマンのレッスン用の小品を集めて改訂したものであり、その成り立ちから既に教程としての性質を持っている。しかし、ここに書かれていることの真意はいったいなんだろうか?
バッハは音楽家を育てるのに、両手を使った鍵盤音楽の演奏技術を身に付けさせることから始めた。
クラヴィーアの愛好者、とくにその学習希望者に、(1)二つの声部をきれいに弾きこなすだけでなく、更に上達したならば、(2)三つのオブリガート声部をも正しく、かつ、手際よく処理し、あわせて同時にインヴェンツィオをたんに得るだけでなく、それをたくみに展開し、そしてとりわけカンタービレの奏法をしっかりと身につけ、しかもそのかたわら作曲への強い関心をも養うための明確な方法を教示するところの、正しい手引き。アンハルト=ケーテン侯宮廷楽長ヨハン・ゼバスティアン・バッハ これを完成す。1723年。」
兎に角基本中の基本の曲集ではあるがじっくり聴くも味わいは豊かである。
そして、ショパンのすべての長短調を網羅した24の前奏曲。1838年にマヨルカ島で完成された。これは、小説家ジョルジュ・サンドとの恋愛関係が始まって間もなくの時期であり、サンド一家の転地保養にショパンが同行した最初の機会である。ショパンはこの旅行を実現するためにパリでのレッスンをいくつも断り、一方で知人たちから少なからぬ借金をした。パリの出版家プレイエルが《前奏曲集》に前金を支払ったのも、旅行費用を援助するためだった。
病気で長く臥せっていたことなども考えると、おそらくショパン自身、マヨルカへ着く頃にはすでに曲集の全体がみえていたのだろう。ショパンにとって、バッハ《平均律クラヴィーア曲集》の伝統に連なる作品を残すことは、かねてからの願いであり、音楽家としての使命でもあったのだ。
《練習曲集》においてショパンは、《平均律》の伝統を音楽内容と機能の面で継承したのだったが、《24の前奏曲集》では、同じ源泉からおもに曲集の外形を受け継いだ。マヨルカでのショパンの様子を伝える書簡からは、彼が四六時中バッハの楽譜を手放さずにいたことが判るが、《平均律》とショパンの《前奏曲集》の共通点はほとんど唯一、24の長短調で書かれていることだけである。
ディーナ・ウゴルスカヤの演奏は優しく響くピアノの音に筆者の10吋タンノイの据え置き型と真空管のアンプ相性は良く、グランドピアノの演奏が良い音色を醸し出す。ブラボー!