よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

子供の頃の思い出「富山の薬売り」

2016-11-05 15:49:07 | 旅行

子供の頃の思い出と言えば、「越中富山の薬売り」でしょう。置き薬と言って薬を置いておき、使った分だけ代金を支払う・・・・・・

そして、私達子供へのお土産は、「紙風船」でした。確か、昭和30年ごろだったかな・・・・・・・

    

折角富山に来たのだから、富山の薬売りの歴史を見てみようと思いました

富山城は天文12年(1543)にこの地に築かれ、その後何人かの武将がこの城を支配していました。寛永16年(1639)富山藩が成立し、加賀より前田家が入城しました。

明治4年(1871)富山県が設置されるまでの約230年間、富山前田家が13代にわたりこの城を領有しました。

富山城の「千歳御門」は、富山藩10代藩主前田利保が隠居所として造営した千歳御殿の正門で嘉永2年(1849)に建築されました。

総欅造りの三間薬医門で屋根は切妻造本瓦葺、桁行6M,梁間1,8Mです。同一の建物としては「東大の赤門」として有名な加賀屋敷御守殿門ですので、いわば、東大の赤門の親戚です。

  

さて、話を戻します。富山藩第二代藩主前田正甫(まさとし)は、富山売薬の基礎を築いた人です。元禄3年(1690)、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。

そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめた所、たちどころに治りました。その様子を見た諸大名は、「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになった為、正甫の命で諸国に

行商させたのが富山売薬の始まりです。正甫は、富山売薬を広めたお殿様として市民の間から親しまれています。

     

江戸時代の富山売薬は、富山藩の統制下にありました。全国に販路を広げ、売薬人たちは行商先の国・地域別に仲間組を作り、行商の人数を決めるとともに、示談と呼ばれる取り決めを定めて

お互いの利益の維持を図っていました。売薬で利益を得た町人はいましたが、利益を他の資本に投じることは禁じられていました。また行商人は、薬以外の物を扱うこと、旅先から商品を仕入れて

くること、旅先で居住することなども禁じられていました。

明治に入るとこれらの束縛が外れて商売が自由にできるようになり、売薬業者は、金融機関を始め、水力発電、鉄道、各種製造業など幅広く進出しました。

また、売薬業者自身も製薬会社を設立しました。その代表格が「廣貫堂」です。

富山市梅沢町には、「廣貫堂資料館」があります。この資料館では、歴史・文化的にも価値の高い古文書や当時の薬売りが使った珍しい品々を展示されています。

   

  

  

富山の薬売りの特徴は、「先用後利(せんようこうり)」という、品物を先に預けて使用してもらい使った分だけ代金を後から回収して利益とするという意味ですが、この顧客の利便性を考えた

販売方式は富山売薬を支える精神ともなっています。

富山の売薬さんは、柳行李を包んだ大きな風呂敷を背中に担いだ独特の井手達で全国を行商しました。旅立ちは、主に春秋の年に2回が標準で、この時期は出稼ぎから帰る時期、あるいは、収穫の

時期に当たり、各家々に現金収入があるころだからです。

先用後利の販売システムを支え、売薬さんの行商に最も重要なものが「懸場帳(かけばちょう)」。この帳面には、訪問した年月日、配置した薬の種類と数、売上金額、回収状況や家族構成、健康状態などが

記せられ、現代版「顧客管理台帳」なるものです。

明治以降、西洋医学や薬学が取り入れられると、和漢薬は一時壊滅の危機にさらされました。富山売薬は生き残りをかけ西洋医学の研究に取り組みました。

廣貫堂では、後継者の育成に力を入れ、明治26年(1893)、富山市も補助金300円を基に、薬業者の寄付により、最初の薬学校「共立薬学校」が設立されました。

この薬学校は、県立、官立を経て、富山医科薬科大学となり、その後統合により現在の富山大学薬学部となっています。

  

廣貫堂では、来館記念としてドリンク剤をいただきました。

    

続いて市内安養坊にある「富山市売薬資料館」に行ってきました。

   

館内は、撮影禁止の為、写真がありませんが、ここでは、富山売薬の歴史、また薬業出身の御三家「密田氏」の密田家土蔵も公開されています。

※富山薬業御三家:密田家、中田家、金岡家

密田家は、能登の出身で、寛文2年(1662)富山古寺町へ出て能登屋と称し、のちに売薬業を営みました。当主は代々林蔵を名乗っていました。6代林蔵は、富山売薬薩摩組の中心として活躍しました。

7代林蔵の時、金融業(質屋)に携わりました。9代林蔵は、越中売薬の近代化を企てて仲間と株式会社「廣貫堂」を設立しました。明治11年(1878)に富山第百二十三国立銀行の副頭取となり、

10代林蔵は富山貯蓄銀行を創立しました。また金岡又左衛門と協力して富山で初めて水力電気を起こした密田孝吉は、分家の長男でした。

中田家は、般若村茶ノ木(現砺波市)の出身と言われ、富山で初めて薬種店を開業しました。5代三郎右衛門が富山藩2代藩主正甫公の御用商人となり、妙薬の奇応丸や熊参丸を創りました。

6代清兵衛から代々清兵衛を名乗り、14代清兵衛が富山第百二十三国立銀行の副頭取になり、15代清兵衛は、密田家9代林蔵の5男徳次郎が中田家に入り襲名して家業を継ぎました。

彼は先代のあと、十二銀行(明治17年(1884)金沢の国立十二銀行と富山の第百十二銀行が合併)の頭取となり、昭和18年には統合した北陸銀行の初代頭取に就任しました。

長男の勇吉が16代清兵衛を襲名し北陸銀行の頭取に就任、4男の孝吉が富山県知事を務めました。

金岡家は、江戸末期より新庄町で、金剛寺屋と呼ばれる薬種屋を営んでいました。金岡又左衛門(初代)は、初め政界を目指しましたが、のちに密田孝吉の助力を得て、電力事業に打ち込み、

成功の後は、鉄道・紡績・育英事業などに力を注ぎました。2代目又左衛門は、経済界で活躍し、現在の富山第一銀行の基をつくりました。3代目又左衛門は、薬学を修め、製薬会社、金融機関の

トップとして活躍する傍ら、富山女子短期大学理事長を務めるなど教育界に足跡を残しました。現在金岡家の家業は3代又左衛門の係累により、富山国際大学、富山短期大学、

株式会社インテック、株式会社チューリップテレビ、富山第一銀行などの経営に幅広く活躍しています。(以上参考資料は、廣貫堂資料室、富山市売薬資料館、商工とやまH20年6月号から抜粋しました)

  

資料館から帰る時、お土産に「紙風船」をいただきました。

 

 


黒部立山アルペンルートの紅葉

2016-11-01 16:47:13 | 旅行

10/24(月) 氷見でのキトキトウオーキングのあと、黒部立山の紅葉が見たく富山市に向かいました。

紅葉の時期でもありますし、立山駅に向かいホテルを6時に出発。立山駅には6:50到着。

   

立山駅は、標高475m。これから室堂の2450mを通り黒部ダム1455mまで約2時間かけて行きます。

  

  

  

   

   

  

午前9時黒部湖到着。

  

黒部ダムは、その建設は世紀の大事業として語り継がれ、中でも破砕帯との格闘は石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」に描かれた事でも有名です。

昭和31年から始まったダム建設には当時の金額で513億の巨費が投じられ、延べ1,000万人もの人手により、実に7年の歳月を経て完成しました。(黒部ダムHPより)

   

人造湖である「黒部湖」には、真っ赤な紅葉が見られました。放水ショーは、先週で終わっていて見ることができませんでした。

  

朝が早かったので空気も澄んで、正に快晴の天気、立山連峰の山々が綺麗に見えます。

レストハウスでは、黒部ダムカレーをいただきました。御飯がダムの形をしています。

   

観光客の方が扇沢の方から来られました。ども外国の方が多いようです。

これから立山駅に戻りますが、途中の光景を見るため、ゆっくり戻りたいと思います。

黒部平】  左手に遠く鹿島槍ヶ岳が見えます。

【室堂】  室堂(むろどう)とは、修験者が宿泊したり祈祷を行ったりする堂であり、山岳信仰や神奈備がある神体山では建立されることが多い。またはそこから派生した地名です。

ちょっと室堂内を探索したいと思います。

     

立山玉殿の湧水は、雄山直下の地下水で、立山トンネル開通と共にその一部が湧出したものです。室堂平には立山玉殿の湧水給水場があり、多くの登山客、観光客に愛飲されています。

また、全国名水百選にも選ばれました。標高2450mでの湧水は国内に例が無く、「立山玉殿の湧水」は日本国内で市販されている水の中では一番標高の高い場所(室堂平、標高2450m)で採水された水です。

   

ターミナル内に入ると「さらさら汁」というものが販売されていました。天正12年(1584)厳冬。戦国武将佐々成政(富山城主)が敢行した「立山ザラ峠越え」に由来した地元料理を現代風にアレンジしたそうです。

中には、白玉団子、つくね、などが入っていて醤油味でした。

  

雄大な山々を身近で見るのは、生まれて初めての経験です。

  

  

ミクリガ池】は、立山火山の水蒸気爆発によって出来た凹地に水がたまった池です。プランクトンなどはいますが、魚はいない貧栄養型の湖沼です。

みくりは、御厨と書き神様の食物を調理する所です。

素晴らしい光景ですね。

  

先を歩くと「みくりが池温泉」がありました。ここは、日本で一番の高所にある温泉です。あたりには地獄谷からの硫黄の匂いが立ち込めています。

タオルも持ってないのでどうしようかと思い、フロントに聞きましたらタオルだけ売っていました。

浴槽は2つあり、右の浴槽は少し熱めの湯です。熱いお湯はあまり好きではありませんが、折角ですので入りましたが、3分持ちませんでした。(笑)

然し、本当にいいお湯でした。時間があればもう少し入りたかったのですが・・・・・・・・

  

入湯記念にコースターをいただきました。

  

立山の地獄谷は、今でも火山系のガスが発生しています。散策路の脇には立ち入り禁止のロープが張られていました。

    

山崎圏谷(カール)】は、氷河によって山腹が削られて出来たものでカール(圏谷)と呼ばれています。

  

黒部立山アルペンルートは、初めて行きましたが、ホント素晴らしい所です。今から雪の季節になりますがこのあたりもたくさんの雪が積もるでしょう。

室堂からバスで美女平へ、美女平からケーブルカーで立山駅に戻ってきました。

今日は、朝6時前から行動を起こしましたが、早く行って正解でした。 

 

 

 

 

 

 

 


富山県氷見市へ

2016-10-27 12:45:31 | 旅行

10/21(金)

10/22から始まる「氷見キトキトツーデーウオーク」に参加するため富山県氷見市に行きました。

博多から新幹線さくらで新大阪へ。新大阪から特急サンダーバードで金沢。金沢からはレンタカーで氷見に向かいました。

氷見市は、能登半島の付け根部分に位置し、富山湾の新鮮なお魚が美味しい所です。中でも「寒ブリ」「白エビ」「ホタルイカ」などが有名です。

氷見市はもちろん富山県に行くのは初めてですので楽しみです。金沢からは約1時間で到着しました。

 先ず、高岡市の「雨晴(あまはらし)海岸」へ

ここは、晴れた日には富山湾越しに3000m級の立山連峰が見ることができますが、今日は少し雲がかかっていて、連峰がぼんやり霞んでいます。

  

文治年間(1187年)に、源義経と弁慶が、山伏姿に身をかわし奥州へ落ち延びる途中、にわか雨の晴れるのを待ったという岩。地名「雨晴」の由来ともなっています。

伝説では、弁慶が持上げたと言われるこの岩石は、上代の古墳の石槨であろうという説もある。昔、辺りが海となっていなかったころの貴人を埋葬した古墳だが、

波が上の部分をさらってしまい、石槨だけが残ったものと言われている。(雨晴観光協会HPより)

この海岸は、明日のツーデーウオークのコースにもなっています。

    

雨晴海岸から氷見市内に入ります。

氷見は、藤子A不二雄(我孫子素雄)さんの出身地。市内には「怪物君」の漫画ロードがあります。

      

   

   

  

午後4時近くになりました。商店街の湊川公園では、「忍者ハットリ君のからくり時計」があります。

  

商店街を少し入った所に「光禅寺」があります。ここが藤子不二雄A(我孫子素雄)さんの生家です。安孫子さんは、1934年光禅寺の長男として生まれました。

10歳の時高岡市に転居し、そこでパートナーとなる「藤本 弘氏」と会い、17歳で二人の合作「藤子不二雄」というペンネームで漫画家デビューしました。

私も子供の頃よく藤子不二雄さんの漫画を読んでいました。てっきり一人で書かれているのだろうと思っていましたが、二人の合作だったのですね。

  

  

光禅寺の隣には。「日宮神社」があります。天長5年(828年)勧請。以前は比美の浜(富山湾)に面していました。日の出の名所として日見の宮から日宮と称しました。

祭神は、天照大御神。

    

今夜の宿は、氷見漁港に面した所です。寒ブリは、12月からですので今の時期はありませんが、白エビや地元漁港で採れたお魚を出してくれました。

    

  

明日は、30kmのウオーキングです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 


会津飯盛山とさざえ堂(福島県会津若松市)

2016-10-19 04:23:55 | 旅行

10/14 今回の旅行最終日。8時にホテルをチェックアウトし、すぐ白虎隊の飯盛山に向かいました。飯盛山までは、動く坂道(@250)に乗って登れば楽ちんです。

NHK大河ドラマ「八重の桜」で有名になりました「ならぬことは ならぬものです

   

戊辰戦争のおり、16~17歳の少年たちで編成された白虎士中二番隊20人が戸の口原合戦場から退却し、滝沢峠の間道を通り、戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、

鶴ヶ城の天守閣は黒煙の中に見え隠れして、「城は陥落したか、今は主君のために殉じよう」と、全員が自決しました。

20名のなかで1人だけ生き残った 飯沼貞吉 によって、白虎隊の忠義と悲運の物語は広く人々に知られるところとなりました。

※戊辰戦争:1868年(慶応4)戊辰の年に始まった維新政府軍と旧幕府軍との間に十六か月にわたって戦われた内戦。

  

  

   

戦死者の墓標を見てみると、ソニー創立者井深 大氏や元自民党政調会長伊東正義氏の縁者の方も殉死されています。

  

飯盛山を左に行った所に「さざえ堂」があります。

このさざえ堂は、9月に放映されたNHKテレビ「ブラタモリ」で紹介されました。

会津さざえ堂は寛政8年(1796)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。

正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といいます。

当時飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案した建物です。

かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていました。   

また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、

建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。 (福島観光ナビより)

  

内部に入るとらせん階段みたいになっており、下りの人とはすれ違いません。一番上で上りと下りが入れ替わります。

2百数十年前の建物ですが、よく考えられています。また、お賽銭も1階で集中して集められることができるそうで同行のKさんの奥様が一番上からお賽銭を入れました。

  

   

Mさんご夫妻は、郡山発12時ぐらいの新幹線で帰られるそうで、さざえ堂をあとに帰路に着きました。

帰りの磐梯山P・Aにて。

  

郡山駅には11時過ぎに到着。Mさんご夫妻を見送り車を返却しました。3日間の走行距離は360kmぐらいでした。

また、来年も行きたいですね。

 


裏磐梯の紅葉2016(その3)浄土平~会津春日八郎おもいで館

2016-10-18 05:04:44 | 旅行

グランデコのゴンドラから浄土平までは国道115号線を走行し磐梯吾妻スカイラインを通ります。約50kmのドライブです。

この磐梯吾妻スカイラインは、有料道路でしたが2013年から無料開放されました。3年前の5月ごろ初めてこの道を通りましたが、両側に雪の回廊がありました。

   

浄土平に向かって走っていると、途中に紅葉が始まっている所がありました。

  

約1時間で浄土平に到着。この浄土平は、磐梯朝日国立公園に属しています。

磐梯朝日国立公園は、昭和25年(1950年)9月5日に指定された面積186,389ヘクタールの国立公園です。山形、福島、新潟の3県にまたがっており、

「出羽三山・朝日地域」「飯豊(いいで)地域」「磐梯・吾妻地域」「猪苗代地域」からなっています。

ここ浄土平は「磐梯・吾妻地域」に属し、磐梯吾妻スカイラインの中間地点の標高1,600メートルに位置しています。一切経山、吾妻小富士、桶沼に囲まれたこの一帯は、

一切経山の火山噴火により生成された火山荒原と、オオシラビソを主とする針葉樹林の原生林となっています。

また、高山植物群落や亜高山帯の針葉樹林湿原なども点在し、ビジターセンター、休憩所、自然探勝路が設置・整備されていますので、手軽に亜高山の自然を楽しむことができます。

吾妻山は古くから信仰の山として栄え、中吾妻山の西側にある吾妻山神社(吾妻山大権現)には山伏修行のため、ふもとからの駆け道(登山道)が通じていました。

駆け道沿いには、修験に関連した地名が残されています。浄土平」は、吾妻小富士や一切経山に囲まれた鮮やかな花々に満ちた平坦地が、厳しい山道を歩んできた登拝者にとって

極楽浄土のように思えたことから名付けられたと考えられます。(浄土平ビジターセンターHPより引用)

レストハウス前にある「吾妻小富士」に登ってみます。吾妻小富士は1707mで早春のころになると山肌に残る雪がうさぎのような形に見えることから、この残雪は「雪うさぎ(吾妻の雪うさぎ)」と呼ばれ、

福島市民に春の訪れを知らせる風物詩となっています。昔から雪うさぎが見えるようになると、農家の人々が苗代に種をまき始めたところから、「種まきうさぎ」とも呼ばれます。

レストハウス駐車場から階段を登って約10分、火口に着きました。この火口は、直径500m、火口底まで70mです。

2年前九州鹿児島の高千穂峰に登りましたが高千穂にもこのような火口(御鉢)がありました。火口を覗くと吸い込まれそうで怖いです。

吾妻小富士は、火口を1周できるようになっていますが、今回時間があまりありませんのでここまでとします。

火口周辺には、あの世に近いという意味でしょうか、石が積み重ねられていました。

    

会津のKさんとは、会津坂下町(ばんげちょう)「春日八郎おもいで館」で待ち合わせしています。車のナビをそこに合わせると約1時間半かかります。

現在12時40分を過ぎましたのでKさんに電話で待ち合わせ時間を2時半と連絡しました。(ちょっと余裕を持ちました)

高速を使い、会津坂下町の「春日八郎おもいで館」には、1時45分到着。我々が到着したのと同時にKさんも来られました。

春日八郎は、大正13年(1924)会津坂下町塔寺で生まれました。近くには立木観音があります。

子供の頃、よくこの「おもいで館」近くに遊びに来ていたそうです。その場所には「一本杉」がありました。その話を作詞家の高野公男に話し、栃木出身の舩村徹が曲をつけました。

そこで生まれた歌が「別れの一本杉」です。おもいで館の前には別れの一本杉の歌碑が建っています。近づくと歌が流れてきます。

春日八郎というと他に「お富さん」「長崎の人」「あんときゃどしゃ降り」「赤いランプの終列車」「山の吊り橋」「ロザリオの島」・・・・・・・・・・・・

どれも私が子供の頃よくラジオで聞いていました。

  

            別れの一本杉    作詞 高野公男   作曲 船村 徹   昭和30年(1955)発売

                   泣けた 泣けた

                        堪えきれずに 泣けたっけ

                        あの娘と別れた哀しさに

                        山のかけすも啼いていた

                        一本杉の石の地蔵さんのヨ

                        村はずれ   

 

 

  

   

春日八郎は、会津坂下町八幡小学校にピアノを寄贈したり、第二中学校の校歌や応援歌を作曲し、会津坂下町に貢献されたということで名誉町民の称号が贈られました。

また、作曲家猪股公章さんは、3歳までこの会津坂下町に住んでおられたそうです。古くは、戊辰戦争の時の「中野竹子」も会津坂下町出身です。

  

おもいで館を出て次に向かうのは「蔵とラーメンの町喜多方」です。

蔵のまち喜多方」として多くの旅人たちが集う喜多方。はじめて訪れた人にも、懐かしい郷愁を感じさせずにはおかない、素朴な趣のあるまちです。

それは、喜多方の蔵が観光のためにつくられたものではなく、現在も人が住み、使い、暮らしのうつわとしての役割を果たしているからなのでしょう。表通りはもちろんのこと、

路地裏や郊外の集落にまで蔵があり、その数は四千棟余といわれています。なぜ、このまちに、こんなに多くの蔵が建てられたのか。それには、いくつかの理由があります。

まず、いまでも、酒蔵、味噌蔵として使われていることからもわかるように、良質の水と米に恵まれた土地ならではの醸造業を営む場として、蔵が最適な建物であったことがあげられます。

また、蔵は、男たちの夢の結晶として、「四十代で蔵を建てられないのは、男の恥」とまでいわれ、喜多方の男たちにとって、自分の蔵を建てることは、情熱をかけた誇りの対象でもあったのです。

喜多方の蔵が、画一的なものでなく、白壁、黒漆喰、粗壁、レンガなどの種類や扉の技巧にいたるまでバラエティーに富んでいるのは、そうした男たち一人一人のロマンの表現だったのでしょう。

そして、もう一つの大きなきっかけとなったのが、明治十三年に起きた大火でした。この火事は、市の中心部から瞬く間に燃え広がり、約三百棟の家々を焼き尽くしました。が、

そのとき、くすぶる焼け野原に、厳然と残ったのがまぎれもない蔵の姿だったのです。こうして喜多方の人々は、蔵を誇りとして、蔵とともに今日まで暮らして来たのです。(喜多方市観光協会HPより抜粋)

今回は、大和川酒蔵の蔵を見学しました。

大和川酒蔵は、江戸中期寛政2年(1790)の創業です。

  

 

車の為試飲はできませんでしたが、丁度秋の庫出し頒布が行われており、それに申し込みました。10月末、11月末、12月末と3回にわたり送ってくれるそうです。

喜多方ラーメンは、昭和初期に作られ、スープはしょうゆ味の透明な豚骨スープです。喜多方市の人口約37000人に対し120軒ものラーメン屋さんがあるそうです。

今回は食べませんでしたが、今夜の宿でもビッフェに出るそうで今晩の楽しみにしておきます。

  

今夜の宿は、NHKブラタモリで放映された「御宿東鳳」です。テレビで20階からの展望がいいと放映されましたので20階に行ってみましたが、閉まっていました。

  

夕ご飯は、会津のKさんも一緒にいただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


裏磐梯の紅葉2016(その2)

2016-10-17 05:06:10 | 旅行

10/13  裏磐梯の朝は、寒いです。0度~1℃ぐらいしかありません。今日は天気も良くホテルから磐梯山が良く見えます。

朝食前にホテルの近くを散歩します。

 

  

   

  

約1kmの散歩でしたが、セーター1枚多く着ていますが、寒くて手がかじかみます。ホテルでは、会津の郷土玩具「赤べこ」「起き上がり法師」が展示されていました。

  

そうそうNHKブラタモリで紹介された磐梯山の宝「山塩」もありました。このホテルの北塩原村もこの山塩と関係あるのでしょうか?

マンホールは、大山桜、水芭蕉、シジュウガラです。

  

朝食後、昨日行った「グランデコ」のパノラマゴンドラに乗るため出発しました。パンフには真っ赤な紅葉の上をゴンドラで空中散歩するような写真が掲載されています。

期待を持っていざゴンドラへ。

     

約15分でパノラマゴンドラ頂上駅に到着。西吾妻山登山はここから登ります。

 

 

  

    

紅葉にはまだ早かったのか、パンフみたいな光景は見れませんでしたが、磐梯山、西吾妻山の大自然を満喫しました。心が洗われたような気分です。

ゴンドラを下り、今日のメインの浄土平に向かいます。

115号線を走行中車が沢山停まっている所を発見。ちょっと見てみます。

ここは、中野沢の八百屋といって八百屋さんが10軒ほど並んでいます。

高原野菜がメインで大根が1本100~150円、キャベツ1玉150円・・・・・・・と凄く安い野菜が並んでいます。

あと、松茸もありました。1パック1万数千円・・・・・・・ちょっと手が出ません。

珍しいものとしては、香茸(いの花)も売っていました。乾燥して炊き込みご飯などに入れると香りがいいそうです。

  

  

(その3)に続く

 

 

 

 

 


裏磐梯の紅葉2016(その1)

2016-10-16 07:29:40 | 旅行

裏磐梯の紅葉が見たくなり10/12から2泊の予定で裏磐梯に行ってきました。

昨年は10/20頃ここに紅葉見学に行きましたが、残念ながらピークが過ぎており、今年は1週間前に行くことにしました。

7:00に福岡を出て福島県郡山に着いたのが11時少し前。郡山駅でレンタカーを借り、同行する下関のMさんご夫妻を待ちます。

12時Mさんご夫妻と共に裏磐梯へ。途中小野川湖で観光客の方からグランデコ東急の紅葉がきれいという情報を得て一路グランデコへ。

裏磐梯に近づくにつれだんだん天気が悪くなってきて、ついには霧雨が降ってきました。福岡を出た頃は、20数度あった気温も9~10度になってきました。

  

 

  

このグランデコ東急ホテルの隣接したところに「パノラマゴンドラ」があり上から紅葉を見ることができるそうですが、今日はあいにく霧雨が降っていて見通しも悪く明日早朝行くことにしました。

然し、今年の紅葉は、9月に台風などで雨が多かったせいか、あまり期待できません。

次は、裏磐梯高原ホテルへ。ここのティルームから弥六沼の紅葉も素晴らしいです。

  

 

   

昨年と比べてちょっと早かったかな???このあと五色沼「柳沼」に向かいました。

 

   

五色沼は、天気が良ければ湖面に紅葉が反射して綺麗な紅葉が楽しめるのですが、やはり天気が悪いとどうしようもありません。

時間も5時近くになってきましたので今夜の宿「休暇村・裏磐梯」に向かいました。

 

食事は、ビュッフェですが、別に福島牛のステーキ、福島牛香葉焼きをオーダーしました。もちろんお酒は会津の地酒です。

   

今日から始まったプロ野球CS第2ステージの日ハムVSソフトバンクホークスの試合も気になって仕方なかったですが、ホークス劣勢の為すぐ就寝しました。

 

 

 

 

 

 


レンタカーで「奥日光」へ

2016-09-14 17:35:29 | 旅行

折角日光に来ましたので9/5(月)は、レンタカーを借りて奥日光に行ってきました。

奥日光は、高校の修学以来ですので約半世紀ぶりです。今日(9/5)は、天気も良く男体山もきれいに見えています。

いろは坂を通り、戦場ヶ原へ。戦場ヶ原は、かつて湖であったものが湿原化したもので、400ヘクタールの広大な面積を誇ります。

戦場ヶ原の由来は、当時下野国(現在の栃木県)の二荒神(二荒山(男体山))と上野国(ほぼ現在の群馬県)の赤城神(赤城山)がそれぞれ大蛇(男体山)と大ムカデ(赤城山)に化けて

戦った戦場であるというもの。なお争いの原因は中禅寺湖を巡る領地争いで、この伝説で勝ったのは二荒神(男体山)であったとされる。

近くには、男体山、太郎山、山王帽子山、三岳などの日光連山が見えます。

  

そのあと、Uターンし、竜頭の滝に向かいます。

竜頭の滝は、華厳の滝、湯滝とともに奥日光三名瀑の一つに数えられています。長さ、210m、高低差約60m。滝の名称は、滝を正面から見た姿を竜の頭に見立てたとも、

二手の滝をヒゲに見立てたとも言われています。

紅葉シーズンには、周りが紅くなってきれいでしょうね。

 

  

龍頭の滝動画    https://youtu.be/fdy_DVGlwPs

 

龍頭の滝を下りてくると「中禅寺湖」です。この湖の向かい側には、「二荒山中宮祠」があります。

二荒山中宮祠  

中宮祠は、男体山中腹の中禅寺湖畔に鎮座する。「中宮祠」とは、日光市の本社と男体山にある奥宮との「中間の祠」の意です。

勝道上人による782年(天応2年)の男体山登頂ののち、784年(延暦3年)に建立されたという。この時、同時に中禅寺も二荒山神社の神宮寺として創建された。

古くは「男体中宮」「男体権現」「中禅寺権現」とも称された。棟札の写しによれば、1096年(永長元年)、1155年(久寿2年)、1161年(永暦2年)の社殿造営が確認されています。

その後、現在の社殿が1699年(元禄12年)に造営されました。

当地は古くから男体山登山の表口とされ、現在も登拝口(登山口)が本殿横に位置しています。(Wikipediaより)

  

 

男体山はこの神社から登ります。(入山料500円) お宮の方に聞きましたら標準の方で往復6時間かかるそうです。

社殿には、男体山の登山回数、また一日4、5往復された方の札が掛かっています。一日5往復というと凄いですね。この方たちは、往復3時間ぐらいで登られているのでしょうか?とにかく凄い!

回数のトップは、1223回というのがありました。

      

二荒山中宮祠から英国大使公園の方に行きます。

ここからは、中禅寺湖と男体山がきれいに見えます。まるで絵葉書みたいです。海抜1269mの地点です。

奥日光の入り口に位置する中禅寺湖。周囲約25km、最大水深163mで、およそ2万年前に男体山の噴火による溶岩で渓谷がせき止められ、原形ができたといわれています。

穏やかな気候のため、明治から昭和初期にかけては外国人の避暑地として賑わいました。男体山のふもとに広がるのどかな湖畔は四季折々の表情を楽しめますが、

特に初夏のツツジ、秋の紅葉が見事です。また、遊覧船に乗って水上からの景色を楽しむのもオススメ。紅葉シーズンには「紅葉廻り」コースも運行されます。(日光観光ナビより)

私、中禅寺湖というと、何か、お寺の名前ですが、このお寺がどこか知りませんでした。この写真を撮った所に「立木観音」があります。ここが「中禅寺」です。

中禅寺(ちゅうぜんじ)は、784年、日光開山「勝道上人」(しょうどうしょうにん)によって建立されましたお寺で、世界遺産「日光山輪王寺」(にっこうざんりんのうじ)の別院です。

御本尊「十一面千手観世音菩薩」(国重要文化財)は、勝道上人が中禅寺湖上に千手観音様をご覧になり、その姿を桂の立木に彫ったと伝えられています。観音様は、現在も地に根をはり、

訪れる人々を穏やかな表情で迎えます。 また、坂東三十三観音霊場の第十八番札所として多くの巡礼の方たちもご参拝になります。(中禅寺HPより)

  

今日は、夕方の羽田発の飛行機で帰る予定ですので余り時間がありません。最後は、「華厳の滝」です。

 華厳の滝は袋田の滝(茨城県・高さ120m)と那智の滝(和歌山県・高さ133m)と共に日本三大名瀑の1つに、裏見の滝、霧降の滝と共に日光三名瀑の一つに数えられています。

男体山の噴火により岩石が堆積し堰き止められた中禅寺湖の流出口にあり、高さ97mの落差で流れ落ち、岩壁からは伏流水が流れ出し12の小滝となって滝全体を包み込むような特異な景観を作り出しています。

華厳の滝は日光を開いた勝道上人が第一発見者とされ、名前の由来は天台宗の五時八教説の中の華厳経と呼ばれる仏教経典から名付けられたといわれています。

明治33年(1900)に滝壺に茶屋が開かれた以降に観光化が進み、昭和5年には華厳の滝エレベーターが設置されるとさらに多くの観光客が訪れるようになりました。

昭和6年に国指定名勝(「華厳瀑および中宮祠湖(中禅寺湖)湖畔」)に指定され平成19年に日本地質百選(「華厳の滝」)に選定されています。 (日光観光ナビより)

   

 華厳の滝動画  https://youtu.be/kn30z3oyFj0

 

日光から宇都宮までは、車で一時間少しかかります。今日は、宇都宮発13:33の電車で東京に戻る予定です。

12時半、レンタカーの宇都宮東口営業所に到着。駅前を見ると、餃子屋さんがあります。車も沢山停まっていますので有名店?

行列がたくさんできていたら帰ろうと思いましたが、ついてみると私達の前には5組のお客さん。これだったら何とか間に合うのでは?

15分ぐらい待ったら店内に案内されました。時間がないのでいつもの焼き餃子と水餃子を注文。

やはり行列ができる店だけあって美味しかった・・・・・・・・時間があればもう少し注文したかったのですが・・・・・・・(また、今度来たいな~)

どうにか、ギリギリで13:33の電車に間に合い、羽田空港には、16:00到着。飛行機にも間に合いました。

  

   

 

 

 


修学旅行以来の日光へ

2016-09-07 06:16:08 | 旅行

9月2日(金)

9月3日(土)から行われる「日光ツーデーウオーク」参加の為、福岡空港より飛行機で羽田へ。羽田から品川までは、京急。

品川から「青春18きっぷ」を使って日光へと向かいます。

この日は、ブロ友「あすかさん」とお会いする予定ですので京浜東北線で指定された駅に向かいます。

あすかさんとは、7年前、東京国際フェスタでお会いしましたので久しぶりの再会です。あすかさんは、明日(9/3)のくつの日ウオークに参加されるそうです。

お元気に東京近辺を歩かれています。

あすかさんと別れ、赤羽から「湘南新宿ライン」で宇都宮へ向かいます。そういえば、この湘南新宿ラインは、今年3月やはり青春18きっぷを使って三重県亀山から茨城・古河まで

行ったとき確か、箱根からこの電車に乗ったのではなかったかな?あの時は、亀山から9時間半かかって古河まで行きました。  

赤羽から宇都宮までは、約1時間半。宇都宮から日光線に乗って日光に向かうのですが、この電車、1時間に1本です。時間がありましたので宇都宮で途中下車し、

B級グルメの「宇都宮餃子」を食べることにしました。

  

  

宇都宮駅西口で降りると、餃子屋さんの看板がたくさん立っています。どこの餃子屋さんがおいしいか、調べて来ませんでしたので、兎に角、駅から近い店に入りました。

   

    

宇都宮餃子は、福岡の餃子よりも少し大きく、焼き加減も丁度良くおいしくいただきました。水餃子は、モチモチしています。これも美味しかった。

福岡では、ラーメンと餃子という注文の仕方がありますが、ここでは、餃子を単品で注文できるのですね。小腹がすいた時には丁度いいかもしれません。

宇都宮は、餃子屋さんがたくさんありますので、消費量も全国一かな?と思いましたら、静岡・浜松とトップ争いをしているそうです。

浜松というと、鰻しかイメージしませんが、今度東海道を歩いた時に浜松の餃子も食してみたいと思います。

 

ちょっとゆっくりしていたせいか、14:17発日光線の時刻が迫ってきています。お勘定を済ませ、駅まで猛スピードで走ってどうにか乗ることが出来ました。

日光線は、1890年(明治23年)開業し、列車外装に西洋風レトロ調エンブレムを施し、列車内の案内表示には英文・中文・ハングルなどを併記しているほか、駅設備も洋風レトロ調に合わせた装飾とし、

英文案内や案内スタッフの配置などにより乗り換え案内を充実させ、日本国外からの観光客を意識した設備が整えられています。

  

約40分ぐらいで日光駅に到着。日光は、高校の修学旅行以来で約半世紀ぶりです。

JR日光駅の駅舎は、1912年(大正元年)に造られた洋風建築の2階建てで一階には貴賓室もあったそうです。夜になるとシャンデリアに灯がともりロマンチックな光景が見られます。

  

駅前には、「日光ツーデーウオーク」の幟が立てられていました。

東武日光駅は、JR日光駅から徒歩5分ぐらいの所にあります。

  

 

 

 

 

 

 


世界遺産「毛越寺(もうつうじ)」(岩手県平泉町)~ 盛岡冷麺

2016-08-26 11:31:08 | 旅行

中尊寺からバスで約10分で平泉駅。ここから徒歩で10分で「毛越寺(もうつうじ)」に着きました。

この毛越寺も世界遺産「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群ー」の中に含まれています。

  

毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、

中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構が

ほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。

2011年6月、「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群ー」として世界遺産に登録されました。

拝観料(500円)を払い、境内へ。

広大な境内には、かつて金堂円隆寺を始め、嘉祥寺・講堂・常行堂・経楼・南大門などの堂舎が並び、その前庭には大泉が池を中心とする浄土庭園が配されていました。

  

  

本堂で御参りし、浄土庭園の廻りを歩いてみます。

【築山】

洲浜と出島の対応の位置にあり、海岸に迫る岩山を表現しています。

【開山堂】

毛越寺開山慈覚大師をお祀りするお堂で他に両界大日如来像、藤原三代の画像を安置しています。

   

【嘉祥寺跡】

二代基衡公が工を始め、三代秀衡公が完成させた御堂で、本尊は、薬師如来でした。基壇は亀腹式の土壇です。嘉勝寺ともいいます。

【講堂跡】

仏法を説き仏法を聞く堂舎。内陣の仏壇の下部は厚い粘土層で造られています。

 

【金堂円隆寺跡】

二代基衡が万宝を尽くして建立した勅願寺で、本尊は、雲慶作の丈六の薬師如来であった。毛越寺の中心的伽藍で、東西に廊が出て南に折れ、その先端には、鐘楼、経楼があった。

基壇は石造り壇上積です。

 

【鑓水】

山水を池に取り入れるための水路ですが、谷川を流れ下り更に蛇行しながらゆったりと平野を流れる川の姿を表現しています。水底には玉石を敷き詰め、流れに水切り、水越し、横石などの石を

配していて、「作庭記」に記されているこれらの技法を目のあたりにできる貴重な遺産です。

ここで曲水(ごくすい)の宴が行われます。九州の太宰府天満宮でも曲水の宴が行われますが、これは、曲水(きょくすい)の宴と呼んでいます。同じ宴でも呼び方が少し違うのですね。

  

池の畔では、「萩の花」が咲き始めていました。9月中旬には、毛越寺で「萩祭り」が行われるそうです。まだまだ暑い日が続いていますが、季節は刻々と秋に向かっているのですね。

   

【常行堂】

現常行堂は、享保17年(1732)に再建された建物で、本尊は、宝冠阿弥陀如来、脇士は、四菩薩、奥殿に摩多羅神をまつる。祭礼は正月二十日で古式の法要の後「延年の舞」が神仏に奉納されます。

  

  

【常行堂・法華堂跡】

常行三昧・法華三昧という天台宗の修行の道場です。平安時代創建の建物は、慶長2年(1597)に焼失しました。

  

  

【洲浜】

海岸の砂洲を表現しており、柔らかい曲線で入江を形作っている。荒々しい出島・池中立石と対照させた景趣です。

  

時刻は、5時に近づきました。この毛越寺の拝観時間は5時までですので少し急ぎ足で廻ります。

毛越寺には、「白鹿伝説」があります。寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊の折、この地にさしかかると一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。

ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、大師は不思議に思いその毛を辿ってゆくと、前方に白鹿がうずくまっていました。大師が近づくと白鹿の姿は霧のなかへ消え、

やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げました。

大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。これは毛越寺の開山にまつわる話です。

毛越寺事務所で御朱印を受け取り、盛岡駅に行くためJR平泉駅に向かいました。

  

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【盛岡冷麺】

歩友東京のMさんから教えていただいた「盛岡冷麺」。

食べたなり、平泉から東北本線に乗って「盛岡」に行ってきました。平泉から盛岡までは、約80分かかり、着くと、もう暗くなっていました。

  

お目当ての「ぴょんぴょん舎」は、駅から歩いて5分ぐらいの所にありました。大きなお店で4階位までがお店になっています。

冷麺だけでよかったのですが、明日(20日)から花巻イーハートーブ2DMに参加しますので体力をつけておこうと、焼肉セットを注文。

  

  

お酒は、岩手の地酒「浜千鳥」。キムチも別に注文。

   

焼肉が終ると待望の「盛岡冷麺」が出てきました。

 私自身、韓国釜山には、過去何度も旅しており、その都度、韓国の冷麺を食べていました。

この盛岡冷麺は、韓国冷麺とまったく変わらない味でどんどんお腹の中に入って行きます。何か、韓国で食べているみたいです。

今、夏だから果物はスイカでしょうが、秋になると韓国同様「梨」になるのでしょうね。

以前、福岡のラジオで盛岡冷麺を紹介していたとき、韓国と岩手は緯度が同じということを放送されていましたが、調べてみると、北朝鮮・平壌と岩手・八幡平は、同じ北緯40度です。

この「盛岡冷麺」を作られた青木氏も平壌の出身だそうです。繋がっているのですね。

因みに覚えやすい「ぴょんぴょん舎」の店名は、オーナー「邉 (ピョン)」さんのお名前から付けられたそうです。平壌とも関係があるのでしょうか?