昨日の雨も早朝には止み朝から青空が広がっています。
小田原ウオーキング2日目
今日は「二宮尊徳を訪ねる雄大な西部丘陵コース」30km。
秀吉の[一夜城~尊徳生家]を廻るコースです。
出発式まで少し時間がありましたので小田原城本丸を見ることにしました。
小田原城は、室町時代に大森氏が築いた山城でその後戦国大名北條氏の
居城になってから関東支配の拠点として次第に整備され豊臣氏の来攻に備えた
城下を囲む総構の出現に至って城の規模は最大に達しました。
然し、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城を初めとする豊臣秀吉の小田原攻めに
より北條氏は滅亡することになりました。
その後大久保氏が城主となり、城は三の丸以内に規模が縮小されましたが、
稲葉氏の時代に行われた大規模な工事によって生まれ変わりました。
次いで大久保氏が再び城主となり東海道をおさえ箱根を控えた関東地方の防御の
要として幕末にいたりました。 (大会会報誌より)
8時北條手作り甲冑隊によって銅門が開かれスタート。
早川橋を渡ると小田原漁港が見えてきます。
ここを通過するといよいよ坂道に差し掛かります。
この坂道最初はスピードで人を追い越していきますが、ずーっと
坂道が続きます。いささかペースが落ちます。
いつも坂道は私強い方なんですが、この坂しんどいです。
それでもエッサ エッサ エサホイサッサ・・・・・
登って下ってホイサッサ・・・・・
何とか頑張って歩いています。
トラックもシフトダウンしてこの坂を登っていきます。
※途中の小田原市内です。
1時間ほど登ったら「石垣山一夜城歴史公園」が見えてきました。
やっとこ どっこいホイサッサ
ここが最初の休憩ポイント。
一夜城は歴史的にも有名ですね。
天正18年(1590)秀吉が北條氏を15万の大軍を率いて包囲し、
その本営として総石垣造りの城を築いたことから石垣山と呼ばれるようになりました。
世に石垣山一夜城又は秀吉の一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城に当たり山頂の林の
中に塀や櫓の骨組みを造り白紙を張って城壁のように見せかけ一夜の内に周囲の樹木を
伐採し、それを見た小田原城中の将兵が士気を失ったためと言われています。
然し、実際には延べ4万人が動員され、築城には天正18年4月から6月まで
約80日間が費やされました。秀吉はこの城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び
茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。(大会会報誌より)
一夜城公園を過ぎても坂道は続きます。
近くの山々を見て富士山を探しますが、見つけることができません。
小田原からの参加者の方に富士山の方向を聞いてみると箱根の山の向こうに
富士山が位置すると教えて頂きましたが箱根の山の上には雲がかかっており
富士山を拝むことが出来ませんでした。
太閤橋、地球博物館を通ると入生田駅(いりうだ)が見えてきました。
これは箱根登山電車です。
箱根病院からまた坂になります。
ここのモミジがきれいでしばしモミジ見学です。
辻村植物公園、わんぱくらんど、小田原フラワーガーデンを通り本日2回目の
チェックポイントの諏訪の里公園に入りました。
ここで約15km。時間は11時丁度。
10分ぐらい休憩し又歩き出します。
ここからは、急な下り坂。
スピードが出ないようセーブして降ります。
この大会、「救援ボランティア隊」も一緒に歩いています。
何かあったときにすぐ駆けつけられるよう配慮されています。
そういえば、昨日はバイクで廻られていました。
小田急線の踏切を越えてしばらく行くと「尊徳記念館」があります。
江戸時代農村改革をされた二宮尊徳(金次郎)の生家跡です。
僕らが子供の頃には、小学校に二宮金次郎の銅像がありました。
働きながら学ぶことを教えられましたが、本当はこの銅像に登って遊んでいました。
今も小学校には金次郎の銅像があるのでしょうか?
二宮尊徳は
1787年7月栢山村の農家の長男として生まれた。元々金次郎の家は比較的恵まれた
中流農家でしたが近くを流れる酒匂川の氾濫で田畑を失い、若くして両親を失い苦難の
少年時代を送ることになりました。
やがて金次郎は荒地の開墾や武家奉公などによって自立、24歳で一家の再興を成し遂げました。
また仕えていた小田原藩家老服部家から財政の立て直しを依頼され見事成功させてみせます。
更には小田原藩主大久保忠真公に下野国桜町領の立て直しを命じられ10年間の苦労の末
桜町を見事復興させました。
以後600あまりの村の農業振興を指導、天保の大飢饉の歳には小田原藩などを救いました。
彼の教えは「報徳仕法」と呼ばれ予算の範囲で生計を立て節約して余剰を生み将来に
向けてこれを譲る合法的な考え方は彼が亡くなった後も多くの弟子達に受け継がれました。
(大会会報誌より)
ここがチェックポイントになっています。時間は11時45分。
15分ぐらい休憩し12時丁度にまた歩き出します。あと10km。
後半は比較的平坦な道が多く少しスピードを上げて歩いています。
昨日も歩いた酒匂川沿いを下水道処理場から小田原市街地に出てきます。
13時33分小田原城銅門広場にゴール。
前半は坂道ばかりでどうなるかと思いましたが、予定時間にゴールしました。
広場では「つみれ汁」が振舞われ美味しく頂きました。
2日間、残念ながら富士山は見えませんでしたが、行く時に新幹線の中から見た
富士山が綺麗でした。
※2日目のGPSです。
小田原ウオーキング2日目
今日は「二宮尊徳を訪ねる雄大な西部丘陵コース」30km。
秀吉の[一夜城~尊徳生家]を廻るコースです。
出発式まで少し時間がありましたので小田原城本丸を見ることにしました。
小田原城は、室町時代に大森氏が築いた山城でその後戦国大名北條氏の
居城になってから関東支配の拠点として次第に整備され豊臣氏の来攻に備えた
城下を囲む総構の出現に至って城の規模は最大に達しました。
然し、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城を初めとする豊臣秀吉の小田原攻めに
より北條氏は滅亡することになりました。
その後大久保氏が城主となり、城は三の丸以内に規模が縮小されましたが、
稲葉氏の時代に行われた大規模な工事によって生まれ変わりました。
次いで大久保氏が再び城主となり東海道をおさえ箱根を控えた関東地方の防御の
要として幕末にいたりました。 (大会会報誌より)
8時北條手作り甲冑隊によって銅門が開かれスタート。
早川橋を渡ると小田原漁港が見えてきます。
ここを通過するといよいよ坂道に差し掛かります。
この坂道最初はスピードで人を追い越していきますが、ずーっと
坂道が続きます。いささかペースが落ちます。
いつも坂道は私強い方なんですが、この坂しんどいです。
それでもエッサ エッサ エサホイサッサ・・・・・
登って下ってホイサッサ・・・・・
何とか頑張って歩いています。
トラックもシフトダウンしてこの坂を登っていきます。
※途中の小田原市内です。
1時間ほど登ったら「石垣山一夜城歴史公園」が見えてきました。
やっとこ どっこいホイサッサ
ここが最初の休憩ポイント。
一夜城は歴史的にも有名ですね。
天正18年(1590)秀吉が北條氏を15万の大軍を率いて包囲し、
その本営として総石垣造りの城を築いたことから石垣山と呼ばれるようになりました。
世に石垣山一夜城又は秀吉の一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城に当たり山頂の林の
中に塀や櫓の骨組みを造り白紙を張って城壁のように見せかけ一夜の内に周囲の樹木を
伐採し、それを見た小田原城中の将兵が士気を失ったためと言われています。
然し、実際には延べ4万人が動員され、築城には天正18年4月から6月まで
約80日間が費やされました。秀吉はこの城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び
茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。(大会会報誌より)
一夜城公園を過ぎても坂道は続きます。
近くの山々を見て富士山を探しますが、見つけることができません。
小田原からの参加者の方に富士山の方向を聞いてみると箱根の山の向こうに
富士山が位置すると教えて頂きましたが箱根の山の上には雲がかかっており
富士山を拝むことが出来ませんでした。
太閤橋、地球博物館を通ると入生田駅(いりうだ)が見えてきました。
これは箱根登山電車です。
箱根病院からまた坂になります。
ここのモミジがきれいでしばしモミジ見学です。
辻村植物公園、わんぱくらんど、小田原フラワーガーデンを通り本日2回目の
チェックポイントの諏訪の里公園に入りました。
ここで約15km。時間は11時丁度。
10分ぐらい休憩し又歩き出します。
ここからは、急な下り坂。
スピードが出ないようセーブして降ります。
この大会、「救援ボランティア隊」も一緒に歩いています。
何かあったときにすぐ駆けつけられるよう配慮されています。
そういえば、昨日はバイクで廻られていました。
小田急線の踏切を越えてしばらく行くと「尊徳記念館」があります。
江戸時代農村改革をされた二宮尊徳(金次郎)の生家跡です。
僕らが子供の頃には、小学校に二宮金次郎の銅像がありました。
働きながら学ぶことを教えられましたが、本当はこの銅像に登って遊んでいました。
今も小学校には金次郎の銅像があるのでしょうか?
二宮尊徳は
1787年7月栢山村の農家の長男として生まれた。元々金次郎の家は比較的恵まれた
中流農家でしたが近くを流れる酒匂川の氾濫で田畑を失い、若くして両親を失い苦難の
少年時代を送ることになりました。
やがて金次郎は荒地の開墾や武家奉公などによって自立、24歳で一家の再興を成し遂げました。
また仕えていた小田原藩家老服部家から財政の立て直しを依頼され見事成功させてみせます。
更には小田原藩主大久保忠真公に下野国桜町領の立て直しを命じられ10年間の苦労の末
桜町を見事復興させました。
以後600あまりの村の農業振興を指導、天保の大飢饉の歳には小田原藩などを救いました。
彼の教えは「報徳仕法」と呼ばれ予算の範囲で生計を立て節約して余剰を生み将来に
向けてこれを譲る合法的な考え方は彼が亡くなった後も多くの弟子達に受け継がれました。
(大会会報誌より)
ここがチェックポイントになっています。時間は11時45分。
15分ぐらい休憩し12時丁度にまた歩き出します。あと10km。
後半は比較的平坦な道が多く少しスピードを上げて歩いています。
昨日も歩いた酒匂川沿いを下水道処理場から小田原市街地に出てきます。
13時33分小田原城銅門広場にゴール。
前半は坂道ばかりでどうなるかと思いましたが、予定時間にゴールしました。
広場では「つみれ汁」が振舞われ美味しく頂きました。
2日間、残念ながら富士山は見えませんでしたが、行く時に新幹線の中から見た
富士山が綺麗でした。
※2日目のGPSです。