よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

みちのく「岩手」へ【世界遺産中尊寺】

2016-08-24 19:00:51 | 旅行

8/19(金)

8/20からの「いわて花巻イーハートーブの里ツーデーマーチ」参加の為、福岡空港より飛行機でみちのく岩手へ飛び立ちました。

福岡から岩手には、JALの一日一便の直行便がありますが、人気があるのか、すぐ満席になってしまいますので、比較的本数の多い仙台空港経由して東北新幹線で岩手に入りました。

福島、岩手、宮城、青森は、「みちのく」という言葉で表現されますが、この「みちのく」とは、

古代には,〈みちのく(道の奥)〉と呼ばれ,政治や文化の中心からは僻遠の地であった。大化改新以後,日本海側に出羽国,太平洋側に陸奥国がつくられ,東山道に属した。

この〈道奥国〉は676年(天武5)以前の某時点で〈陸奥国〉と表記法が変わり,その後変わることなく現在に至っているが,読み方の方には若干の変化を生じた。

8,9世紀を通じて正式の呼称〈みちのおくのくに〉とならんで,その約称〈みちのくのくに〉も行われたが,9世紀における漢詩文の盛行に伴って中国風に〈陸州(ろくしゆう)〉と表記し,

さらに〈六州〉とも表記した。前者から〈みちのくに〉,後者から〈むつのくに〉の読み方が発生したと推定されている。(コトバンクより)

蛇足ですが、家内とつきあっている時、スナックでプロポーズ代わりに、山本譲二さんの「みちのく一人旅」を歌って一緒になりました。(笑)

  

さて、岩手に行って先ず行ってみたい所は、世界遺産に登録されている平泉・中尊寺です。

JR一ノ関駅からバスで約30分(360円)で中尊寺に着きます。先ず見えてくるのが「弁慶の墓」。

月見坂の入り口にあるのが、あの武蔵坊弁慶の墓です。

義経の家臣として活躍したと言われた弁慶ですが、その人物像や実態については諸説あり、全国各地で様々なエピソードが語り継がれています。

平泉で有名な逸話としては、義経一行が藤原氏を頼り奥州に、その後秀衡の死後、子の藤原泰衡が義経一行を襲ったというもの。

その時に武蔵坊弁慶は大量の矢を受けながら、立ったまま息を引き取ったというエピソードが残されています。

弁慶の立往生という言葉はここから出たものです。(平泉観光案内より)

  

    

中尊寺は、小学校や中学校の歴史の時間で習いましたが、この歳になるともうほとんど忘れかけていますが、確か、奥州藤原三代のミイラがあることだけは覚えています。

この際、中尊寺のおさらいをしてみたいと思います。

中尊寺は、は天台宗の東北大本山です。創建は嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁によって開山されたとされ、その後奥州藤原氏初代の清衡が長治2年(1105)から中尊寺の再建に着手し、

天治元年(1124)に金色堂が竣工、基本的な伽藍が完成したのは21年後の大治元年(1126)の時です。吾妻鏡によると中尊寺の規模は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」とされ、

平泉では毛越寺(もうつうじ)に次ぐ大きさでした。当時の平泉は奥州の中心地だけでなく日本の主要都市の1つでもあり、集められたの金銀だけでなく、技術や文化も積極的に取り入れられ、

蝦夷の潜在的な土壌もあり独自な文化が花開きました。藤原四代の泰衡が当主となると、義経を匿った事で幕府と軋轢が生じ、文治5年(1189)に義経が高館で自刃させられると

同年の9月には泰衡が家臣に殺害され藤原氏が滅亡します。中尊寺は幕府に庇護され、金色堂(国宝)に鞘堂などが築かれますが、徐々衰退し、建武4年(1337)の火災によって多くの堂宇が焼失します。

近世に入ると伊達藩の庇護により、金色堂の改修や白山神社能舞台兼神楽殿などが再建され、東叡山寛永寺の末寺となりました。

中尊寺は現在でも様々な寺宝があり国宝を始め多くの文化財を所有しています。 (岩手県観光・旅行見所ナビより)

中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山は、「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群ー」として2011年6月「世界遺産」に登録されました。

 

月見坂の両側には、樹齢300~400年の杉並木が続きます。月見坂を登ると一遍で大粒の汗が出てきました。このところ暑いからあまり歩いていないからか、すぐ息が上がります。

それにしても中尊寺の敷地は、広いです。やはり拝観時間が2時間というのは、わかりますね。

  

【弁慶堂】

    

【地蔵堂・薬師堂・観音堂】

  

【中尊寺本堂】

本堂は中尊寺の中心となる施設でその規模も最大です。奥州藤原氏が亡ぶと次第に勢いも無くなり、建武4年(1337)には火災により多くの堂宇と共に本堂も焼失しました。

近世に入ると伊達藩の庇護の元、多くの建物が再建され、本堂前にある山門も元々一関藩主であった伊達兵部宗勝の居館であった一関城より万治2年(1659)に移築されました。

山門は薬医門形式で左側に脇門があるなど城郭建築の一端を見る事が出来ます。現在の本堂は明治42年(1909)に再建されたものですが比叡山延暦寺より分火された「不滅の法燈」や

様々な儀式などが執り行われています。

   

   

【不動堂・峯薬師堂】

  

【大日堂・梵鐘】

  

【阿弥陀堂】

  

【讃衝蔵(さんこうぞう)】

「讃衡蔵」は、中尊寺に伝わる、歴史ある文化財や宝物をきちんと残し、後世に伝えるために、平成12年、2000年に新たに建設された建物です。

讃衡蔵という名称は、「奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡の衡)の偉業を讃る宝蔵」というところからつけられたものです。

現在残されている3000点以上の国宝や重要文化財が、宝物館「讃衡蔵」に収められています。ここで金色堂と共通の入場券(800円)を買って中に入ります。

ただ、蔵内は、撮影禁止です。(金色堂も撮影禁止)

  

【宮澤賢治詩碑】

金色堂の前には、宮沢賢治の詩碑があります。

  

【金色堂】

世界遺産中尊寺の金色堂はおよそ800年前に造られ、その後一度も焼失することなく当時の姿を今に伝える国宝建造物第一号です。

建物は漆の上から金箔を張った阿弥陀堂で金銀・螺鈿(らでん)・蒔絵で装飾された堂内部の須弥壇の下には初代の清衡公、二代の基衡公、三代の秀衡公の棺と四代泰衡の首級が安置されています。

金色堂の装飾品の中には夜光貝の螺鈿細工など日本国内では手に入らないものも多数有り、平泉は中国や朝鮮などとも交易をしていた国際都市だったことが裏付けられています。(岩手県観光ナビ)

この覆堂は、昭和38年(1963)建築されました。

  

【金色堂旧覆堂】

   

【芭蕉句碑】

奥州藤原家滅亡500年に当たる元禄2年(1689)、芭蕉は、門人の曾良と二人で奥の細道の旅に出ます。江戸を発って44日後の5月13日平泉を訪れました。

「五月雨の 降り残してや 光堂」   意味は、あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか。

  

【経蔵・白山神社・弁天堂】

  

中尊寺見学を1時間ぐらいで切り上げようと思いましたが、やはり見るべきものがたくさんあり、とうとう2時間かかってしましました。

このあと、同じく世界遺産の「毛越寺(もうつうじ)」に行ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東北新幹線に乗って青森へ

2016-08-03 16:19:23 | 旅行

7/30(土)

31日からの「あおもり縄文の杜ツーデーマーチ」に参加の為、青森に行ってきました。

福岡から青森までは、飛行機の直行便がありませんので、折角ですので東京から東北新幹線に乗って青森に行くことにしました。

  

東京発11:20はやぶさは、秋田新幹線のこまちを連結し、盛岡駅で切り離し、そのあと新青森に向かいます。

14:49新青森駅到着。新青森駅から奥羽本線で青森駅へ。

東北地方は、前日の29日に梅雨明け宣言されたのに青森は、雨でした。

  

2DMは、事前受付が行われており、そのまま会場の八甲田丸メモリアルシップへ。

 1964年8月12日就航した八甲田丸は歴代の青函連絡船55隻のなかで23年7か月と現役期間が1番長かった船です。また青函連絡船の最終航行船の大役も務めました。

その明るい黄色の船体は多くの市民に親しまれ、現在は青函連絡船メモリアルシップとして当時の桟橋付近に係留展示されています。

   

受付も済んで、青森で行ってみたかった「棟方志功記念館」に行こうと思います。

棟方志功記念館は、青森が生んだ世界に誇る板画家・棟方志功の文化勲章受章を称え、その芸業を永く伝えるため、昭和50年11月に開館しました。

校倉造りを模した建物は池泉回遊式日本庭園とよく調和し、落ち着いた佇まいは季節の移ろいとともに四季折々の風情を感じさせてくれます。平成24年7月には

鎌倉市の棟方板画館と合併したことにより、板画のみならず倭画、油絵、書など幅広い棟方作品をほぼ網羅し、その収蔵作品数は国内最大のコレクションとなりました。

展示室は「作品を一点ずつじっくり見て欲しい。」という棟方志功の意向により、限られた広さではありますが、年間4回の展示替えにより、これら作品と併せ板木や使用した道具などの

関連資料も展示しています。

【棟方志功について】
明治36年(1903年)9月5日生
没年 昭和50年9月13日東京にて 享年72歳  (青森市観光情報サイトより)

館内は、撮影禁止ですので写真は、ありませんが、子供の頃、ゴッホの作品を見て、自分もゴッホになりたいと思ったそうです。彼は絵描きのことを「ゴッホ」と思っていたそうです。

極度の近視の上、眼鏡を板に突きつけて描く姿は、正に天才です。

 

  

  

記念館の閉館時間が近くなりましたので退館しましたが、時間があればもっと見てみたい所でした。

さて、初めての青森ですので、魚介類を食べたいと前から思っていましたので、事前にネットで検索し、青森の美味しいお店に行きました。

先ず、お刺身です。ホタテ、マグロ・・・・・・・・。ビールはキリンの青森づくりです。

    

青森で有名なお酒「田酒(でんしゅ)」もいただきました。私、日本酒党ではありませんが、このお酒飲んでいると飲みやすくどんどん盃が進んでいきます。

空になった所で、田酒の大吟醸もいただきました。このお酒も素晴らしく、ついつい飲みすぎてしまうくらいです。

あと、「ホヤ(海鞘)の刺身」もいただきました。ホヤは、九州ではあまり食べられませんが、東北の方はよく食べられるそうです。

ちょっとグロテスクな格好ですが、私もチャレンジしてみることにしました。独特な匂いもあることでしたが、ちょっとショッパイ感じはしましたが、全部食べることが出来ました。

  

〆には、ホタテが入った青森ラーメン、ホタテ入りのあんかけ焼きそばをいただきました。どれも初めて食べるもので、美味しかった・・・・・・

  

明日は、32kmのウオーキングに挑戦します。

青森のねぶたも8/2から始まりますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


お伊勢詣り(三重県伊勢市)

2016-06-27 18:11:42 | 旅行

6/22(水)

短期のバイトが6/20で終了したので東海道歩きを兼ね、お伊勢詣りに行ってきました。伊勢神宮に行くのは、2年前「伊勢志摩ウオーク」以来です。

福岡を出発した時は、激しい雨でしたが、伊勢は、曇り空。

先ずは、外宮へ。

  

  

先月の26~27日ここ伊勢志摩でサミットが行われました。その記念ビールですが、残念ながら飲んでいません。

  

外宮前の「赤福」で先ず腹ごしらえ。伊勢神宮に来たらやはりこれですね。

外宮は、食物・穀物を司る神である豊受大御神がお祀りされています。内宮創建から500年後に伊勢の山田原にご鎮座された『衣食住をはじめ、あらゆる産業の守り神』です。

  

せんぐう館に行ってみると、菖蒲園には菖蒲の花が咲いていました。もうピークは過ぎたようですが、それでもきれいな菖蒲の花を楽しませてくれました。

  

  

参道を歩いていると何か、パワーを感じます。

正宮に着きました。伊勢神宮は、20年毎に遷宮されます。最近では3年前の平成25年に行われました。

  

  

外宮の朱印もいただきました。

  

【内宮】

外宮の後、バスで内宮に行きました。このころから雨がポツリポツリ降ってきました

内宮は、皇室の御祖先の神である天照大御神がお祀りされています。垂仁天皇の26年(紀元前4年)に、神路山・島路山を源とする五十鈴川の川上にご鎮座された『日本人の総氏神』です。

  

外宮の火徐橋では、左側通行でしたが、内宮の宇治橋では、右側通行です。

  

  

手水舎、五十鈴川で身を清めます。この日は、雨の為、五十鈴川が増水していたため、五十鈴川は、パスしました。

先月のサミットでは、世界の首脳もここ伊勢神宮に参拝されました。一の鳥居を過ぎ神楽殿へ。

  

  

御正殿です。写真は、この階段の下からです。ここでも記念写真を撮りました。

   

帰りも宇治橋を通ります。

  

五十鈴川の中に入って、宇治橋を撮られている方もいました。ここでしたらいい写真が撮れるでしょうね。

   

内宮を出ると、おはらい町通りです。

  

赤福は、1707年創業。現在の建物は、明治期に建てられ130年の歴史があります。

   

五十鈴茶屋でお茶タイムしました。

  

おかげ横丁です。

 

  

  

このあと近鉄宇治山田駅から今日の宿泊先の四日市のホテルへ。

雨も本降りになってきました。

伊勢神宮でパワーをもらったようです。明日からの東海道歩き頑張ります。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「和歌山ブルース」を訪ねて

2016-05-24 19:42:11 | 旅行

5/21から始まる「きのくに海南歩っとウオーク」に参加の為、5/20昼からの新幹線で和歌山へ向かいました。

博多から和歌山まで約5時間。和歌山に着く頃は、もう5時を廻っていました。

  

和歌山は初めて行く所、ガイドブックなどを見ながら主だった所を訪ねることにしました。

和歌山というとすぐ浮かぶのが、古都清乃さんが昭和43年に発表した「和歌山ブルース」です。

  

私が若いころ、よくカラオケで歌っていた曲です。この曲に合わせて和歌山市内を探索していきます。

先ず「和歌山城」へ。

和歌山城は、天正13年(1585)、紀州を平定した羽柴秀吉は、弟の秀長に命じて紀ノ川河口部の「岡山」(現在の虎伏山)に城を築かせた。これが和歌山城の始まりである。

その後、秀長は郡山城(奈良県大和郡山市)に移り、家臣の桑山重晴が和歌山城代となる。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が37万6千石で紀伊に入国し、和歌山城主となる。浅野氏は連立式天守を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。

大手門を岡口門から一の橋の方面に移し、本町通りを大手筋として城下町を整備した。

元和5年(1619)、徳川家康の10男頼宣が55万5千石を拝領し、紀州藩が成立する。頼宣は二の丸を西に広げ、砂の丸・南の丸を新たに造成した。

紀州徳川家は、尾張・水戸とともに「御三家」と呼ばれ、8代将軍吉宗、14代将軍家茂を輩出した。 (和歌山城HPより)

今年は、吉宗が将軍になって300年経つそうです。

 

和歌山城は、江戸時代、別名「虎伏山竹垣城」と呼ばれていました。和歌山城の建つ山が海上から見ると猛虎が伏している姿に似ています。

 

 

石垣にもそれぞれの時代によって石材や積み方の技法が違います。築城当初は、結晶片岩を使った「野面積み石垣」、浅野幸長の時代には、砂岩を使い、

細工して接ぎ合わせて積む「打ち込みハギ石垣」、徳川期には、花崗斑岩を精密に加工して積んだ「切り込みハギ石垣」と変化しています。

  

また、和歌山城の石垣には、2110個の「刻印」が見られます。デザインは、約40種類、家紋やその省略文字、方位、日付、人名と考えられています。

  

   

「七福の庭」とは、七個の巨石を七福神に見立てて配置した庭です。七福神が宝船に乗っている様子を表しています。何とも粋ですね。

  

「鞠と殿さま」歌碑

私達が子供の頃、女の子は、この歌を歌って鞠遊びをしていましたね。 ♪ てんてんてんまり てんてまり・・・・・・♪

昭和4年に作詞「西条八十」、作曲「中山晋平」で作られました。歌碑には5番の歌詞が書かれています。(西条八十氏直筆)

そういえば、和歌山市のマンホールは、この手毬がデザインされています。

  

天守閣に着きました。残念ながら5時を廻っており、中に入ることはできませんでした。

  

 

お城の中は、50年物の南高梅の木があります。南高梅の梅干は柔らかく本当においしいですね。

 

西の丸には、面白い形をした橋(廊下)があります。「御橋廊下」といって、かつて西の丸と二の丸を結ぶ橋としてつくられ、藩主とその付き人のみだけが渡ることができたと言われています。その姿が見えないように屋根を付けている珍しい橋です。

  

和歌山城の廻りは、ワンちゃんの散歩コースなんでしょうか、この時間ワンちゃんを連れた方が何人もおられました。

お城の石垣には、「猫ちゃん」もいました。

  

お城から市街地に戻ります。歩いていると、「京橋と京橋御門」の案内板がありました。

この橋が架かっている市堀川は、かつては和歌山城の外堀であり、京橋は城内と城外の境界でもあった。そのため、京橋には京橋御門が存在し、

厳重に警備されていました。紀州藩主が参勤交代で江戸へ向かう際は京橋御門を通ったとされています。

橋には、お駕籠のモニュメントがあり、時間になると「鞠と殿さま」の童謡が流れるようになっているそうです。

   

和歌山ブルースには、ぶらくり丁の恋灯り という歌詞があります

ぶらくり丁は昔から続く市内の主要商店街。本町2丁目あたりから和歌川を越した築地の周辺まで、本町通、ぶらくり丁、中ぶらくり丁、東ぶらくり丁、

ぶらくり大通り、北ぶらくり丁などのっ商店街が1.5kmほどアーケード街が続くきます。

観光客向けの店は少なく、洋装、洋品、和服などの衣料品店が多い。それもそのはず、昔、このあたりでは衣料品をぶらくって(ぶらさげて)売っていたという。

ぶらくり丁の名もそれに因んでいます。私は、ブラブラ歩いているからこのブラクリと思っていましたが違っていたのですね。

  

 

中ぶらくり丁と東ぶらくり丁の間の大門川にかかる雑賀橋のほとりには、「和歌山ブルース」の歌碑が建てられています。

  

和歌山ブルースの歌碑は、近づくと歌が流れます。 あいたいみたいすがりたい・・・・・・ 

 

 真田堀ならネオン川・・・・・ 

真田堀通りには、歓楽街になっており、飲食店などが集中しています。

真田堀というと、NHK大河ドラマの真田幸村が建設したのでしょうか?調べてみてもそれらしきことが書いてません。

然し、真田幸村は、関ヶ原の後、ここ和歌山・九度山に幽門されています。

  

真田堀通りに和歌山の中華そばのお店がありましたので、入ってみます。

和歌山では、ラーメンのことを「中華そば」と呼んでいます。然し、コンビニのご当地ラーメンには、和歌山ラーメンと表示されることもあります。

和歌山中華そばは、豚骨と鶏がらをじっくり煮込み秘伝の醤油タレをブレンドしています。そういえば、和歌山は醤油の発祥地ですね。

中華そばが出来上がるまでテーブルに置いてある「早寿司」をいただきました。早寿司とは、紀州名物の腐り鮨「なれずし」を

十分に発酵させていない状態の鯖寿司である「早なれ」のことです。

和歌山中華そばは、味は濃厚で麺は細麺。あまりにもおいしかったのでスープも全部いただきました。

明日は、海南でのウオーキング大会。しっかりスタミナをつけました。

   

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東京・上野公園の桜&柴又へ

2016-04-12 07:31:09 | 旅行

4/8 (金)市川で行われるウオーキング大会参加の為、福岡発9:30の飛行機で東京へ行きました。

ホテルのチェックインまで時間がありましたので、ブロ友「ホロホロさん」のブログを見て、上野公園の桜が綺麗でしたので私達も行ってみました。

福岡の桜は、2日前の嵐で花が散り、上野の桜はどうかな?と思ってましたら、ピークは過ぎてはいましたが、まだまだお花見ができます。

 

先ず、腹ごしらえ。

前から行きたかった「精養軒」。窓際の席で桜を見ながら食事をしたかったのですが、満席の為、一般席へ。

料理もちょっと奮発して、「ビーフシチューセット」を注文しました。流石、老舗の味ですね。美味しかった~。

 

   

お腹も一杯になった所で上野の桜見学です。平日なのに人が多く、特に外国の方が多かった。

 

 

    

  

  

不忍池は、野鳥の宝庫。人が餌をやっているせいか、あまりにも人になついていて、野鳥本来の「野性味」があまり感じられなかった。

雀がこんなに人に近づくなんて見たことがありません。

 

この鳥の名は???

  

ユリカモメは、東京都の鳥。

  

  

上野公園というと、やはり西郷さんですね。ここからは、スカイツリーも見えます。

  

  

     

このあと、京成上野駅から高砂駅で乗り換えて、寅さんのふるさと「柴又」へ行きました。

柴又駅前には、「寅さん」の銅像があります

  

この風景、どこかに寅さんがいるような感じですね。

映画「男はつらいよ」第1作は、私がまだ学生時代でした。当時、東映では、高倉健、鶴田浩二、藤純子さんなどの任侠映画がヒットし、又、大映では、「座頭市」、

松竹でもこのような映画を、ということで寅さんの映画が生まれたのでは、なかったでしょうか?本来は、4~5作で終わる予定が、ヒットし、26年間、48作品が

生まれました。

  

柴又帝釈天は、経栄山題経寺(日蓮宗)と言い、寛永年間(1629)に開基され、開山上人を下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠(ぜんないんにっちゅう)上人とし、

その弟子の第二代題経院日栄(だいきょういんにちえい)上人が実際の開基である。(HPより)

映画では、帝釈天に笠智衆さん、佐藤蛾次郎さんがいましたね。

  

御朱印をいただきました。

  

今日のホテルは、千葉・市川です。

柴又からどうやって市川に行こうかスマホで確認します。

JR金町から常磐線で新松戸へ、新松戸から武蔵野線で西船橋、西船橋から中央・総武線で市川。金町から約1時間かかりました。

市川駅前には、ヤマザキパンのベーカリーショップがあります。

山崎製パンは、ここ市川が発祥地です。1948年、京成国府台駅付近で飯島藤十郎氏が創業。家庭に配給された小麦粉を預かってパンにする委託加工が主でした。

創業者が、飯島氏だったらどうして「山崎」パン???? 

当時は、食管制度で製パン業は厳しく規制されており、創業者の飯島氏は、他の名前で製パン製造に関わっていたため、飯島氏名義では、許可が下りなかったので

義弟だった「山崎」の名義を借りて許可をとり、現在に至っています。

  

    

 

 

 

 


青春18きっぷで三重・亀山から茨城・古河へ

2016-04-04 11:15:09 | 旅行

3/26からの茨城県古河市花桃ウオークに参加の為、青春18きっぷで三重・亀山から茨城・古河まで行きました。

  

亀山から古河まで約490㎞、料金は、7880円です。それを青春18きっぷ(1枚当たり2370円)で行こうとするのだから・・・・・・・

前期高齢者になって、青春と名がつくのは、妙に照れくさいですが、時間はたっぷりあります。

関西本線亀山発7:00で名古屋へ。名古屋着8:09.

  

名古屋では、名物のモーニングをいただきました。

  

東海道本線 名古屋発9:17で豊橋へ。豊橋10:09着。

  

豊橋駅より10:22浜松行。浜松10:57着。

まだ早かったけど浜松でお昼をいただきました。

  

浜松発12:29 興津行

 

お昼を食べてポカポカ陽気なのでウトウトしてきます。隣には、小学生ぐらいの子供さんでしょうか、この子供さんも船を漕いでいます。

何回も私の肩に頭をぶつけてきますので、お相撲の決まり手でいうと、「肩透かし」を使うと、見事に倒れてきました(笑)。それでも本人起きないようです。

13:14島田駅到着。ここから始発で熱海行が出ます。島田発13:25熱海行。

  

このローカル線の一番の楽しみは何といっても富士山です。

途中興津駅あたりで見えるのでは?と期待していましたが、曇っていて見れませんでした(残念)。 熱海着15:08。

車内は、部活の高校生がたくさん乗ってこられ満員状態。

熱海駅からは、15:11 宇都宮行と連絡しています。これに乗ると古河まで乗り換えなしで行ける(JR快速アクティー・JR上野東京ライン)ので何としても乗りたいのですが

乗り換える人が多く、その方たちが階段に殺到していますので先に進みません。それでもどうにかこうにか間に合いました。

電車は東京駅を経由して古河へ。古河駅17:54着。(東京駅での乗り換えもなく大変快適でした)

  

移動時間11時間、乗車時間9時間、乗換回数5回で古河に着きました。流石、東海道です。乗換もスムーズにいき9時間の乗車でもそんなに疲れませんでした。

地方だと行くとそうはいきませんね、乗換に2時間ぐらい待つこともあります。

青春18きっぷ楽しめました。

 

古河には、美味しい餃子屋さんがあるとのことですので、そこに行ってきます。

創業昭和39年 なんと50年も営業してるんですね。

期待は膨らむばかりです。

 

   

何と、丸い餃子 です。一見たこ焼きかな?とも思いました。タレに漬けいただきますが、これ、いけます。美味しいです。

水餃子も注文しました。水餃子は、普通の形でしたが、これもいけます。ニンニクをたっぷりいただき明日のウオーキングに備えました。

余り美味しくて 翌日の予約をしてしまいました(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


JR九州「アクティブ65」を使って指宿へ。

2016-01-29 18:47:04 | 旅行

ブログが前後しますが、今回、いぶすき菜の花マーチには、JR九州の「アクティブ65」全九州版を使って行きました。

これは、JR九州全九州エリア内、3日間乗り放題(但し、博多~小倉間山陽新幹線は除きます)です。

折角ですので、九州の観光列車を利用して指宿までの行程です。

1日目  博多駅発7:49 九州新幹線「さくら405」 熊本駅着 8:27

      熊本駅発8:37 特急「くまがわ1号」  人吉駅着 10:01

      人吉駅発10:09 いさぶろう1号    吉松駅着 11:22

           吉松駅発11:25 はやとの風1号   鹿児島中央駅着 12:49

      鹿児島中央駅発15:01 菜の花号  指宿駅着 16:15

本当は、鹿児島中央駅から「いぶたま」にも乗車したかったのですが、指定席が一杯の為快速「菜の花号」にしました。

このうち、いさぶろうは、肥薩線のスイッチバックを走行します。

  

くまがわは、3月のダイア改正で廃止、人吉~熊本間は、いさぶろうが運行することになります。

くまがわ車内で北九州のNさんご夫妻と合流。

くまがわは、八代から日本三大急流「球磨川」を通り、人吉へ。球磨川では、霧が発生していました。

  

 10:01くまがわ1号人吉駅に到着。ホームには、「いさぶろう」が待っていました。

  

  

然し、吉松からの上り列車が雪の為徐行運転しているため、約20分ぐらい停車。この間、人吉駅の名物駅弁「栗めし」を買いに行きました。

   

約20分ほど遅れ、人吉駅を出発。肥薩線沿線は、1/17の雪がまだ残っており、時速25km/hの徐行運転です。

大畑(おこば)駅に到着。ここから列車は、スイッチバックに入ります。

下記、大畑駅からスイッチバックを動画にしました。(運転士さんが1号車から2号車に移動しますので少し時間がかかります。)

https://youtu.be/hVqjOA5avNU

大畑駅から矢岳駅を過ぎると日本三大車窓の一つである霧島連山を見ることができます。(真ん中より少し右側に桜島が見えます)

肥薩線には、もう一つスイッチバックの区間があります。肥薩線(当時は、鹿児島本線)開業時、SLだったため、坂道が登りきれず、このようなスイッチバックが

取り入れられました。

  

  

「いさぶろう」は、約30分遅れて吉松駅に到着。本来ならば、ここから観光列車「はやとの風」に乗る予定でしたが、列車が遅れたため、もう出発していました。

11:59吉松発の普通列車で隼人駅へ。

肥薩線は、1909年(明治36年)門司~鹿児島全通の時は、鹿児島本線の一部でありましたが、1927年(昭和2年)、八代~鹿児島間の海岸沿いに新線が

開通すると、元の区間は、「肥薩線」と改められました。肥薩線区間は、開業当初に出来た駅舎が今もなお残っています。

  

隼人駅からは、日豊本線に乗り換えます。隼人駅発13:14で鹿児島中央駅へ。途中鹿児島のシンボル「桜島」が見えてきました。

  

鹿児島中央駅13:44到着。Nさんたちは、指宿枕崎線「いぶたま」に乗るため、ホームを移動。私達も乗りたかったのですが、指定はもう満席でした。

次の列車まで時間がありますので、市電に乗って天文館に向かいました。

そうそう、鹿児島中央駅には、「若き薩摩の群像」の銅像が建っていました。

江戸末期に国禁を犯して海外留学を果たし、新生日本を建設する原動力となった19人の薩摩藩英国留学をモチーフにしています。

この中には、朝ドラ「あさが来た」に出てくる「五代友厚」もいます。

  

市電を天文館で降り、向かった先は、南国しろくまで有名な、天文館むじゃき。

  

   

冬場に食べる「しろくま」もいいですね。(笑)

それから鹿児島中央駅に戻り、15:01快速なのはな号で指宿に向かいました。

 

 

 

 

 


会津若松~姫沼~郡山へ

2015-11-01 07:42:41 | 旅行

10/21 福島県最後の日。朝食後ホテルをチェックインしてすぐ向かったのが、会津鶴ヶ城

場内には、大河ドラマの「新島八重」さんの銅像が建っていました。

   

場内を歩いていると、会津藩士が・・・・・・・・

一緒に来ているMさんは、下関の人、言い換えるなら「長州」です。1868年の戊辰戦争以来仲直りの握手です。

  

 国道115号線沢尻から入った所の中の沢保育所の脇に「高原列車は行く」の歌碑があります。

 汽車の窓からハンケチふれば 牧場の乙女が花束投げる 明るい青空白樺林 山越え谷越えはるばると ララララ ララララララララ 高原列車はララララ行くよ 

これは、昭和29年、岡本敦郎さんが歌ってヒットした曲です。ここの高原列車とは、硫黄鉱石を運ぶため、大正2年~昭和44年まで営業していた「沢尻軽便鉄道」のことです。

昭和29年というと、私はまだ御幼少の頃でしたが、なぜか、この歌覚えているんです。(笑)

  

歌碑の前でKさん指揮の元皆で「高原列車は行く」を合唱しました。Kさんの奥さんは、コーラス隊に入られているせいか、高音で綺麗な声で歌われていました。

 国道115号線を更に進みます。ここには、裏磐梯紅葉のスポット「姫沼」があります。

車を止めちょっと中に入りました。

  

この「姫沼」の紅葉をデジブックにしました。こちらです。   

 

デジブック 『裏磐梯「姫沼」の紅葉』

 

会津のKさんご夫妻とは、この先のトンネル手前のパーキングでお別れ。

Mさんご夫妻と私たちは、帰るため郡山駅へ向かいます。

途中のPAでは、吾妻連峰、安達太良山を見ることが出来ました。

  

今日(21日)のGPSです。

郡山駅でレンタカーを返しましたが、3日間の走行距離は500kmを越えていました。

あっと言う間の3日間の磐梯の旅でしたが、この旅を企画していただいたKさんには、大変お世話になりました。

お陰様で大満足です。

Kさん本当に有難うございました。

 

 


「西吾妻スカイバレー」おまけに「リンゴ狩り」

2015-10-29 18:27:56 | 旅行

五色沼の紅葉の後、西吾妻スカイバレーを通って白布峠の紅葉見学に行きました。

 

西吾妻スカイバレーは、桧原湖と山形・白布峠を結ぶ約18kmのコースです。

途中、桧原湖周辺の紅葉を楽しみます。

桧原湖は、明治21年(1888)、磐梯山の噴火による山体崩壊により出来た湖です。最大水深31m、湖岸周31,5kmの裏磐梯最大の湖です。

 

  

車で走っていると紅葉が綺麗でついつい車を止めて眺めたくなります。こんな時、レンタカーにもドラレコがあればな・・・・・と思います。

車は、標高700m、800mとヘアピンカーブを登って行きます。

途中「東鉢山七曲り」という所に来ました。ここからは、桧原湖と磐梯山が見えるそうですが、生憎霞んでいてはっきり見ることができません。

   

  

標高1404m地点が山形県との県境の「白布峠」。

廻りを見渡すと、もう紅葉シーズンが終わったのか葉っぱを落とした木々だけが見えます。山もそろそろ冬支度かな?冬はこの道路も通行止めになるのでしょうね。

白布峠には、「こうすけ文学碑」が建っています。「吾妻晴れ山 くもり山 曇りのち晴れ 人の世も」。

浜田広介は、山形県出身の児童文学者です。

  

白布峠を越えると「山形県」に入ります。入ってしばらくすると「最上川源流」の碑があります。

 

 

 

  

 

せっかく米沢に来たのだから「米沢牛」を食べようとHさんが提案しますが、Kさんは、お昼は、もう決めているということでKさんに従うことにしました。

峠を下ってくると、道路の両側に私達を迎えてくれるのがいます。

お猿さんです

  

刺激しないよう、そろりそろりと行って写真を撮らせていただきました。そういえば、白布峠の所には、「白猿に注意!」という看板がありました。白猿もいるのですね。

平地に戻りました。右側には、高原野菜直売所があります。イナゴや、白菜、大根・・・・・・白菜なんか、大きいもので250円です。九州では@450ぐらいしていたのでは、なかったかな?

近くだったら買って帰るのに・・・・・・

 

このお店、野菜を買うと「大根汁」がサービスでいただけます。大きな鍋で作られていますのでこれがまた、美味しいんです。温まります。おいしいのでお代わりしました。

もちろん食べた後の器なんかは、セルフで洗って片付けます。米沢牛とは、違いますが、お財布にやさしく大満足です。

  

道の駅ばんだいで休憩の後、会津のリンゴ園に行きました。

   

会津は、リンゴの産地です。昨年の朝ドラ「マッサン」では、余市でウイスキーを売る前に「リンゴジュース」を販売していましたが、余市のリンゴは、会津藩士によってひろめられました。

戊辰戦争(1868~69)に敗れ、逆賊の扱いを受けた会津藩士は、江戸での謹慎後、余市に入植し開拓を始めます。その中でリンゴは、この地で結実しその果実は、徐々に外部へ

出荷されるようになりました。マッサンが作ったリンゴジュースは、会津がルーツなのです。

 

  

先ほど、「大根汁」を食べましたが、リンゴは別腹なんでしょうか、試食に出されたリンゴは、あっという間に私たちの口の中に運ばれていました。

今日の宿は、会津東山温泉です。

ゆっくり温泉に入って旅の疲れを癒します。それにしても会津は、陽が暮れるのが速いです。九州と比べ約1時間ぐらい違いますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『磐梯五色沼の紅葉』(福島県裏磐梯)

2015-10-27 07:11:30 | 旅行

 10/20は、裏磐梯にある「五色沼」に行ってきました。

裏磐梯の美しい風景は、明治21年(1888)の磐梯山噴火によって生まれました。神秘的な色の五色沼もその一つで、磐梯山火口に生まれた酸性の銅沼が水源です。

その水は、五色沼周辺で湧きだすアルカリ性の水と混ざり合い、すると化学反応によって沼の中で鉱物の粒子が出来、水中を浮遊し白く濁った層ができます。

そこに太陽光が当たると青系色の光のみを反射し、神秘的なパステルブルーの沼に見えます。(パンフより)

 

裏磐梯ビジターセンターより「五色沼探勝路」があります。(約3,6km)ここを歩いてみることにしました。

カメラは、一眼とコンデジ。あっと言う間に200枚もの写真を撮りました。

詳しい写真は、下記のデジブックにまとめましたので、よろしければご覧下さい。こちらです。  

 

デジブック 『磐梯五色沼の紅葉』

http://www.digibook.net/d/1b44e377a109bec02acf5d0682b05a5e/?viewerMode=fullWindow