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音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

本年の初詣、武漢風邪の影響で緊急事態宣言も解除され成田山新勝寺詣でに至る

2021年03月27日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

生憎天候はくもり空ですが、毎年初参りもいい加減な家族ですが、今年は武漢風邪の影響と、緊急事態宣言のお上の御触もあり、仕事以外は忠実に巣ごもり状態が続いていた、確かにわが住む町の感染者数も延べで300人以上と相成る。
正直、お参りより美味しい「うな重」が目的も否めないが、桜の季節が今年の初詣と相成る。

今年の参拝は何時もと逆周りの裏手門から参拝に赴く。
平日の初詣と違い参拝客はまばらでゆっくりと新勝寺の全てを散策してみることにした。あまり寒さは感じなく、桜咲く道を散策する。



最近成田空港までの新しい道路が開通し、未だ全線開通には至らないが、今までと違い随分時間短縮になった、家を出て30分程で成田山付近に到着し驚く、途中までは片側2車線の信号機もなく70キロ道路になった為時間短縮されたようで、成田ニュータウンを過ぎたあたりまで開通したようである。



成田山新勝寺付近は桜が咲き始め満開近い状態です。裏門から入ると最初は現在の本堂の前の本堂、成田山新勝寺のかつての本堂だった「釈迦堂」があります。現在本堂場所から移転したそうです。

1858(安政5)年に建立された重要文化財です。かつての本堂であり、大本堂の建立にあたって1964(昭和39)年に現在の場所に移されました。仏教を開いた釈迦如来や、普賢、文殊、弥勒、千手観音の四菩薩が奉安されています。周囲には、五百羅漢や二十四孝の彫刻がほどこされ、江戸時代後期の特色をよく残している総欅づくりの御堂です。厄除お祓いの祈祷所です。


釈迦如来や、普賢・文殊・弥勒・千手観音の四菩薩が安置されています


勿論現在も手入れをし文化財として貴重な資料なんでしょう。投目で見ても格式のある建物のようです、江戸時代はこの本堂にお参りしたのでしょう。
なお、建物は総ヒノキ造りで、外の壁には五百羅漢などの彫刻がほどこされています。


釈迦堂を参拝し次は続いては、大本堂の裏から階段をのぼり、奥へと進んだ場所にある「額堂(がくどう)」。1861年に建てられたものです。

額堂とは、絵馬や奉納額を掲げる建物のことで、以前はこちらにたくさんの絵馬類が掲げられていたそうです。


現在、絵馬類は成田山霊光館に保存されています、
お堂の中には、歌舞伎界の名優・七代目市川團十郎の石像があります。市川團十郎家は代々不動尊を崇敬していて、成田山と関わりが深いんです。

次は光明堂
(こうみょうどう)新勝寺初代の本堂である。江戸時代に再興した本堂、成田山新勝寺である。此のあたりに新勝寺の史実が隠されているかも知れないと考えさせられる処である。



1701(元禄14)年に建立された重要文化財です。釈迦堂の前の本堂であり、江戸時代中期の貴重な建物です。大日如来、愛染明王、不動明王が奉安されています。後方には奥之院の洞窟があり、毎年、祇園会に開扉されます。


成田のお不動様として親しまれ関東三大不動の一つです。
細部の作りも相当に手が込んだ造りとなっているのも見どころですかね。


正月は三が日で約300万人(寺院では全国1位)が参拝する真言宗智山派の大本山です。ご本尊は弘法大師が敬刻開眼した不動明王で、開山以来ご信徒のお願い事の成就を祈る御護摩祈祷が毎日行われています。
本尊の不動明王は、平安時代、嶬峨天皇の勅願により弘法大師が一刀三礼、敬慮な祈りを込めて彫り開眼しました。朝夕に天下泰平・五穀豊穣・万民豊楽の護摩法を修せられた霊験あらたかなご尊像です。朱雀天皇の天慶2年(939年)、平将門の乱平定の為、寛朝大僧正によって当地に還座、成田山が開山されました。



成田山新勝寺は寛朝僧正が平将門調伏のための護摩焚きを行ったことに始まる。一時は古びた寺で合ったが江戸時代から賑わう。源頼朝も信仰し、平氏討滅祈願を行ったという。

其の奥にあるのが奥の院です。右左には梵字の彫り物の石があります。


平和大塔(へいわのだいとう)額堂からさらに奥に進んで行くと、大きな赤い二重の塔が目に飛び込んできます。
こちらは「平和大塔」という5階建ての塔で、1階には成田山の歴史展や写経道場があり、2階には大きな不動明王像をはじめ大塔の御本尊が安置されています。


そして現在の本堂にと続くが、途中小さな滝もある


滝の近くに不動明王像の像もある。


意外と新勝寺全て回るのは初めての試みで随分良い運動になる。
そして御札を頂く。正月次期には混雑し此の様にゆっくり散策は出来ないが季節外れの初詣も良いものである。



お守り御札販売の近くには絵馬も飾ってあった。

なにの合図が分かりませんが鐘の音、鐘をつく人を写すことが出来た、ナイスタイミングである。緑色の衣が綺麗な色だった。



お清めの水は武漢風邪の影響で使用禁止のため省略。

その代りは、お線香の煙をあび、無業息災を祈り、清めた。



現在の本堂です、流石に広い。先に見学した知識で、初代の本堂は1/4程度の建物と想像出来た。

日本史を考えると確かに、現在より江戸時代以前が圧倒的に信心深い人達と思う、歴史を調べると必ず神社仏閣の古文書等を調べる事は正直で、京都方面の神社仏閣も今も歴史を紐解く鍵となっているそうである。


本堂参拝では傘を持つお出向の新勝寺の事務所の方が、珍しいショットです。


鐘楼、三重塔は光明堂と同じ時期に建てられた物のようです。


そして正面の山門を下ります。


宝剣の由来は天武天皇(てんむてんのう)の御代に、刀工藤原天国に命じて作らしめたので 「天国の宝剣」と言います。「天国の宝剣」はご本尊不動明王の霊徳と共に、 不思議な霊徳を表し、古来より「宝剣頂戴」と称して、この宝剣のお加持を 受けると速やかに病気を治し諸々の魔障を除き、息災延命が得られると 言われています。普段は、御内仏殿に奉安されています。 刀工の天国(あまくに)が製作した刀 宝剣”は、歴代の天皇が常に玉座のそばにおいて御守として身を守っていた霊剣ですが、大本山 成田山が開山したきっかけでもあります、「平将門の乱」平定の為に、朱雀天皇が寛朝大僧正に、 京都高雄山神護寺の不動明王(成田山のご本尊)と共に授けた成田山第一の霊宝です。 この“天国の宝剣”について、「此の宝剣を拝する時は、乱心狂気もたちどころに止み、熱病寒疾も 速やかに癒え諸々の魔障を除き、息災成就を得る」と伝えられております。



そして入り口の総門を撮った。この総門、比較的新しいもので、建立は平成19年になります。


そして昼食にありつけます。
本日は勿論うなぎ飯です、菊屋を選びました。お江戸の頃はこのあたりで採れる利根川と印旛沼の「うなぎ」は有名で圧倒的にうなぎ屋は多い。


店内は意外と客が多く、印旛沼で取れた川エビと勿論「鰻重」を注文


今も採れる印旛沼産の素揚げの川エビはサクサクで美味い。
勿論「うな重」も美味い見た目で感じるより量が多く、全て頂くが食べ過ぎの感はあった。ごちそうさま。


現在は養殖の鰻ではあるが、実はこの鰻は、成田市印旛沼干拓地に鰻屋が並ぶ鰻街道一番人気店「い志ばし」(いしばし)が美味いのだが、昔は食用のザリガニもメニューに乗っていた。
営業は昼間しか開いてないため、2時30分ころ行っても閉店となるので、次回は鰻だけを頂きに来ましょう。

千葉界隈は利根川を初め印旛沼、手賀沼、牛久沼、涸沼、霞ヶ浦等湖、沼が多く鰻は庶民の栄養資源で昔から御馳走だったのでしょう。一般には土用の鰻と真夏の食べ物として有名だがこの時期の油が乗った鰻の旬かも知れない。


締めは、本日の最後は濃い渋い日本茶と和菓子をいただく、ブラボー!
追伸
何処かに行くと写真点数が増える、写真の整理に時間を費し掲載が遅れるやはりコンデジ程度の画像で十分なのであろう。

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